ベレッツァ-ドゥッティ商会
第68章
元副官のジェロームがベレッツァ家に雇われてから、もうすぐふた月が経過しようとしていました。
ジュリオの推薦とはいえ、初めの一、二週間は警戒していた父ジャコモでしたが、落ち着いた物腰、丁寧な受け答え、謙虚な態度、冷静な分析力、卓越した交渉力、さらにムスリムの言葉も完璧に使いこなし、数字にも強い優秀なジェロームに、ついつい重要な仕事を任せるようになり、ついに帳簿の管理まで任せるようになっていたのです。
ルカはヴェネツィアで最新の会計簿記を学んだきたこともあり、ジャコモは商会の経理に関してはジェロームが来るまでルカに任せっぱなしになってしまっていました。ジャコモ自身は販路の開拓と取引先との条件交渉などで手一杯の状態だったのです。
日常の仕訳や出納から決算までルカ一人の担当でしたが、数ヶ月前にドゥッティ家と遠い姻戚関係にあるカタルーニャの枢機卿の姪と結婚し、パレルモ市内に新居を構えていました。
ベレッツァ-ドゥッティ商会はベレッツァ家本宅の近くのシチリアのパレルモ本店と、共同経営者ドゥッティ家の敷地内にあるナポリの支店があり、ルカは当初ナポリ支店に駐在していたのですが、結婚を機にパレルモに戻っていました。ただ、ルカは連絡係として月に1,2回はパレルモとナポリを行き来することになり、ルカの結婚後はどうしても本店に常駐し、毎日の終わりに帳簿の確認作業をする責任者を必要としていたのです。
ジェロームという人物の登場に、ルカがあまり警戒感を抱かなかったのは、そもそもベレッツァ家の人間でもドゥッティ家の人間でもなかったこと、それにあくまで部下の一人だというジェロームの控えめな態度に安心したからでした。もし彼がドゥッティ家の親族に一人であったら、自分の地位が狙われるかもしれないと排斥しようとしたかもしれません。
自分よりかなり年上でありながら、あくまでルカを主人として謙虚に仕える姿勢のジェロームに何も脅威を感じることがなかったのでしょう。また、新婚でもあったルカは、仕事より妻と楽しい時間を過ごすことに気持ちが一杯であったからかもしれません。
ほとんど毎日、ルカは仕事を早々に片付けて、商会の建物をいそいそと出て行きましたが、たまに、遅くまで残っていることがありました。そんな時は必ずジェロームに
「今日の帳簿の確認は私がするから、ジェロームはもう帰っていいよ。」
とジェロームを部屋から追い出すのです。
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えまして、宜しくお願いいたします。」
深々と頭を下げるジェロームに返事もせず、ルカはさっさと鍵をかけてしまうのでした。
そんなことが何回かあり、ジェロームの頭にある疑念が浮かんだのです。しかしあくまで一使用人でしかない自分が証拠もなく下手に騒ぐのは悪手だと充分理解していたので、ジャコモにもジュリオにも言わないでいたのです。
ところで、商売が上手く軌道に乗っていたジャコモにとって、目下の悩みは後継者についてでした。
妻の嫁ぎ先のドゥッティ家当主とともに自分の代で始めた商売でしたが、妻カミーラの実家の人脈と協力により毎日精力的に活動してたものの、長男のジュリオが学問の道に進んでいたからです。
その長男がフォスカリ家の娘婿となる話があったからこそ、ルカに継がせる可能性も考えて結婚を急がせたのですが、ジュリオのフォスカリ家への入り婿の話が立ち消えとなり、やはりジュリオに継がせるとなると、実際の商売を回し、現場を監督する番頭が必要になったのです。そこへ、最適任と思われる能力と人格と評価できる人物が、ジュリオの紹介でやってきたのですから、ジャコモがすぐに重用したのも無理はありません。
そのためジェコモの頭の中で有力な番頭候補となったジェロームから、商売のやり方について提案を受けるようになったとき、進んで耳を貸すような状態になるのも当然だったでしょう。
「もう少ししたら、ナターレだな。ずっと働いてくれたから決算作業の前に数日休暇をとってもらっても良いのだが、ジェローム殿」
ジャコモは、部下とはいえ自分とあまり離れていない年齢のジェロームを呼び捨てには出来ず、敬称をつけて呼んでいました。
「ご主人様、どうぞお気遣いなく。それより、今年からは取り扱い商品別の前年度対比を考察されてはいかがでしょうか?」
「商品別の前年度対比? 何だそれは?」
「はい、全体の売上げと経費、利益率だけ追っているだけでは、何が良く売れていて、何の売上げが落ちているのかがわかりません。商品別の前年度対比で、数字の動向を比較すれば、来年以降の仕入れについて何に重点を置けばいいのか、大きな目安になります。」
「なるほど、より売れ行きのよい商品を多く扱えれば、それだけ利益が上がるということだな。」
「はい、ベレッツァ-ドゥッティ商会も取り扱い品目がここ数年で増えてきているのではありませんか? これからはやみくもに仕入れを増やすより、より効率的に商売する段階に来ていると思われます。」
「それは良い考えだ。具体的にはどうすればよいのか?」
「はい、あわせて商品ごとの在庫の回転率も精査したいので、過去の過去数年間の帳簿を見せていただけないでしょうか?」
「わかった。保管棚の鍵を預けよう。明日から早速取りかかってくれないか?」
こうして完全にジャコモの信用を得たジェロームは、過去数年に渡るベレッツァ-ドゥッティ商会の会計簿を自由に閲覧できることになったのです。
通常の業務が終わったあと、毎晩遅くまで過去の帳簿に目を通し、在庫の棚卸し作業を一人で行うジェロームには、ある予想と思惑がありました。
そしてナターレの祝日の翌々日、ついにジェロームは探していたものを発見したのでした。
ルカが、不正を行っている証拠を。