マリー=ルイーズの回想その2
第90章
伯父伯母の家に預けられて、私はとてものびのびと過ごした。どちらかといえば内向的な性格だったので、積極的に外出し社交を求めるほうではなかったけれど、安心できる伯父の家にやってくる訪問者にもてなすことは好きだった。そうして私はいろいろな国の言葉を習得し、たくさんの知識を蓄えていった。伯父は私の才能を褒め、大学にも出入りさせ、学ぶ機会をたくさん与えてくれた。伯母は、私が疲れない範囲で社交の場に積極的に連れ出してくれた。
しかし16歳になる前に、また状況が変化した。14歳を過ぎた頃、父の商会の共同経営者であるシャルル・リシャールが、私に興味を持ち、母にいろいろ問い合わせをしてくるようになった。
母はてっきり何か良い縁談話でもあるのかと思い、私のことを積極的に“売り込んだ”ようだった。しかしシャルルが母に申し入れたことは、さまざまな国と商売する際の、通辞として手伝ってもらえないか、ということだった。
父はあまりよい顔はしなかったが、母はどこかで良縁に出会うチャンスがあるかもしれないと、私の意思を聞くこともせずに勝手に承諾してしまった。「マリー=テレーズはまだうちの娘ですから、母親である私が決めます。」と宣言して。
後から経緯を聞いた伯父は相当怒ったらしいが、私は15歳のときに父母のもとに帰ってくることになった。
自分の意思ではなかったけれど、シャルル・リシャールはとても紳士的で合理的な人物だったので、私は伯父とはまた違う意味でよい関係を築くことがでしたし、仕事の手伝いも新しいことを学べるので、とても充実した毎日を送ることができた。シャルルに感謝され、才能を評価してもらえることが、純粋に嬉しかった。
たまに母から、良い殿方との出会いはないのかという問い合わせや、社交の場での心得とかの説教を受けたが、そのころ反抗期に入った弟が「家の仕事は継がない、ジェノヴァに行って傭兵隊長に弟子入りする、などと勝手なことを言い出して家を飛び出したりしていたために、父も母はあまり私に構う暇がなかったようだった。
そして何より、感情より数字、憧れではなく現実を優先する『商い』という行為は、私にとって恋愛などよりずっと心地よいものだったのだ。
そうして私はいつの間にか適齢期と呼ばれる年齢を過ぎてしまっていた。
ある日突然、私がまもなく二十歳になることに気がついた母は、シャルルを責め立てたのだった。「あの子は、さまざまな国の言葉が話せるのだから、どこの国の人間でもいい。マリー=テレーズにふさわしい伴侶を探してきて」と。
私はデュボア家の後継者となる弟もいるし、このままの生活で満足していたけれど、母にせき立てられたシャルルは、取引先相手の周りに、年頃の未婚男性でよい人物はいないかと探し始めた。
実務家のシャルルはすぐに候補者6名ほどのリストを作成し、合理的に商談で回る順番に、一人ずつ私と会う機会を用意してくれたのだった。
最初の一人目はジェノヴァで両替商を営む家の長男で、私より二歳ほど年下だった。十八歳の彼は、まだ嫁をもらうことなど考えていないと宣言をしたところ、突然、一昨年に妻を亡くしていたその父親が、「自分の後妻に」と申し出てきたので、シャルルも私も当惑した。さすがに私の実父より8歳も年上の人物と見合いさせるのは私の母も躊躇するだろう、とシャルルは丁重にお断りし、私たちはジェノヴァを後にした。
二人目は私より4つ年上で、ピサの大きな商家の家でリヴォルノの港にいくつもの倉庫をもっている大きな取引先の次男だった。シャルルは彼を本命視していたのだが、実際お会いしてみて、明るい人物だが、招待されたピサの邸宅での昼食会で、私はちょっと軽薄な第一印象を持ってしまった。会話があまりかみ合わず、話は盛り上がらなかった。しかし先方の両親は私のどこが気に入ったのか、おおいに乗り気で、これからナポリに向かう私たちに、帰りがけもぜひ拙宅にまた立ち寄るように、それまでに承諾のお返事をいただければなおさらありがたい、と言われ、シャルルもさすがにその性急な様子を不審に思ったという。
結局、その理由はすぐにあっけなく判明した。リヴォルノの港からナポリに向かおうとしたところ、大雨にあって2日間ほど出航できず足止めになったとき、娼館に出入りするその商家の次男を目撃してしまったからだった。女遊びが酷く、庶子もすでに何人かいて、早く身を固めさせないと、と両親は焦っていたらしい。このときは私より自分の判断の甘さにシャルルが大いに反省し、ナポリに着いたときは、
「次からは、もっと周辺を慎重に調査してから判断しよう。あなたも気になることがあったら、正直に私に打ち明けておくれ。」と私に何度も念押ししてきたくらいだった。
そうして、シャルルが作った候補者リストの3人目として出会ったのが、ベレッツァ&ドゥッティ商会の跡取りだというジュリオ・ベレッツァという青年だった。
最初の二人とのお見合いのせいで、私はすっかり期待も失望もない凪のような状態だったけれど、マルセイユ出発前に送られてきたジュリオの解剖学の本を読んで、彼というより、彼の研究内容にとても興味を持っていた。普通の女性だったら衝撃を受けてしまうような図版も、私は冷静に見ることができたのは、幼い頃からの習慣で、感情を抑制する習慣があったからかもしれない。心を落ち着けて純粋な知的好奇心から本を読むことができた。そして実際、このジュリオという若き研究者にお会いしてみると、知識や経験も豊富で、興味深い話を披露してくれて、こんなに楽しく会話できる殿方は初めてだと思った。
結果的に、私は彼にとても惹かれていたのだろうと思う。後ろ髪引かれるという思いを初めて感じ、何か縁があるのではないかという予感がした。こんなことは生まれてはじめての経験だった。とても不思議な気持ちで、あのときは心がふわふわと浮ついていたように思う。
近いうちに再会できることを楽しみにアマルフィに移動し、しかし仕事上の用事で急ぎマルセイユに戻ることになったが、その途上で座礁事故にあって、急遽入院することになった病院が、彼が創設にかかわった機関であることも、そこに懐かしい伯父が赴任していてくれたことも、何か彼との因縁というか、なおさら運命的なものを感じざるをなかった。
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ここまで、暗い船室の中で自分の半生を回想したところで、マリー=ルイーズは、膝に置いたリュートの作品集の上に、涙の染みが広がっていることに気がついた。
今私が感じているこの感情は、私の一方的なものに過ぎない。ジュリオ・ベレッツァの心の中に別の女性がいる。そう、あの魅力的なヴェネツィアの貴婦人が。彼女がジュリオに献辞をささげた経緯は分からないけど、二人の間には、深い心の交流があったに違いない。
私が彼を振り向かせることなどできようか。




