マルクのお見舞い
第67章
結局、副官の調査は進展がなく頓挫したままとなりました。当然、その後副官の姿をヴェネツィアの街仲で見たものはなく、またキプロスの王宮はそのままサンマルコ共和国の総督邸となったものの、生き残った使用人たちも希望者はそのまま雇われることとなり、特に大きな混乱もありませんでした。
というのもスルタンが、サンマルコ共和国の提示した『キプロス専有に関する協定書』について受け入れるとの返信があったからでした。この協定書にはヴェネツィア側が『和平協力費』として、交易で得た利益の一部をスルタンに上納することが明記されており、スルタンにとっってはキプロスをヴェネツィアが領有したことに対して経済的なデメリットもなく、当面は静観の構えを見せたのです。ヴェネツィア政府としては今まで通りに交易ができる上、ライバルのジェノヴァなどにかける関税からの上がりで充分おつりがくる状態となり、双方とも不満のない決着となっていました。
そうしてやっとキプロス情勢が落ち着いた頃、パオロは体調を崩してしまいました。連日原因不明の熱を出し、身体が衰弱してしまったのです。任命されたばかりの国内の治安維持の責任者という立場も外されることになりました。
カテリーナのお腹の子に何か悪い影響があったら大変と、パオロの希望でフォスカリ家ではなく、あのブレンダ運河沿いの別荘でしばらく公務から離れ休養をとることになったのです。
あの別荘は、バリバリーゴ家のリッカルドのものでしたが、妻のマリアが気に入ってしばしば滞在していたので、彼女に資産として与えたものでした。リッカルドとマリアの間に子どもはいなかったので、マリアはこの別荘に晩年のマリアンヌを呼び寄せ、自分が亡くなった場合もそのままマリアンヌが暮らせるようにと遺言を残していたのでした。そしてその遺言には別荘の相続人として、パオロを指名していたのです。
もともと別荘にいた少数の旧知の召使いと下僕に身の回りの世話を頼み、薬草院からマリアンヌの弟子が薬を届けてくれていたので、パオロの体調は少しずつ快復傾向にありましたが、深刻だったのは精神状態でした。パオロは何か気力を失ってしまった状態に陥ってしまったのです。
別荘に移ってすぐ、パオロはジュリオに、簡単な現状報告の手紙を出しておいたのですが、ある日突然、ジュリオではなくマルクが別荘にお見舞いに来てくれたのでした。
「パオロ殿、お加減はいかがですか?ジュリオは何かご実家でトラブルがあったようで、急ぎシチリアに戻らざるを得なくなって、彼の代わりに私が参りました。といってもジュリオの専門は外科で私は内科なので、お体の快復については私のほうがお役に立てて適任かと存じます。」
「マルク殿、わざわざすまない、感謝する。それで、ジュリオのご実家のトラブルは大丈夫なのですか?」
「ジュリオの言った通りですね。まずはご自分の身体のことだけを心配してください、とのジュリオからの伝言です。さて、薬草院から処方されているお薬から確認させていただけますか?」
マルク実務的にパオロに質問し、体調を診断し、さらには身の回りの世話をする召使いを呼んで、食器類や室内をこれでこまめに清掃するように、と持参した消毒用アルコールの入った大きな瓶を渡して、事細かに使い方を説明しました。
そしてパオロに直接、いくつかの小瓶を渡しました。
「体力が落ちてしまっているときは、病気への抵抗力も落ちてしまっているのです。いつもならひかない風邪を引いてしまうし、ちょっとした傷も治りにくくなる。そうすると、気分まで落ち込んでしまうものです。そういうときは滋養のある食べ物と同じくらい、心の安らぎとよい睡眠が重要です。これは香草から抽出したオイルです。何種類か持ってきましたから、お好きな香りを楽しんでください。気分が安らかになります。少量なら腕など素肌に直接塗布していただいて大丈夫です。お休みになるときの枕に少しつけるのもおすすめです。良い香りに包まれて、ぐっすりと眠ることができますよ。」
