妻と元妻
第19章
ソフィーは母に会えて、大喜びでした。はじめての妊娠の為の不安と、あまり体調がよくなかったので、ここのところソフィーにしては珍しく、内向的な後ろ向きな気分になってしまいがちだったのです。やはり落ち込んだとき慰めてくれるのはいつも生き生きと明るい母でした。ジャンカルロも母娘二人水いらずにしてあげようと、しばらくして部屋を出て行きました。
親子水いらずになると、アナスタシアは、早速ソフィーに、姉妹たちの様子を話し出しました。
「カサンドラのところには、まだ子どもが出来ないのよ。あなたが妊娠したと聞いて、さっそくヴェネツィア駐在の大使に、何かよい薬がないか、問い合わせの手紙を書くように頼まれてしまったわ。マレーネは、おととし一度流産してしまったし、結局、最後に結婚したあなたが、最初に母親になりそうね。」
「でも、お母様、マレーネのところには、後継者としては宰相の前の奥様のお子様が、お二人もいらっしゃるでしょう。」
「ええ、上の方はもう15、6歳ではなかったかしら。ただとても病弱で、男の子なのに、乗馬もまともに出来ないそうよ。下の子は女の子だし、いま難しい年頃で、実はマレーネとの仲は、あまりうまくいってないの。いずれにせよ宰相としては、立派な後継者が欲しいのでしょう。だから再婚を急がれたのだし。あのとき、あなたが宰相と結婚していれば、と思うこともあったけれど、結局、ジャンカルロ殿と一緒になって、幸せそうで、本当によかったわ。まあ、今回の事件のことは大変だったでしょうけど、皇帝陛下も、とくにお咎めする様子もなさそうだし、いまもジャンカルロ殿は陛下のお気に入りの一人だし。だから安心して元気な子をお産みなさいね。」
翌日、ジャンカルロは、マリアエレナとアランを連れて、パドヴァに向けて出発しました。自分の邸宅にとどまり、毎日のようにエドモンの様子をうかがっていたリッカルドは、エレノアが出発する前に、マリアンヌをヴェネツィアの女子修道院に送り返しておいたのです。もちろん当初はマリアンヌも素直に従ったわけではなかったのですが、リッカルドが提示したある条件に納得し、多額の追加報酬を請求することなく、ヴェネツィアに帰っていきました。
エレノアは、パドヴァに近づくにつれ、だんだん落ち着かなくなってきました。エドモンの具体は、相当悪いのだろうか? マリアとはどういう人なのだろう? だんだんと口数が少なくなるエレノアとは反対に、マリアエレナはアランと一緒に、エドモンとの再会の期待に胸を膨らませていました。
翌々日、ついに、無事にエドモンのもとに到着しました。お屋敷に入ると、さっそくエドモンのいる寝室に通され、そこにマリアも待っていました。手紙の文面から想像したとおりの、しとやかでひかえめで優しい表情に、エレノアもちょっと緊張が和らぎました。
「お待ちしておりました。エレノア様。エドモンの妻マリアです。ご挨拶は後にいたしましょう。私はサロンにおりますので。」
それだけ言うと、マリアはお辞儀をして、部屋から出て行きました。
エレノアたち一行は、初対面のマリアの率直な態度は予想外だったので、お辞儀を返すのがやっとでしたが、エレノアは、すぐエドモンの傍にかけ寄り、ひざまずいて声をかけました。
「エドモン、私よ、エレノアよ。」
そして、それだけ言うと、もう何もいえなくなってしまったのです。頬はこけ、やつれた、精気のない顔、苦しそうな息づかい。しかし、その目は、しっかりとエレノアを見ていました。
「お養父様、元気を出してください。アランを連れてきました。私の息子、あなたの孫です。ほら、口元のあたりなんて、お養父様そっくりよ。」
そろそろ人見知りする歳になったアランは、はじめマリアエレナのスカートの影に隠れておびえていたのですが、エドモンが微笑みかけると、おずおずとエドモンのほうに近づいてきました。
「アラン。私の孫。」そう小さくつぶやいたエドモンの声に、こらえきれず泣き出してしまったエレノア。
マリアエレナとジャンカルロは、もう少し父の傍にいたかったのですが、母と二人きりにしてあげようと、アランを連れてサロンにいるマリアにもとに向かいました。
「ご挨拶が遅れて、大変失礼申し上げました。このたびのご招待、心より感謝申し上げます。」
まずジャンカルロが、マリアに挨拶し、それに答えてマリアは
「私のほうこそ、まだご面識のない方々に、差し出がましいお願いをいたしまして、大変恐縮しております。お応えいただいて、本当に感謝しております。」
