マリー=ルイーズ の消息
第87章
マルクとパオロからの手紙が届いた翌週のはじめに、マリー=ルイーズからの手紙が届きました。『届くときは続けざまに届くものなんだな』などと思いながら手紙を開封したジュリオは書かれている内容を読む前に、気づいたのです。
『あれ? この紙って、パドヴァ大学のものじゃないか…。』
マリー=ルイーズの手紙は、まさにパドヴァ大学の教授たちだけに提供される、大学の透かし紋章入りの紙だったのです。
マリー=ルイーズからの手紙:
―『ずっとお手紙を出せずに、本当に申し訳ありません。今、私はパドヴァ大学の医療施設に入院しております。なぜマルセイユに戻っていないのか、なぜここに入院しているのかこれからご説明いたします。
アマルフィでの商談の際、予想外の前渡し金を必要とする大きな取引の話が突然舞い込みまして、叔父は慌てて現金を用意するためにマルセイユに戻る必要が発生しました。普段は信用取引をしておりますが、このときは初めての取引相手であり、どうしてもある程度のお金を保証金として前金で渡す必要があったのです。交渉権獲得は早い者勝ちという状況で、慌ててマルセイユ行きの直行便に乗り込みました。しかし帰国途中で大変な時化に遭い、船が座礁し、そのときの事故で私は腕に怪我を負ってしまいました。たまたま助けてくれた船がヴェネツィア船籍の船で、そのままヴァネツィアに入港し、そこからパドヴァの医療施設へと向かったのです。
不幸中の幸いなのか、たまたま幼い頃お世話になったモンペリエの親類がパドヴァ大学に赴任してきたところだったことが分かり、私もさらに船旅でマルセイユに戻れるような状態でもなかったので、『親戚のアンドレ(マルセイユの親類のことです)がいるなら、できるだけ早くパドヴァで治療した方が良い』という叔父シャルルの判断で、ジュリオ様の作られた病院にお世話になることになりました。
ジュリオ様をはじめ、ベレッツァ家の方々を心配させたくなかったことと、利き腕を怪我してしまっていたために、今までご連絡できずにおりました。ナポリでの歓待のお礼状も出さず、大変失礼いたしました。
ここでは本当に快適に過ごさせていただいております。無事手術も済み、経過も良好、このようにお手紙を書けるまで快復しましたので、ご安心ください。
昨日たまたま内科の先生でいらっしゃるマルク様から、退院後に自分でできる『消毒』の方法を伺う機会がございまして、ジュリオ様の本に書かれていた『消毒』について思い出しましたので、そのお話をしましたところ、ジュリオ様と仲の良いご友人だとわかり、
マルク様が紙とペンとインクを持ってきてくださって、『リハビリだと思って、ジュリオに近況報告の手紙を書いてあげてください』とおっしゃってくださいました。
来週には退院し、アマルフィにて商談締結を済ませた叔父がパドヴァまで迎えにきてくれることになっております。
マルク様のすすめで、ヴェネツィアの薬草院に立ち寄り、傷あとにとても良く効くというラベンダーのクリームを購入する予定です。
少々腕が痛くなってまいりましたので、このあたりでお許しください。
とりいそぎ、近況をご報告させていただきました。
今までのベレッツァ家の皆様からのご好意に、心より感謝いたします。
ジュリオ様もどうぞご自愛くださいませ。―― ルイーズ・デュボア』
『腕を怪我した』と読んだとき、ジュリオの動悸は速まり、無事治療が済んだとあっても、ジュリオは自分でマリー=ルイーズ怪我の具合を診察したくてたまらなくなってしまったのでした。そしてそのときはじめて、自分の心の中で彼女の存在が、いつのまにかとても大きなものになっていたということに気づいたのです。
-本当は、座礁事故は怖かっただろうし、腕の怪我も痛かっただろう。それに一人で入院、手術なんて、とても心細かっただろうに…。でも周りに心配や迷惑をかけまいと、冷静で落ち着いた態度を崩さなかった姿が用意に想像できる。そしてすべて事が無事済んでから連絡してくるなんて…。所作は控えめで物腰は柔らかく、見た目は可愛らしい…でも胸の内は毅然としている女性…何だろうな、この守ってあげたいと思う気持ちは…。-
ジュリオはすぐにパドヴァ大学あてに速達の返信を出したのです。
『次に会えるのはいつでしょうか? ぜひあなたともう一度お話をしたい』と。
*****
「無事商談はまとまったよ。これが公証人の用意した契約書の写しだよ。こんな状況で申し訳ないが、目を通してくれないかな。」
叔父シャルルがパドヴァまでマリー=ルイーズを迎えに来てくると、ヴェネツィアに向かうブレンダ運河の船上で早速彼女に契約書の写しを手渡しました。
「いや、それにしてもアンドレがパドヴァ大学にいてくれて本当に助かった。」
「はい、私も久しぶりにお会いできて懐かしかったですし、安心して手術を受けられました。アンドレ様のおかげで、個室を用意していただけましたし、病院の方々もとても良くしてくださいました。ありがたいことです。」
「普段のあなたの人徳かな。ところでヴェネツィアでは、薬草院に立ち寄ればいいんだね?」
「傷跡にとても良い特製のクリームが売られているそうで、病院でも手術後の手当に使っていたものです。しかも、とても良い香りがいたしますの。」
「それは素晴らしいな。ふむ、良い品物なら多めに仕入れてもいいな。」
「オイルならマルセイユでも珍しくありませんが、クリームというのが画期的かもしれません。」
ヴェネツァアに着くとすぐ薬草院に向かった二人は、そこでいきなり木箱に入った2ダースほどのクリームを注文したので、薬草院の売店の係の女性と、その場に買い物に来ていた若い女性は思わず驚いて、 「何にお使いになるのですか?」と問いかけてきました。
「そんなに大量にお使いになるのですか? 全身にお使いになるのでなければ、なかなか使い切ることはないかと思いますよ。」
「私どもは商用でマルセイユから来た者です。もし好評だったら、今後正式に国で販売することも考えたいと思いまして…。」
そう答えるシャルルに続いて、マリー=ルイーズも
「実は私、腕に怪我をしてしまいまして、昨日までパドヴァの病院にお世話になりました。そこで治療にこのクリームを使っていただいて、とても良いお品だと実感いたしまして…」
「そうでしたのね。しかもとてもよい香でしょう? 私も、昔から愛用しておりますわ。香りをおさえたこちらのものは、幼い子どもにも使えますのよ。」
「それは素晴らしいですな!ではそれも、1ケースほどいただきましょう。」
「あの、差し出がましいようですが、もし商品としてお取り扱いするお考えであるのでしたら、このクリームを開発された薬師院初代院長のかたが書かれた本も購入されることをおすすめしますわ。商品の効用についてや、使い方などが詳しく載っていますので、商品説明に役立つかと存じます。」
「その初代院長の方と直接お話することはできますかな?」
「残念ながら、故人ですので…。」
「なるほど、ではぜひその本も二冊ほど購入させていただくことにしましょう。一冊はマリー=ルイーズ、本好きなあなたが一人で読みたいだろうからね。」
「叔父さま、よろしいのですか?」
「もちろんだよ。いろいろ教えてくださってお嬢さん、ご親切ありがとう。」
「あら、もう人妻ですわ。もうすぐ一歳になる息子がおりますの。」
「それは大変失礼いたしました。私はシャルル・デュボアと申します。」
「フランスのかたですね。私はカテリーナ・フォスカリです。本のタイトルは『万人のための薬草学』、アルド社から出版されておりますから、アルド社に行けば確実に手に入るかと存じますわ。」




