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パドヴァの薬草園にて

第64章

 パドヴァに戻った翌日、ジュリオをいつも通り午前中は大学で講義をした後、午後は修道院跡地の薬草園に向かいました。薬草園はマルクが主に責任者として作業を進めていたのですが、そろそろ専任のよい庭師を探さなければならないな、と昨日から南仏の実家に帰国していたのです。毎日植物の世話をしないと生育に問題が出るかもしれないので、マルクが戻るまでの間、代わりにジュリオが水やりや植え替えなどの管理しなければならなかったのです。

 

 とはいえ、ジュリオにとってこの作業は苦痛でも面倒なことでもなく、小春日和で快適な陽気の日中に、一人でのんびりと植物園で身体を動かすことは気分転換にもなりました。心地よい汗をかいた後、一段落しようと井戸で冷たい水を汲んで顔を洗い、ふと顔を上げるとそこに知った顔がありました。

 「あ・・・」

 驚くジュリオに、乾いた布を差し出した元副官のジェロームは、

 「こんにちは。ジュリオ殿。お元気そうで何よりです。あなたに会うためにパドヴァに来ました。よろしかったら、少しお時間をいただけますでしょうか?」

とニコニコしながら、とても流暢なイタリア語で話しかけたのです。


 修道院時代からあるこじんまりした回廊に案内し、木のベンチに二人で並んで座ると、日陰のせいか涼やかな風が通り、ジュリオはとても心地よい気持ちになりました。そしてパオロに報告するためにも、元副官の話をできるだけ聞こうと思ったのです。こうして実際に再会して改めて、この人物にどうしても悪意を感じられず、まずは彼が話してくれることを素直に聞くべきだ、という直感が働いたのでした。


 「素敵な薬草園になりそうですね。」

 「ありがとうございます。ええと、何とお呼びすれば・・・」

 「ジェロームです。私の本当の名前です。パオロ殿から聞いておられなかったのですね。それに今は、そう、サンマルコ共和国からしてみれば、指名手配のような身の上ですしね。」

 「それなのに、わざわざ私に会いにくるなんて、大胆ですね。」

 「あなたは、私の命の恩人です。そのお礼をきちんと申し上げたかったのです。そして出来ればきちんとその恩をお返ししたいと考えております。」

 「そんな、医師として当然のことをしたまでですよ。ただ、よろしかったら、もう少し詳しくあなたの今のお立場と、死んだふりをしてまでヴェネツィアに戻ってきた理由を教えていただけませんか? パオロは本心ではあなたを捕縛するようなことはしたくないようです。何より、自分の妻の命の恩人だから、と逡巡していました。」

 「そうですか・・・。ではまず私の素性からお話いたしましょう。もう20年以上前になりますか、私は当時のバルバリーゴ家の当主の密命で、キプロスに送り込まれた密偵でした。ジェノヴァ出身の改宗イスラム教徒にキプロス王に就任に危機感を募らせた政府の意向です。私はムスリムともヴェネツィア人ともとれる外見をしていたので、王宮内の下男として採用され、ジェローム王の目にもとまり、副官の地位まで上り詰めました。」

 「そ・・そうだったのですか。それは・・・」

 いきなりの意外な話に絶句してしまったジュリオが、今告白されたことを理解するまで、元副官ジェロームは黙っていました。


 「それにしてもあなたは、あのジェローム王の信頼を勝ち得たのですね。」

 「しかし、あくまで私の真の雇い主はリッカルドでした。当時のバルバリーゴ家の当主です。そして彼に定期的にキプロス内の情勢を報告していました。その目的は通商上の便宜を獲得するため、両国間の良好な関係維持のための情報収集でした。当時は航海のための補給基地としての良港と商取引上の最恵国待遇さえあれば、キプロス王としてもヴェネツィア政府としてもお互い多大なメリットがある状態でしたので。」

 「ええ、両国間の関係はとても上手くいっていると私も思っておりました。サンマルコ共和国の養女を輿入れさせるほどでしたよね。ロードス島での諍いが起こったときも、大過なく事態が収拾したように記憶しています。」

 「はい、両国間の関係が悪化した場合は、私はすぐ逃亡するようにともリッカルド様に言われておりましたが、その必要もなく日々は過ぎてゆき、私はジェローム王と一緒に過ごすうちに、彼の人柄と能力、そのカリスマ性にすっかり敬愛の情を抱くようになっていたのです。もはやリッカルド殿に雇われているのか、ジェローム王に仕えているのか、わからなくなるくらいに。幸いだったのは、その二者の方向性は一致していたので、私は悩まずに済みました。」

 「わかります。私も何度かジェローム王とお話する機会がありましたが、一瞬で彼の人格に魅了されました。そういえば、キプロスから戻る船の中で、パオロと『あんな方が上司だったら』と話し合ったことがありましたよ。」

 「ふふ、そうでしたが・・・。本来なら戦闘終了後、私もあなた方と一緒の船でヴェネツィアに戻るはずでした。すでにジェローム王は天に召されおりますし、私は雇い主のバルバリーゴ家に戻り、現当主に経緯を報告するのが筋でした。」

