素晴らしい方
第88章
シャルルとマリー=テレーズが卸売りを前提とした大量注文の可能性があると知ると、その場でカテリーナは薬草院の現院長を呼び出してもらい、薬草院の中庭で話しあいが出来るように、と依頼してくれたのです。
もともとこの薬草院には親の代から寄付をしてきたフォスカリ家次期当主の奥方からのお願いとあれば、薬草院はすぐに対応したのですが、そんな事情を知らないシャルルとマリー=テレーズは驚き、恐縮していまいました。
しかもカテリーナは話し合いが終わるのを待ち、『帰り道の途中ですから』と言って、アルド社の前まで話をしながら案内してくれたのです。シャルルとマリー=テレーズは、社交的で陽気なカテリーナの魅力にすっかり魅了されてしまった状態でした。
別れ際、シャルルはカテリーナにお礼をしたいと申し出ました。
「初対面にもかかわらず、ご親切ありがとうございます、カテリーナ様と知り合いになれたことは、我々にとっては僥倖でした。ぜひ何かお礼をさせていただきたいのですが…。」
「あら、私は我が一族が支援している薬草院の商品を、ぜひ他の国にも販路を拡げてほしいと思っているだけですわ。何よりマリー=テレーズ様が、お使いになられて良品と評価していただいたのが、とても嬉しかっただけなのです。」
「しかしそれでは、あまりに…何かお礼の贈り物をしたくとも…」
「あら、それでは…よろしければ私がアルド社から出版した本を一冊、購入してくださらないでしょうか? 音楽はお好きですか?」
「え? 」
「ふふ、それではお会いできて光栄でしたわ。ぜひまたヴェネツィアにいらっしゃる機会がございましたら、当家にお立ち寄りくださいませ。歓迎いたします。」
*****
シャルルとマリー=テレーズがアルド社の建物に入ると副支配人という男性が待っていてくれました。
「フォスカリ家の方より言付かっております。『万人のための薬草学』を二冊でよろしかったでしょうか?」
「ありがとうございます。あと追加で、カテリーナ様が出版されたという本も購入させていただきたいのですが…」
「かしこまりました。今、奥の倉庫から持ってこさせますので、そちらの椅子におかけになって少々お待ちください。」
副支配人は一緒に椅子に座ったので、シャルルは尋ねてみました。
「カテリーナ様にはとても親切していただいたのですが、ヴェネツィアの貴婦人の皆様は、皆様あのように初対面の外国人にも気軽に親しくしてくださるものなのですか?」
「はは、カテリーナ様は特別かもしれません。この国の名家の一族という上流階級の夫人でありながら、大変活動的で福祉活動にも熱心でいらっしゃいます。何より素晴らしい音楽の才能もお持ちで、お求めいただいた本も、彼女が作曲したリュートという楽器の作品集です。」
「ああ、それで音楽はお好きですか、と」
「1年前の聖アントニオの祝日にパドヴァの大聖堂前の広場で、病院開設を祝う祝典があったのですが、そのときリュートを演奏されたのが、カテリーナ様だったのですよ。しかも臨月という身重のお体で。この国のお偉方も聴衆も皆、演奏の素晴らしさに拍手喝采でした。」
つい先日までその病院に滞在していたマリー=ルイーズは、マルクからこの祝典の当日の様子を詳しく聞いていたので、思わず
「まあ、カテリーナ様は素晴らしい才能と行動力と社交性をお持ちの方なのですね。なんて魅力的な方なんでしょう!」
と声をあげてしまいました。
*****
明日出航するマルセイユ行きの船に荷物を運び入れ、その晩はマルセイユの商館の一室で夕食をとったシャルルとマリー=ルイーズでしたが、翌朝早くわざわざマルクが商館まで「あなたあてに、ジュリオから速達が届いたので」とわざわざに手渡しにきてくれたのでした。
文面を見て、頬を赤らめるマリー=ルイーズ。その横顔を見てマルクはにっこりと微笑んだあと
「良かった、ちゃんとクリームを入手してくださったのですね。数日の間は、毎日傷口の消毒とクリームの塗布を忘れないでください。」
と最後に傷跡のチェックをしたあと、別れの挨拶をして、港まで二人を見送ってくれたのでした。
クリームを積んだ木箱とともにマルセイユに戻る帰りの船の中で、マリー=テレーズは早速『万人のための薬草学』を読み始めたのですが、ふとリュートの作品集を手に取りました。
――あんなにお美しくて華のある貴婦人であられるのに、気さくで親切で社交的で、その上で作曲家、演奏家として著名でいらっしゃる。なんて素晴らしい方なのかしら。病院創立の祝賀会のために臨月の身で演奏をされて、“この病院の最初の患者さんは病気でも怪我でもなく、出産のための妊婦さんだった”とマルク先生がおっしゃっていたけれど、まさかそれがカテリーナ様だったとは…。神に愛でられた星のもとに生まれた方というのはいらっしゃるものなのね…。――
博識なマリー=テレーズでしたが、さすがに楽譜は全く読めないので、パラパラとページをめくっていたのですが、ふと最初の頁に書かれた献辞の文字を見て、そのまましばらく固まってしまったのでした。