それだけの会話で、マリアエレナは、マリアの優しい物腰や謙虚な態度に、すぐ好感を覚えてしまったのです。
サロンにはリッカルドも控えていました。
「ジャンカルロ殿、マリアエレナ殿。本当にありがとう。来ていただけて本当によかった。ご覧いただいたとおり、率直に申し上げてエドモン殿の回復は、はかばかしくない。残された時間、できるだけ愛する人たちに囲まれて過ごしてほしかった。」
「残された時間?」マリアエレナは思わず声をあげてしまいました。
「そう、残念だが、完全に快復する見込みは、大きいとはいえないようだ。少なくとも、教会軍総司令官に復帰することは、もうないだろう。ジャンカルロ、我々は、嘆いている時間すら十分にないようだ。」
このリッカルドの言葉に、マリアは、リッカルドがジャンカルロと二人きりで話すことがあるのだろうと察し、こうマリアエレナに声をかけました。
「マリアエレナ様、よろしければ、私とあちらで一緒にアラン様のお相手をさせていただけますか? 少しお話したいこともございます。」
マリアエレナは、マリアが手紙で打ち明けた秘密の恋人への好奇心もあって、すぐにマリアの誘いに応じて、別室へと向かいました。
「私のしたことをお許しいただけますでしょうか? お母様のことを伺ったのは、リッカルド殿からです。何度もエドモン殿が、うわ言で、苦しそうに「エレノア」という名前をお呼びになるので、どうしても、その方と会わせて差し上げたくなって、リッカルド殿ならご存知に違いないと、はしたなくも、聞き出してしまいました。」
「いいえ、そんな。妻の立場でありながら、母を呼んでくださった寛いお心に感謝こそすれ、非難することなどございません。」
「あの、私からの手紙で、ご存知のことと存じます。決して、妻の立場をひけらかすためではなく、愛する方に会っていただきたかったのです。エレノア様とは別の意味で、私はエドモン殿を、そう敬愛しております。だからこそ、謹んでエレノア様にお越しくださるようお願いしたのでございます。愛する人と会えない苦しみは、私も。」
そこまで言いかけて、マリアははっとして黙りこんでしまいます。
「大丈夫です。あなたのお気持ちは、私もわかっております。幸い、私は今、愛する夫と結婚しておりますが、これからは、皇帝陛下の命令で、結婚後初めて、離れ離れの生活になりますし、それに。」
とマリアエレナはマリアの顔をまっすぐみつめて告白しました。
「私も、かつて、愛してはならない人を愛してしまい、苦しんだ経験がございます。」
その言葉ぬマリアもまっすぐにマリアエレナを見つめて訪ねます。
「その方とはもう会えないのですか?その方は、まだご存命なのですか?」
「彼は、ある国で暮らしております。いまだに独身ですが。しかし今は、私にとって、夫と同じくらい信頼できる大切な存在です。そういう関係になるまで、何年もかかりましたが、夫も彼を信頼してくれたので、そういう間柄になれたのかもしれません。なかなか会えることはないのですが、手紙は頻繁に出すことができます。」
「素晴らしいことですね。私は、今では、会おうと思えば会える立場にありながら、気持ちを表に出すことは、決して許されないのです。ただ、長い間、私だけが一方的に思いを断ち切れずにいると思っていたのですが、最近になって、あの方も、そうだとわかりました。それだけが今の私の心の支えです。」
「とても、魅力的な方のようですね。同郷の方ですか?」と問いかけるマリアエレナに
「はい。まだほんの若い頃から、お慕いしておりました。」と答えるマリア。
マリアは、マリアエレナの相手が誰なのか、まったく想像がつかなかったが、マリアエレナのほうは、なんとなくマリアの相手に思い当たる気がしていました。
別室では、リッカルドはいつものように、中心になって議論を進めていました。。
「しばらくはカルロスが総司令官でうまくやってくれるだろうが、エドモン亡き後のことを、また検討しなくてはならない。今こんな話を君にするのは酷だとわかっているが。」
「いいんです、リッカルド。私はこのあとマリアエレナとアランを皇帝のもとに届ける義務がある。招待とは名ばかりの人質だ。今まで、私はエドモンやカルロス、フィリップやあなたのお陰で気楽過ごすことができた。今こそ、恩返ししなくては。」