「そういうものなのか。そういえば、ジェローム王はラベンダーの香りのするクリームを愛用されていたな・・・」
「ラベンダーの香油は、私の故郷の名産品です。ラベンダーのほかにもさまざまな花を栽培しています。花を収穫し、抽出作業する時期は、町中が良い香りに溢れていますよ。」
「ふふ、ではあなたの故郷で休養することができたら、すぐにでも快復しそうですね。」
「ええ、陽光が溢れた温暖な地域です。」
「一度行ってみたいな。」
「そのときはご案内しますよ。実はこの間まで久しぶりに里帰りしておりまして。大学付属の薬草園の庭師を探しに。植物の栽培や管理の知識が豊富な人材がたくさんおりま・・・」
それまで饒舌に話していたマルクが急にはっとして、話を辞めてしまいました。
「何か?」
「いえ、これは、確かな情報ではないので、お知らせすべきかどうか…ジュリオにもまだ明かしていなかったことなのですが・・・・。」
「ここで私は休養中の身で、すべき仕事もなくて時間を持て余している。何か興味深い話があるのなら、ぜひ聞かせてください。」
「いえ、かえって心配の種を増やしてご負担になってしまうかもしれない…。」
「私や私の身辺に関わることなのですか?」
「はい。ただ、過去のことなので、今後何かあるとはあまり思いませんが。」
「なら、問題ないだろう。知ることで事前に用心のため準備できるかもしれないし。」
「そうですね…では、あのキプロス王宮に薬草園の管理人のことです。」
「え?」
「嫌なことを思い出させてしまい、申し訳ございません。あなたの奥方様を人質に取り、王の副官と争い、殺されたあの管理人です。」
「あの管理人に見覚えが?」
「いえ、あの直前にキプロス王が、薬草園の管理責任者がグラース出身の人間で薬草の栽培に関して知識も豊富だと紹介されていたことが、私にはずっと頭に引っかかっていたのです。グラースは、今お話していた私の故郷なので。」
「そうだったのですね。あの管理人は見知った顔だったのですか?」
「あのときははっきりとは分からず。あとで時間があるときに話しかけようと思っていたら、あの騒ぎになってしまったので。そこで、故郷で庭師を探すついでに、いろいろ聞き込んでみたのです。すると、街でも割と大きな栽培園をもち醸造所も経営する一族の三男が、ムスリムの海賊にさらわれて行方不明となっていた事件を聞きました。しかもその一族はあまりの高額な身代金要求に、その三男を見捨てたという悪評がたって、結局グラースにいられず、栽培園も醸造所も同業者に売却してグラースを後にしました。」
「それは、身代金の要求はなく誘拐直後からイエニチェリとして養成機関に送り込まれたのではないかな・・・。」
「私も後でそう思いました。姿形も顔つきも美しい青年だったので。」
「誘拐した人間から『おまえの家族に身代金を請求したが、拒否された』などと吹き込まれていたたら、実家や憎しみを抱いてしまっても当然だ。復讐心を利用するのもスルタンのやり方だ。そういう意味では、彼も被害者なのかもしれない。」
「あのキプロス王をして、イエニチェリのスパイだと見抜けないことがあるのですね。」
「副官も見抜けなかったということか…。」
マルクが帰った後、パオロはいろいろな思いが頭を巡ってなかなか寝付けないでいました。早速いただいたばかりのアロマオイルを使ってみようかと手を伸ばしたところで、ふとジュリオが見つけて渡してくれた、あのマリアンヌ調合のクリームを思い出したのです。
キプロスから戻ってからずっとしまってあったクリームの蓋を開けると、優しいラベンダーの香りが広がり、それだけで穏やかな気持ちになりましたが、意外なことに、ほとんど使った形跡がなかったのです。
「もしかして副官は、王から下賜されたものだから遠慮して使っていなかったのか? 傷口の治療効果があるクリームのはずなのに・・・。」
デコルテに一塗りしただけで、鼻腔一杯にラベンダーの香りが広がり、そのままパオロは久しぶりにぐっすりと眠りにつくことができたのでした。