気の合う二人
第85章
「あの、ジュリオ様、私は年齢もあなた様とあまり変わりませんし、自分が女性として魅力があるのかどうか自信がございませんので、将来のお相手としてお考えいただなくとも…ただ、お仕事上のお付き合いもございますし、これからも良い友人として接してくだされば、大変嬉しく存じます。」
フェデリーコⅡ世大学に向かう途上で何も話せなくなってしまっていたマリー=ルイーズの緊張を和らげようと、ジュリオが用意しておいたご先祖のアルフォンソ神父の宝剣の話を少し脚色して話したあと、やっとマリー=ルイーズは打ち解けて、ジュリオに話しかけてきました。
「いえいえ、私も何でも興味を持って聞いてくださるあなたとお話するのがとても楽しいですし、何より初対面からあなたに尊敬の気持ちを抱きました。」
「尊敬?」
「ええ、驚きました。交渉の場での知識、態度、実務能力、どれも私にはかなわないことばかりでした。父ジャコモも申しておりましたが、本当にあなたの部下としてそばで学びたいくらいです。」
「そんな、たまたま伯父が私にさまざまな機会を与えてくれた経験があったまでです。実際に交渉の場を仕切っていたわけではありませんわ。」
「そのとても謙虚な態度と物腰でありながら、あまりに優秀な実務能力とのギャップにすっかり心を奪われてしまいました。私は医学者ですから、勉強熱心なところもとても好ましく思います。」
「女性として、その、可愛げがないとお感じになられませんか?」
「いえ、全く。逆に同じ目線でお話できるのが、とても刺激的です。何しろ、あの解剖学指導書を興味深く読まれたおっしゃってくださったことがとても嬉しかったですよ。」
「ありがとうございます。あ、ちょっとあの本について質問してよろしいでしょうか? あの32ページ目の12行目のところから説明されていた『消毒』という単語の意味は…」
「え? え? ちょっと待ってください。私の本を暗記されていらっしゃるのですか?」
「あ…突然ごめんなさい。」
ちょうどそのとき、大学の正門前に着いたので会話は中断され、ジュリオは図書館にマリー=ルイーズを案内しました。
「ちょっと恩師の所に行って、しばらく話をしてこなくてはならないので、ここで待っていただけないでしょうか。あなたが好きなだけ蔵書を見せてもらえるように係の人間に話しておきますよ。」
「ええ、早速ここに連れてきてくださって、ありがとうございます。見たい書物がたくさんあって嬉しいです。どうぞお気になさらず、私のことは放っておいていただいて大丈夫ですわ。むしろできるだけごゆっくりお話してきてくださいな。」
目をキラキラ輝かせながら、そういうマリー=ルイーズに、ジュリオは一層好感を抱いたのでした。
ジュリオは図書館管理の担当の学生に声を掛けてから、恩師の研究室に向かいました。その後ろ姿を見送ったあと早速、マリー=ルイーズは古いイスラムの医学書や薬草学の本、さらにエラスムスの新約聖書のラテン語・ギリシア語対訳の本まで、5,6冊の本を選んで早速夢中になって読み出したのでした。
ジュリオが恩師ルドヴィーコ・ロッシ教授と、ナポリでの医療機関の設立の方向性について小一時間協議したあと教授とともに図書館に戻ってくると、マリー=ルイーズは彼らが近づいてきても気づかないほど集中して本に向かっていました。
マリー=ルイーズが広げて読んでいる本をのぞき込んだ教授は驚いて思わず
「ギリシャ語やアラビア語までお読みになられるのか?」と声を出してしまったのです。
その声にはっとして顔を上げたマリー=ルイーズは顔を真っ赤にしながら
「い、いえ、まだ勉強中で・・・」
としどろもどろに言い訳を言う姿に、思わず吹き出してしまったジュリオ。その場で教授に“商売の取引相手かつ、尊敬する友人です”とマリー=ルイーズを紹介したのでした。
マリー=ルイーズが広げていた本を見て興味を持ったロッシ教授は、マリー=ルイーズに質問しました。
「マルセイユのご出身ですか。トゥールーズかモンペリエで学ばれたのですか?」