「おそらく、カルロスの動きが中心になるだろう。今のところは、フィリップとうまく連携をとって、法王の動きを抑えることができる。まあ、法王もナポリの動きを牽制でき、かつメディチへの返済の目処もついたので、一安心というところだろうが。問題は皇帝の動きだ。残念ながら、我々は人質をとられて、なかなか難しくなるだろう。」
「そうだな。ソフィーのところに入る宮廷の情報もアナスタシア殿経由のものだから、噂話や誰がどうしたという類の話ばかりで、あまり役立たないだろうし。」
「いや、そんなことはない。人間関係がどうなっているかだって重要な情報だ。」
「なるほどね、さすが情報収集のプロだな。しかし、皇帝の政治的な動きを知るには心もとないのは確かだ。けれど、リッカルド殿、あなたには秘策があるんでしょう?でなきゃ、こんな話を始めるはずはない。」
「あなたは、フィリップ殿とは違う、兄弟なのに面白い。特有の素晴らしい勘があるようですね。その通りです。一昨日、辞令がおりました。私は、神聖ローマ帝国駐在大使となります。来週には、宮廷に向かいます。」
「これは心強いですね。」
「しかし、これから皇帝の側近の中に、親しい人間関係を作らなければなりません。それにはしばらく時間がかかるでしょう。長く皇帝を支えている宰相は、かなり老練な政治家として有名ですし、タフな交渉相手になりそうです。」
「ああ、この間、アナスタシア殿が訪問してくださった後、ソフィーが言っていた。あなたもご存知と思うが、ソフィーの一番下の妹が、宰相の後妻なのでね。まだ二人の間に子どもは出来ていない。それに、ソフィーの妹は、どうも宰相の先妻の子どもたちと、あまり上手くいってないらしい。しかも宰相殿の長男は、かなり病弱な方のようだね。」
「病弱ね。ジャンカルロ殿、言ったでしょう? ソフィー殿の情報も、実に重要だと。」
「まさか、またマリアンヌを送り込もうというわけではないでしょう?」
「ええ、マリアンヌ本人は、かつてアナスタシア殿の侍女として働いていますし、皇帝からの意向を受け、我々の手で、フランソワのもとに送り込まれたこともあります。もっとも、我々が法王のもとに送り込んだとき、やっかいを起こしましたから、慎重にしないといけないとは思いますが。マリアンヌ本人は今、自分のことで手一杯のはずですが、きっと協力するでしょう。」
「そういえば、どうやって、マリアンヌを説得してヴェネツィアに帰すことができたんだ?報酬の増額を要求していたんじゃなかったのか?」
「ある取引をしてね、そしたら彼女、喜び勇んで女子修道院に帰っていきましたよ。」
「喜び勇んで? いったいどんな取引をしたんだい?」
かなり真剣な話し合いの最中でしたが、ここで珍しくリッカルドはふふ、微笑むと面白そうに説明を始めました。
「マリアンヌに、女子修道院付属の薬局の開業許可を与えたのです。女性向けに、白い肌を保つためのお手入れクリームとか、髪を金髪に染めるための、ぬり薬とか。まもなくヴェネツィア中の女性の間で話題になるでしょうね。」
「彼女が商売を始めたというのか?」
「皆さま、彼女をあまり快く思っていらっしゃらないようですが、ジャンカルロ殿、私は前から彼女の腕と能力は買っています。それに商売となったら、彼女は信用が全てだとわかっている。そこは、さすがヴェネツィア女ですよ。下手なことをして、自分の信用を落とすようなことは決してしません。ヴァティカンにいたときの騒動の原因も、命を狙われたことが発端で周りの動静を探ろうとしてのことだと判明しました。それに、今回は宰相のお膝元に派遣されるわけですから。ヴェネチィア以外に販路が広がるという魅力には、勝てないでしょうね。特に皇帝の宮廷にいる女性達を顧客にしたいでしょうし。」
「具体的には何をするんだい?」
「宰相殿のご子息の体質を改善してもらうために、ちょっと協力をお願いするつもりです。そのかわり、彼女の取扱商品を宮廷の女性達に売り込むチャンスを与えます。もともと皇帝の姪に仕えていた女ですから、宰相殿も門前払いすることはないでしょう。」
「皇帝も宰相も、彼女自身を知らないと?」
「皇帝は、姪の元侍女ということは知っているかもしれませんが、彼女がフランソワの元愛人だったことや、前法王の看護のために仕えていたことはご存知ないのです。我々ヴェネツィアが送り込んだから、皇帝は、そこから得た情報しか知らない。誰が情報を収集したかは関心がないようですよ。マリアンヌ自身にはもちろんお会いになったことはない。それは宰相殿も同じです。」
「あなたの考える計画を聞いていると、リッカルド殿、あまりにうまくできていて、恐ろしくなることがある。」
