パオロの遺言
第81章
パオロが東方に出帆して1月半たとうとするころ、ジュリオもまたクリスマス前に実家に戻ることが決まりました。
毎月続いていたフォスカリ家での報告の際に、解剖学指導書の最終巻が無事刊行されたことと同時にその旨を伝えると、ファビオはジュリオをフォスカリ家に招き、今までのお礼の意味を込めて泊まりがけの食事会を催すといったのです。
「身内だけのささやかな会だから、ジュリオ、ぜひ来て欲しい。今までの感謝を表したいと、ずっと考えていたのだ。」
「いえ、何をおっしゃるのです。感謝すべきはこちらですよ。指導書の出版も病院の開設も、ファビオ殿のお力がなかったら、実現していなかったでしょう。」
「ヴェネツィア市民でもない君が、ここまで我が国の福祉向上に尽力をしてくれたことに、元老院では名誉市民の称号を与えようという話まで出ているのだ。それほど国全体が感謝している。」
「恐れ入ります。それではよろしければ、その会に私の後を継いで施設長となるマルクも誘ってよろしいでしょうか? 彼は感染病の専門家でもあります。そもそも私が医療施設の立ち上げを考えたきっかけは、数年前の疫病の大流行からです。彼なら、あのような大惨事が二度とこの地で起きないよう、しっかり対策してくれると信じています。これからもファビオ殿からのご後援をお願いしたいと存じます。」
三日後、当主ファビオ、その妻マリアグラツィア、カテリーナが迎えるなか、ジュリオとマルクは正装した姿でフォスカリ家を訪れました。お互いすでに交流のあるメンバーばかりのため、和やかな雰囲気のなか会話は弾みました。いつもの通り、カテリーナとジュリオは軽口をたたきあい、息子ルカを疫病でなくしたマリアグラツィアは熱心にマルクに予防対策について質問し、その様子を楽しそうにファビオは眺めながら、たまに声をかけて話を盛り上げる、という楽しい昼食会が繰り広げられたのです。
「カテリーナ、みなさん食事も堪能したようだから、そろそろ場所を替えてゆっくりとおまえの演奏を聴きたくなってきたのではないかな?」
そう父ファビオに促され、カテリーナがリュートを取りに席を離れようとしたときでした。
突然、召使いが正賓の場に入ってきて、
「至急の用事とのことで、お客様が客間でお待ちです。」
と伝えたのでした。
「私に用事なのか?」
「いえ、フォスカリ家のご一同に大事なお話があると。」
驚いた一同でしたが、ファビオは
「ジュリオ殿、マルク殿。今日は天気もよいので、先に中庭の四阿で待っていてくださらないか? 我々はさっさと訪問客との用事を済ませてしまうから。」
と言って、マリアグラツィアとカテリーナを伴って客間に向かったのです。
***
「突然のご来訪の用事とは何でしょうか?」
やや怪訝な声で、ファビオは客人に問いかけました。
「お約束もなく伺いました非礼は心よりお詫び申し上げます。私はパオロ・バルバリーゴ様よりのご依頼を受けた者で、公証人のピエロ・フィチーノと申します。」
「パオロの依頼?」
思わず声をあげてしまったカテリーナ。
「失礼ですが、奥様のカテリーナ様でいらっしゃいますか? 奥様あてには、お手紙も預かっておりますが、まずはご当主様にこちらをお渡しするようにと。」
そう言いながら、公証人ピエロは、蝋で封をした手紙を渡しました。それは明らかにパオロの印章が押された、正式なものだったのです。
「こちらはパオロ殿の遺言書です。遠い地にお出かけになる前に、と私の立ち会いのもとに作成されたものでございます。万が一の場合には、こちらに書かれた内容を尊重してほしいのことで、出帆後60日たったらこれをフォスカリ家にこれを届けるように、と私に託されました。」
「なるほど、承知いたしました。ご足労いただき、恐縮です。」
冷静に対応するファビオ。
「それと、奥様にはこれを。」
驚いた表情のまま、カテリーナはパオロからの手紙を受け取りました。表書きには見慣れたパオロも文字で「親愛なるカテリーナへ」と書かれてあったのです。
「それでは私はこれで失礼いたします。何か不明点がございましたらいつでもお呼び出しください。念のため、私の事務所はリアルト橋の近く、メルチェリー通りにございます。」
そう言って、公証人は帰っていきました。
「どうする? 今ここで、パオロの遺言を読み上げるか? それともジュリオ達が帰ってからにするか?」
動揺している様子のカテリーナを気遣ってファビオが確認すると、カテリーナは
「こんな気持ちのまま、リュートの演奏はできません。それになんとなく内容は予想できています。先延ばししては、お母様もきっとご不安で落ち着かれないでしょう? ここで読んでくださいますか、お父様。」
と答え、ぎこちなく微笑んだのでした。
パオロの遺言の内容は、フォスカリ家に相談なく東方に商用で出かける決意をしたことを詫びながらも、それがきっとフォスカリ家の今後の隆盛の原動力になると確信したからだという強い信念が述べられていました。
また、婿養子としての最低限の役割、フォスカリ家の跡継ぎの男子について、結婚後すぐに伴侶として慣れないキプロスまでついてきて、さらに戦闘という危険な状況下にありながら無事産んでくれた心からカテリーナに感謝する、と。
ただし、それに続く一文をファビオが読み上げたとき、カテリーナは言葉を失ってしまったのです。
【私の身に万が一のことがあったら、妻カテリーナは、本人が望む相手と躊躇なく再婚し幸せになってくれることを衷心より望むものである。】