「母方の親類がモンペリエにおりまして、事情により幼い頃はそこで育ちました。大叔父に当たる人間が、モンペリエ大学で教えておりまして、そこに集まるさまざまな国からの学生や先生方との交流から、自然といろんな言語を学んだといいますか…。十四歳になる頃に大叔父の講義を聞き取り、記録をつけるように申しつかった頃には、正式に読み書きが出来るようになっておりました。」
「それは素晴らしい。ご専門は何かな?」
「それが、多言語を操れると聞いた父方の親戚から、商売に同行して欲しいと熱心に頼まれまして、きちんと学問を修めないまま、今に至っております。お恥ずかしい限りです。」
*****
大学を出ると、早速マリー=ルイーズはジュリオに話しかけてきました。
「大学の医学部に医療施設を創設されるのですね。」
「パドヴァでの評判を聞いたロッシ教授が中心になって設立するお手伝いをすることになっているのです。ここではアラビア医学の知識もあるので、パドヴァとは少し機能が異なるものになるかもしれませんが。」
「確かに図書館には、アラビア医学や占星術など、とても興味深い蔵書が揃っているのを拝見しました。読ませていただいたジュリオ様の解剖学の指導書にも言及がございましたね。そうそう、あの3巻目の32ページ目の12行目のところから説明されていた『消毒』という単語は、そちらから入った知識なのでしょうか?」
「あれはアルコールの蒸留という技法からきているのだけれど・・・こんな話、つまらなくないかい?」
「いえ、新しいことを知るのが好きなので、教えてくだされば嬉しいです。」
ナポリの街を案内して周りながら、ジュリオはマリー=ルイーズの知能の高さは、ある特殊な特技が要因ではないかと感じ始めていました。ただ、マリー=ルイーズ本人がその特技を隠したがっているような気がしたので、確かめるようなことは質問しなかったのです。
その日はマリー=ルイーズも控えめながら楽しそうにジュリオとの会話を楽しみ、夕刻にはマルセイユ商館付属の宿泊施設に送り届けてもらい、そこでジュリオと別れたのでした。
「で?どうだったのかしら? マリー=ルイーズ嬢の印象は?」
ドゥッティ家に戻ると、マルガリータは早速ジュリオを捕まえて聞いてきました。
「とても素晴らしい方だと思いますよ、叔母様のお勧めだけあって。控え目な性格で、どちらかといえばおとなしい方なのに、仕事の場ではとても優秀で的確で、そのギャップにとても惹かれましたよ。」
「そういうことじゃなくって! とても可愛らしい方でしょう?」
「ええ、もちろん。ただあちらは私のことは気のおけない友人というご認識ではないでしょうか?」
「そうなの? 彼女はあなたに魅力を感じなかったかしら?」
「ひどいなぁ、叔母様。ちゃんと私の本にとても興味を示してくださいましたよ。興味どころか、私も驚くくらい細部まで読み込んでいらっしゃるようでした。その勉強熱心な姿勢は、私としては尊敬しているくらいですよ。」
「尊敬ねぇ…それは二人の仲が進展する可能性があるということかしら?」
「どうでしょう? 今日会ったばかりの方ですし、こちらがいきなり積極的な態度を示すと、かえって気後れして逃げてしまいそうな方ですし。」
「それはそうかもしれないわね。じゃあまずはお友達ということで、もう少し彼女と親しくなりたいという気持ちがあるのかしら?」
「ええ、そうですね。気が合いそうですし、彼女との会話はとても楽しかったですよ。もう少し彼女とお話してみたいとは思っていますし。」
「あら、良かったわ。二、三日は商用ではサレルノとアマルフィに行かれるそうだから、戻っていらしたらまた会ってみてはどうかしら?」
翌日、ジュリオはドゥッティ家サルヴァトーレと家令のシルヴェストロと、商会での今後の役割分担と今後の方針について、一日中かなり真剣な話し合いをしたのですが、休憩中にふと、次にマリー=ルイーズ嬢に会ったときは、こんな話をしよう、と考えている自分がいて、我ながら驚いたのです。彼女がきっと興味を持って熱心に聞いてくれるに違いないと考えている自分が意外でした。
そして何より、次に彼女に会ったときに、ジュリオが予想している彼女の特別な才能をどうしても確かめたくなってしまっていたのです。




