ファビオの懸念
第73章
学長室で、部下を二人連れたファビオ・フォスカリを迎え入れたとき、ジュリオは彼が少し疲れているのではないかと感じ、側にいた助手の学生に薬湯をもってくるようにそっと囁きました。
学長は政府の援助に対する感謝の言葉を長々と述べたあと、「それでは現状につきましてはジュリオ・ベレッツァ教授から詳しく説明させます。」といって薬湯をもってきた学生がちょうど入ってきたタイミングで席を外していまいました。
ジュリオはファビオの様子が気になりながらも、話を始めました。
「フォスカリ殿、わざわざご足労いただきまして感謝いたします。よろしければお座りになられて、まずその薬湯を一口いかがでしょうか? ここにいるマルクが責任者を務めております植物園で育てた薬草を使用したものです。」
「ああ、ありがとう。こちらの植物園は、ヴェネツィアの薬師院とも連携して薬を共同で作ることになったそうだね。」
そこですかさずマルクが
「ええ、その通りです、フォスカリ殿。私自身は初代院長であられたマリアンヌ様は存じ上げないのですが、現薬師院長の方をご紹介してくださったおかげで、薬師院の中でも優秀な学生たちに手伝ってもらえることになりました。ご尽力ありがとう存じます。」
と感謝の言葉を述べ、続けてジュリオも
「話が長くなりますので、どうぞお座りになられたままで」
と断ってから、施設の建物や設備の進捗の状況、人員確保のスケジュール、そして初年度の収容可能患者数も目算やかかる経費の試算など、詳しく説明をしました。
「期待以上の素晴らしい報告をありがとう。開始日はパドヴァの守護聖人、聖アントニオの祝日か。それはいい。ぜひその日はイル・サント、聖アントニオのバジリカで特別のミサをしていただこう。」
「はい、あと、できれば3月中旬くらいから、まずは大学内の教職員や学生達を相手に試運転を始めたいと考えております。やはり実際に治療や施術を行ってみないとなかなか足りないところや問題点もわかりませんので。特に経費につきましてはまだ正直なところ予想が難しいので。よろしいでしょうか?」
「確かに。治療費についてもどの程度まで政府が援助できるのか、ある程度市民に負担させられるのか、元老院としても綿密に検討しなければならないな。」
「裕福な方々からのご寄付も検討していただければ助かります。やはり一市民にはなかなか気軽に来ていただくのは難しいかと存じますし、それこそ感染病の予防という観点では、国として公衆衛生対策と考えていただけるかと。」
「もちろん、そのつもりだ。近いうちに検疫所の責任者も紹介しよう。あと、やはり荷下ろしの現場や、ガレー船の船員や漕ぎ手たちの事故なども多い。そういった者たちへの治療にかかる費用などは、船主らから一定の供託金などを徴収し、そこから捻出させるのも良いかもしれない。」
有意義な話し合いが一段落したところで、ジュリオは“ファビオを二人きりにしてほしい”という合図の目配せをマルクにして、ファビオに
「ファスカリ殿、お疲れのところ申し訳ございませんが、よろしければ、引き続き指導書のことにつきましてご報告する時間をいただけませんか?」
と切り出しました。
すると
「そういうことでしたら、私は部下の方々に施設内部をご案内いたしましょう。まだ内装や設備も完全ではありませんが、ご参考になるかと存じます。どうぞこちらへ」
と言いながらマルクが部下の二人を部屋から連れ出しました。
マルク達が立ち去るとすぐにジュリオはファビオに頭を下げて詫びました。
「先月は実家に戻っておりまして、フォスカリ殿にご報告に伺えず、大変申し訳ございません。」
「いやいや、そんな、お気になさらず。あのキプロスでの戦闘やその後処理でそれどころではなかったでしょう。それよりご実家のほうは、何か問題でもあったのですか?」
「はい。ただ速やかに問題は解決しましたので、ご心配には及びません。ただ・・・」
「ただ?」
「指導書に関しましては、年内に5巻目と6巻目を出す方向で進めております。これで当初の予定刊行数すべてとなります。」
「ついに完結ですね。全巻揃った暁には、パドヴァ大学とジュリオ殿の母校であるナポリのフェデリーコⅡ世大学だけではなく、他に医学部をもつ各地の大学に個人的に寄贈したいと考えております。そもそもジュリオ殿と恩師の知見と業績は、これから医学を志す学生らに広く共有されるべきではないかと私は考えて、ご支援を決めたのです。」
「そう言っていただいて、光栄に存じます。本当にファビオ様のご支援とご尽力がなければこんなに短期間でここまでのことは出来ませんでした。昨年、キプロスで戦闘に巻き込まれたときは、最悪の事態も頭の中でよぎりましたので。ようやく医療施設の完成と本格的な運用開始、そして本の全巻刊行も年内で目処がつきそうで、私も少し安心しております。」
「ジュリオ殿、何か来年に大きな予定でもあるのかな? 先ほどから年内にこだわっておられるようだが。」
「実は・・・もう一つ、大事なお話がございまして。私事ですが、来年にはシチリアの実家に戻ることにいたしました。」
「・・・・・やはりご実家で何かあったのですね。」
さすがに本当の事情は話せるわけがないので、ジュリオは半分の真実だけを告げました
「実は昨年所帯をもった弟ルカが、独立したいと申しまして。今まで彼が実家の家業を手伝って父をずっと助けていたわけですから、今度は私が父を支える役割を担うべきかと思い至りました。幸いにも事業も拡張しており、雇い人も増え、組織を再編しなければならない時期にもきております。」
「さようでしたか。よくご決断なされましたね。お父上のジャコモ殿も、よくお許しに・・・」
そこまで言うと、ファビオは大きなため息をつき、黙り込んでしまいました。
「どうなされたのですか?」
「いや、親として良かれと思って子どもを導いたつもりでも、なかなかよい結果にならないものだなと。」
「今日は少しお疲れのようにお見うけします。先ほどの薬湯をもう一杯いかがでしょうか? 薬師院でとても評判の処方だそうです。」
「はは、ご心配をかけて申し訳ない。こんなことをジュリオ殿にお話するつもりはなかったのだが・・・いや、もしかしたら、あなたにこそ相談すべきなのかもしれない。」
「私がお力になれることがあれば、ぜひご遠慮なくおっしゃってください。」
「では一度、パオロ・バルバリーゴに会って、話を聞いてみてくれないか? 彼とはかなり親しい仲のようにお見受けしたので、あなたになら彼の抱えている心のつかえを取り除けるのかもしれない。」
「パオロが、どうかしたのですか?」
「東方に行くというのだよ。すでに政府の仕事から離れ、バルバリーゴ家の者にも誰にも相談せずに一人で決めたらしい。もちろんカテリーナにも相談せずに。」
「え?」
「娘とは、キプロスから戻って以来、結局別居したままなのだ。」