くだらない嫌疑
第82章
「どういうこと!? パオロはそんなに危険なところに行こうとしているの? 私ところには戻ってこないというの? アダムのことは考えてくださらないの?」
取り乱すカテリーナにファビオは
「いや、こういう遠方へ交易に赴く場合の定型文のようなものだよ。それにパオロの場合、入り婿となってフォスカリ家にきた身だから、バルバリーゴ家と相続問題などで揉めないように、特に気を遣ってこういう布石を打っておいたのだろう。万が一、としているではないか。私の義父もキプロスに赴く際には、そういったさまざまな取り決めを証書に残して、赴任先に向かっていたのだよ。」
そう言って、カテリーナを落ち着かせてから、
「ほら、ジュリオ達が待っている。今日は彼らへの感謝の会だ。そなたのリュートを聞かせてあげられる機会も、今晩を逃すといつになるかわからない。パオロは大丈夫だよ。ポルトガル王室の全面的な支援を受けているし、今心配しても仕方が無いだろう。」
と、その場をおさめ、カテリーナに優しくハグしたのです。
そして、その晩のカテリーナの演奏は、目を覚ましたアダムがどうしても泣き止まず、困った乳母が抱きかかえて中庭にやってくるまで続いたのでした。
***
「あなた、私には話してくださるかしら。」
就寝前の夫婦の寝室で、マリアグラツィアはファビオに問いかけました。ファビオが遺言を読み上げたときの口調から、かすかに動揺していたことを察していたのでした。
「ああ、やはりおまえは騙せなかったな。」
「何年あなたの妻をしているとお思いになって? カテリーナの耳に入れたくない何か情報があったのでしょう?」
ファビオは難しい顔をしたまま、妻にある事を打ち明けたのでした。
「あくまで根も葉もない噂だから、おまえ達の耳には入れなかったんだが…、実はパオロにある嫌疑がかかってしまっていて。それでフォスカリ家と距離を置いた方がよいと判断したのかもしれないな。」
「嫌疑?」
「ああ、パオロは突然公務を辞して、野に下ることにしただろう? そこからわりとすぐにポルトガル王の宮廷に入り込んで、王の全面的な支援を受けることに成功した。私自身もどのような人脈やルートを駆使したのかと驚いたから、元老院内でもいろんな憶測が飛び交ったんだ。我が家はもちろん、バルバリーゴ家にもポルトガル宮廷との太いパイプなどない。だから、彼の成功を妬んで、突飛な考えを言い出すものが出てきたのだ。」
「突飛な考え?」
「くだらない、何の証拠もない下世話な噂話の類いだ。パオロは、キプロス滞在中に、前キプロス王と特別な関係になっていて、秘密となっていたテンプル騎士団の隠し財宝のありかを教えてもらっていた。そしてその財宝を、前キプロス王の死後に着服し、その一部を献上したことでポルトガル王から支援を約束してもらったのだ、と。」
「え? テンプル騎士団の隠し財宝ですって? そんな大昔のこと」
「ああ、もう何百年と昔の話で、もしあるならとっくに見つかっているだろうし。仮に本当に存在していたとしても、とっくにスルタンに献上されたか、差し押さえられていただろう。ましてや、パオロが横領していたなどと。私は少し呆れたよ。現実主義者の集まりと思っていた我が国の元老院内で、そんな与太話がまことしやかに囁かれていた事の方が異常だった。確かに今回パオロが乗船したポルトガル王所有のキャラックは、ポルトガルでも最新式の大砲を備えた大型の武装商船だそうだ。しかしマラッカの次期総督や役人、護衛団、そして布教活動の修道士のたちも一緒だ。決してパオロのためだけに用意された船ではない。むしろ、そこにタイミングよく便乗させてもらった、というのが実情だろう。」
「でも、元老院内では、結局はあなたのおっしゃる、そういう結論に落ち着いたのでしょう?」
「ああ、大多数はね。しかし蔭でパオロを裏切り者扱いしている議員もいるし、特に反バルバリーゴ派は、ポルトガル王との密約で東方での利権をバルバリーゴ家が独り占めしようとしていると吹聴している者もいる。」
「そんな、愚かな」
「ああ、だからこそ入り婿としてこの家にきたバルバリーゴ家出身のパオロとしては、万が一自分の帰国がかなわない事態になり、身の潔白を申し開きできなくなってしまった場合は、フォスカリ家はバルバリーゴ家とは距離を置いて中立な立場を維持できるように、とあんなようなことを条項に入れたのだろう。」
「ならば、そう説明を残してくだされば良かったのに。」
「公証人が立ち会って作成した遺書は、公正証書となるから、事情を説明するためとはいえ、元老院内での噂話などは残せないだろう? きっとカテリーナあての手紙には、パオロも詳しい事情を説明しているのではないかな?」
「そうね、明日、カテリーナとゆっくり話してみるわ。」
ファビオとマリアグラツィアが、上記のような会話を交わしている間、カテリーナは一人、部屋でパオロからの手紙を何度も読み直していたのでした。




