届いた手紙、届かない手紙
第86章
マリー=ルイーズとの再会を楽しみにしつつも、家業の状況を把握するのに忙しくしていたジュリオでしたが、ある日の夕飯時に家族で集まった席でマルガリータ叔母が少し悲しそうな顔で、夫サルヴァトーレにこう切り出したのです。
「ねえ、あなた、ジュリオにさっきの知らせのこと、お話ししてくださらないかしら?」
「ああ、構わないよ。ジュリオにしてみたら、もしかしたら残念な知らせかもしれないが…。」
「何でしょうか? 叔父上。」
「リシャール商会のシャルルから連絡がきてね、どうもマルセイユで何かあったらしくて、アマルフィから直接マルセイユに戻ることにしたのだそうだ。うちの商会との取引に関する契約書は、マリー=ルイーズ嬢のおかげで調っていたから問題はないのだが、その、…。」
「ジュリオ、あなたとマリー=ルイーズ嬢はまたお会いする約束をしていたでしょう? それがかなえられなくなったとかで、彼女が申し訳ない、と。その代わり、マルセイユに戻って状況が落ち着いたらすぐにあなたにお手紙を書くそうよ。だから、許してあげてくれないかしら? 本当にごめんなさいね。」
夫サルヴァトーレの言葉を継いでマルガリータは、まるで自分が詫びているような声でジュリオに謝ったので、思わずジュリオは笑ってこう答えました。
「そんな、マルガリータ叔母様、気になさらないでくださいよ。確かにもうちょっとお話したいこともあって残念ですけど、またお会いする機会はあるでしょう? それに今の私は一日でも早くこの商会の力になるために,仕事を管理できるようにならなくてはなりませんし、同時に大学での医療機関設立の準備も始めなくてはいけないので、正直時間が足りないというか…。でも、とても良い方のようなので、マリー=ルイーズ嬢とは交流を続けたいと考えていますよ。」
「そうだな。彼女の有能さは我々にとっても将来有意義…いや、それは先回り過ぎだな。余計な事を言ってしまってすまない。まあ、われわれとしてはジュリオ、おまえの意思を尊重するから。」
ジュリオの本心としては、まだマリー=ルイーズ嬢に対して恋心のようなものは芽生えていませんでしたが、彼女の人間性に好印象を持ったので、彼女からの手紙を心待ちに仕事に注力していました。しかし、彼女からの通信はなかなか来ず、気がつけばいつのまにか3週間以上経ってしまったのです。
そしてマリー=ルイーズからの手紙より先に届いたのがマルクからと、そしてパオロからの手紙でした。
パオロからの手紙は来るとは予想していなかったジュリオは少し驚き、長い道のりを経てきたと感じさせるような、かなりゴワゴワになってしまった紙束から遠路の道のりに思いをはせ、じっくりと眺めました。封をした蝋の印璽はしっかりしており、パオロがそれなりにちゃんとした暮らしをしていることがうかがえて、ジュリオは少し安心し、早速読みました。
―『・・・マラッカは温暖なところだが、夏の暑さには少々まいってしまった。それに湿気がかなりあって、快適に過ごすためには現地の人達の着ている服を借用することになったよ。特にこちらの女性の衣装は色も鮮やかで、見た目にもとても美しい。やはりその土地の風土にあったものがそれぞれにあるのだな、と今さらながら思ったよ。
今、マテオたちが布教に向かおうとしている島国の貿易商人から、言葉を習いはじめたところだ。本来なら私も、鉄砲といった武器ではなく平和的な物資の交易を行いたいと思っている。ただ、彼の国はまさしく群雄割拠の時代であり、だからこそ商機があるのだと、その貿易商人が言っていた。
そして今、とても興味を持っているのが、その島国で織られている絹の布なんだ。最上級品を見せてもらったのだが、とても品質が良くて驚いてしまった。庶民ですら、つむぎ、とかいう絹糸をつかった布を着ているのだそうだ。私が想像していたより、ずっと文明や技術の進んだ国のようなので、上陸する日を楽しみにしている。そして近い将来、この最高級品の絹製品を持ち帰って、商売をできればと考えている。』――
パオロの手紙に、カテリーナや息子アダムことはほとんど言及されていなかったのは、直接手紙を出しているからに違いないと思っていたジュリオでしたが、実はこのときフォスカリ家の誰も、まだパオロからの手紙を受け取っていなかったのです。もしパオロがヴェネツィア政府からの派遣として渡航していたならば、もちろん頻繁に報告の通信を出していたでしょう。しかし今はポルトガル王と契約した一貿易商人としてのマラッカ滞在であり、現地の指揮官であるアランにその場で状況報告すれば済んでいたので、キプロスに駐在していたときの習慣など、さっさと放棄し、マラッカでの刺激的な毎日に夢中になっていたのでした。
新しい挑戦に心を躍らせているパオロの様子が目に浮かび、どう返事を出そうか迷ったジュリオは、とりあえず先にマルクの手紙を読んでしまおうと、手にとりました。こちらの手紙の内容は、パドヴァの病院の状況報告だろうと予想がついていたのですが、少し気になることも書かれてあったのです。
マルクからの手紙:
―『・・・パドヴァ大学付属の医療施設は、フォスカリ殿のご尽力もあり、来年度の予算も問題なく確保してもらえることになった。立ち上げからの安定稼働が評価されて、一安心していたのだが、ただジュリオの後継者のあの若い外科医が、実家の後継者問題で国に戻ってしまうことになり、慌ててこのひと月ほどは後任を探していたんだ。
幸いなことにモンペリエ大学医学部に長く務めていた人物が手をあげてくれて、先日着任してくれた。もう50歳になろうとする男性なのだが、実地経験も豊富で、人柄も温厚で、早速病院内の同僚からも学生からも患者からも慕われて本当に助かったよ。そのアンドレ・デュボアという人物なのだが、とても気さくで、私にも早速効果的な止血の方法を教えてくれて、とても参考になった。それで思いついたんだが、フェデリーコⅡ世大学での病院建設の話も進んでいるのであれば、将来お互いの大学同士で、人的交流とかできるようになったら素晴らしいと思わないか。何ならヨーロッパ中の大学間で知識やテクニックなどの情報交換の仕組みができたら、なんてどうだろう?』――
デュボア? モンペリエ大学から? もしかしてこのアンドレ・デュボアという壮年の医学者は、マリー=ルイーズ嬢の親類なのでは? 確か幼い頃、事情で母方の親族のいるモンペリエに住んでいたと言っていたような。でも母方の親類なら、姓が同じなのは少しおかしいな。単なる偶然かな。
マリー=ルイーズ嬢から手紙が届いたら、早速返信にこのことを聞いてみよう、と思いつつ、マルクとパオロへの返事の手紙二通を書き始めたジュリオでしたが、そのうちの一通は相手に届くことはなかったのでした。
このときすでにパオロは、東方の果ての島国へと旅立っていたのです。