「情報をもとに、論理的に組み立てているだけですよ、ジャンカルロ殿。そこで、早速協力していただけないだろうか。アナスタシア殿を通じて、宰相の長男殿の治療に、マリアンヌを推薦してもらう。」
「新任のヴェネツィア大使の紹介ということで?」
「いきなりというのも、何か裏に意図があると思われるので、避けたいと思います。あの宰相殿は、海千山千の人間ですから。そこで、もっと間接的に。宰相殿ご自身が周囲からマリアンヌの評判を聞いて、自らアナスタシア殿に照会するという形が理想的です。」
「いったいどうやって、そんな仕掛けを仕込むんだ?」
「確か、ソフィー殿には、もう一人妹御がいらっしゃったはずですね。」
「ああ、そう、カサンドラ殿だ。かつてのソフィーの婚約者だった相手を、妹のマレーネ殿と争って、略奪結婚したらしいが。もう結婚して5年もたつのに、まだ子どもが出来ないらしい。」
「そのカサンドラ殿のために、妊娠しやすくなるような、何かいい薬はないかと、アナスタシア殿からヴェネツィア駐在の帝国大使に、内密の問い合わせがあったのですよ。先日、その大使から私に、心当たりはないかと、密かに相談が入ったのです。」とリッカルド。
「これは驚いたな。で、君が後見役として大使に紹介したマリアンヌの調合した薬で、見事カサンドラ殿が妊娠したとなったら、彼女は吹聴して周るだろうね。特にライバルの妹、マレーネ殿に対しては。マレーネもその薬を欲しいと、夫に懇願するだろうな。」
「そして、宰相殿は、私に、彼女の打診をする前に、アナスタシア殿に彼女の照会をするでしょう。もちろんアナスタシア殿が、自分の元侍女だという人物保証までして、マリアンヌを宰相に推薦してくれれば、あとはマリアンヌの腕次第です。マレーネ殿の妊娠はもちろん、ご長男の体質改善まですれば、さすがの宰相殿も、マリアンヌだけでなく、彼女の後見者として、私を信用してくれるようになるでしょう。」
古今東西、「妊娠しやすくなる薬」などというものは存在しません。せいぜい媚薬と称されるようなものくらいはあったかもしれません。そもそも妊娠は神の支配する領域であって、人間がそれを左右できるとなれば、それは魔女の行う神への冒涜行為とみなされてしまうでしょう。とはいえ、子どもが出来ないという悩みは古今東西共通のものでした。
リッカルドは、大使として神聖ローマ帝国に赴任する前に、マリアンヌをヴェネツィア市内の自分の屋敷に招待したのです。現実主義者同士の間では、条件さえ決まれば、話は早い。マリアンヌには、「妊娠しやすくなる薬」はなくても、カサンドラとマレーネの性格と関係、宰相をめぐる状況をリッカルドから聞き、十分対応できる勝算がありました。体質改善も、気力快復という意味なら、心当たりがあったので、それをリッカルドに話すと、彼も納得しました。話は決まったのです。
ちょうどリッカルドがマリアンヌと秘密の相談をしていた頃、マリアンヌはマリアたちと、お別れの晩餐をしていました。明日は、アランとともに皇帝の宮廷に「人質」として滞在するために出発しなくてはなりません。結婚前に皇帝の姪のもとに預けられたときと、傍目には似ていても、今回は、意味することは全く違うことは皆わかっていました。しかもエドモンの容態は、一進一退を繰り返している状況のままで、会話が弾むはずもありません。押し黙った女性たちを前に、ジャンカルロは何かと明るい話題を探そうと考えていたのですが、彼自身も、身重のソフィーが心配で、宮廷にマリアエレナを送り届けたあと、すぐ自分の城に戻りたかったのですが、エレノアの処遇をどうしようかと、一人悩んでいたのです。
「母を一緒に宮廷に連れて行くことは、人質を増やすことになるだけで、絶対避けたいところだ。しかし。」
そんなジャンカルロの心の内を悟ったのか、マリアがはっきりと宣言したのです。
「エレノア様、よろしければどうぞ、お好きなだけ、この屋敷にご滞在いただけますか?私は全くかまいません。どうぞお気兼ねなさいますな。それどころか、一緒に看護してくださる方が増えて、私も心強い限りです。リッカルド殿からも、そうしていただくのが一番だと承っております。」
儀礼的に躊躇の態度を示しはしたものの、エレノアはすぐ喜んでご招待をお受けますと返事をし、ジャンカルロも、マリアに感謝の意を表しましたが、マリアエレナは、この申し出を聞いて、マリアの相手は、やはり、彼女の秘密の恋人は、あの方なのだわ、と一人納得したのでした。