突然の訪問
第66章
「カテリーナ、久しぶりだね。身体の調子はいかがかな?」
父ファビオから突然フェデリコ・バルバリーゴがそなたを尋ねてくる、と聞かせれたカテリーナは、バリバリーゴ家に当主に対し、いつも以上に愛想良く丁寧に対応しなくては、と心して玄関まで出て彼を迎えたのでした。
「お気遣いありがとうございます、フェデリコ様。おかげさまでお腹の子も順調です。ご安心くださいませ。」
「いや、ちょっと時間ができたもので、突然尋ねてすまなかったね。」
「お忙しいお立場と存じておりますので、わざわざおいでいただき光栄です。」
「今日はあなたにちょっとお詫びに来たのだよ。」
「何かございましたでしょうか?」
「いや、甥のパオロには、家族とともにサンマルコ共和国の責任者として長くキプロスに滞在するという話で移住してもらったにもかかわらず、こんなことになってしまった。」
「いえ、不測の事態でしたので、致し方ないと夫からも聞いております。」
「直轄地になったからには、本来ならパオロが総督という立場で、あなたは総督夫人として彼を支えてもらうつもりだったが、パオロには別の任務が適任ということになってね。」
「どうぞお気遣いなく。どこであろうと、私の務めは夫を支え、子を育てることですので。」
カテリーナのそつのない優等生的な回答に若干の不服そうな表情をしたあと、フェデリコはカテリーナの表情の変化を逃すまいと少し顔を近づけて尋ねたのです。
「ところで、パオロから聞いたのだが、帰国後二度ほど亡くなられたキプロス王の副官の姿を見たと言っていたそうだが、その後はどうなのだ?」
「あれは、はっきりと見たわけではなく、姿を見かけたというだけで、私の勘違いかもしれません。パオロに言われて、その後しばらく外出は控えておりました。最近になって召使いと一緒に出かけるようになりましたが、見ておりません。そもそも本当に副官だったのかと言われましても、今では確信がなく…。」
「確か、二度のうちの一回は音楽院で見かけたそうだね。その人物は君がキプロスに忘れてきた作品集を届けてくれたと聞いている。」
「おっしゃる通りです。でも私が直接その方と話したわけではなく、去って行く姿を見ただけでした。単に本当に親切な方だったのかもしれません。あの緊急の脱出の中、キプロスに置いていった衣装などほとんどの私物は処分されてしまいましたが、装飾品などの貴金属などは後日まとめてフォスカリ家あてに送られてきました。王宮に残っていたキプロス王の部下が親切にもまとめてくださったようです。もしかしてそのとき入れ忘れた作品集を商館に出入りしていたヴェネツイア商船の乗組員に託してくださったのかもしれません。」
「では、あの音楽院に現れた人物は副官ではなかった可能性があると?」
「後になって考えてみれば、あのときサンドロ先生と流暢なイタリア語で会話されていたようで、先生もイタリア人だと信じて疑わなかったようです。それに対して、あの副官ははイタリア語はある程度は話せるものの、母語としている人間が全く不自然さを感じないほど流暢ではありませんでした。特にサンドロ先生は目が不自由な分、耳はとても敏感です。その先生がイタリア人だと信じて疑わなかったということは、副官ではなかったのではないかと、後になってから考え直しました。」
「そうか。いずれにせよ、それ以来会っていないのだな。」
「はい、私は見ておりません。あの、確証もなく私がこんなことを夫に話したことで、何かご迷惑をかけてしまっているのでしょうか? そうでしたら誠に申し訳ございません。」
「いや、とりあえず最近は見かけないのだな。」
「はい。パオロともあれ以来、副官のことを話すこともございませんでしたし。いまフェデリコ様に質問されて思い返したくらいでした。」
「それならよい。ただし、もしもまた見かけたら、すぐにパオロに伝えるのだそ。」
「わかりました。」
聞きたいことだけ聞いて、フェデリコは帰っていきました。ゴンドラに乗り込むフェデリコを丁寧にお見送りしたあと、カテリーナは自室に戻り、そこに隠れていたパオロに「今お帰りになられたわ。」と報告したのです。
「あなたが予想した通りのことを聞かれました。」
「やはりそうか。」
「うまく話せたと思いますわ。そもそも嘘は申しておりませんし。」
「そうだね。でも協力してくれて、助かったよ。」
「彼はもう?」
「ああ、航路が順調なら無事にパレルモに着いている頃だと思うよ。でも、君を共犯にしてしまった気分だな」
「彼は私の命の恩人ですから。それに私も彼を疑ってはいません。あなたと同じように。」
「同じように、私はジュリオを信じたんだ。彼をベレッツァ家で雇うと決心したジュリオを。バルバリーゴ家が彼を疑って見捨てたと聞いたら、リッカルド伯父はどう思うだろう? リッカルドが生きていたら、絶対こんなことにはならなかったはずだ。」
「ね、パオロ、あなたは大丈夫なの? バルバリーゴ家の当主を裏切ってしまったことにはならない?」
「私はもうフォスカリ家の人間だよ。それに私はもう、自分の信じた義に反してまで、バルバリーゴ家に仕えることはできない。」
「パオロ・・・」
「すまない、結局、きみを巻き込んでしまった。」
そのときパオロの頭の中では、ジェローム王の最後の言葉と、マリアンヌに最後に警告された言葉がからみあっていたのです。
苦悶の表情のパオロにそれ以上何も言うことが出来ず、カテリーナはリュ-トを手にして、彼の苦痛を少しでも和らげようと自作の『シチリアーナ』を演奏し始めたのでした。