 「確かにそうですね。しかしパオロの話だと、今のバルバリーゴ家当主はあなたがスルタン側に寝返っているのではないかと疑っているような・・・。」

 「そういう疑いを抱かせてしまったのが、私の失敗だったのかもしれませんが、そもそもリッカルド殿がお亡くなりになってから、全てがおかしくなってしまったのです。」


 そこで元副官のジェロームは何かを思い出すように遠い目をして、ばらくの間、黙ってしましました。

 「ジェローム殿、私はそのリッカルド殿のことは直接存じ上げないが、パオロ殿が何かの折りに、とても尊敬しているということを言っていたことは覚えている。」

 「ええ、ジェローム王とはまた違った、素晴らしい知見と実務能力を持ち、多方面に配慮してくださいました。本当に心から信頼できる方でした。私自身、彼から命じられなければ、この仕事は受けていなかったでしょう。リッカルド殿は私からの通信に対して毎回すぐに返信をくださり、助言や留意すべき点などを簡潔に伝えてくださったので、私も安心して活動を続けられました。それが、次のご当主のかたに代替わりしてからは返信がほとんどなく、そのため私からも報告が間遠になり、最後のほうは年に1,2回ほどなってしまいました。もちろん返信はありません。私はジェローム王の許しや指示がなければ島外に出られる身の上ではありません。一度で良いから視察の名目か何かで、バルバリーゴ家の新当主とお会いしてお話したかったのですが。ついに一度もいらっしゃることはありませんでした。」

 「リッカルド殿は、後継者にきちんと引き継ぎをしていなかったのか?」

 「リッカルド殿のことです。そんなことは決してないはずです。もしかしてヴェネツィア政府の上層部の誰かが、私がジェローム王に心酔して、ヴェネツィアを裏切っているとか、ありもしない噂話を吹き込んだのかもしれません。」


 ジュリオは帰国の船の中でのパオロとの会話、つい昨日の交わしたパオロとの会話を思い出しました。    -パオロも、この元副官と同じような不信感のようなものを抱えていたのか。異国に送り込まれてハシゴを外された状態。疑心暗鬼になってしまっただろうに・・・。-


 「そして10年程前からジェローム王の年齢と嫡出子の不在から、ヴェネツィア政府がキプロス島の直轄領有を画策していることは私だけでなく、ジェローム王ご自身も充分気づいておられました。しかしバルバリーゴ家はじめ政府上層部から、それについての具体的な私への対応指示は全くなかったのです。どうもこの頃には、私がスルタンと裏取引しているのではないかという疑惑までかけられていたようです。」

 「情報がスルタン側に漏れるかもしれないと危惧したのだろうな。だから何も連絡を出さなくなってしまったのか。」

 「ええ、そしてスルタン軍によるウィーン包囲が起こって、ヴェネツィア政府としてはキプロス島領有案が一気に進んだようですね。」

 「ヴェネツィアにとって、キプロス島は通商上の最重要の中継基地。そこがスルタン直轄配下になったら、ヴェネツィアは専用港も取り上げられた上、経済的便宜なんて受けられなくなるだろうし。」


 それまで冷静に感情を表さずに説明していた元副官はここで、悔しいような呆れたような複雑な表情をして言い放ったのです。

 「今のヴェネツィア政府の上層部は理解されていなようですが、ジェローム王に対するスルタンの信頼度は、彼らが想定しているよりも何倍も高いのですよ。この何十年もの間にスルタンにもたらした経済的利権も相当なものですし、あえてこんな小さな島を手間と兵力を消費して制圧しようなどとは考えていませんよ。ヴェネツィア政府の情報収集能力と分析能力はここ10年で著しく低下しています。」


 「そうなのか・・。」

 「失礼いたしました。最初のご質問に戻ります。私が自殺を偽造してヴェネツィアに戻ってきた目的ですが、私は新たな出仕先を探しに戻ったのです。もうバルバリーゴ家に戻るつもりはありません。現在のご当主を信じられないからです。死人になれば縁が切れます。」

 「そこまで失望されているのか?」

 「ジュリオ殿も、あの戦闘前夜の混乱を覚えておいででしょう? カテリーナ様ほか島外へ脱出させるべき人間を救出させる船も派遣せず、戦闘が終わって安全になったあとで乗り込んできた政府の派遣団のあの態度。ああ、リッカルド殿がいらっしゃった頃のあの国は急速に劣化してしまったと実感いたしました。」

 「パオロ殿も、派遣団を“あの連中”呼ばわりしていたな・・・」

 「初めは、カテリーナ様のフォスカリ家に出仕させていただけないかと考えておりましたが、婿入りされたパオロ殿はバルバリーゴ家のご出身。現在のご当主は私に会ったことがございませんから、たとえ街中でも、元首宮の中であっても誰だかわからないでしょうが、これはやはり難しいと判断しまして。」

 「なるほど、それで私を訪ねにきたんだ。」

 「ええ、次期ベレッツァ家ご当主である、ジュリオ様のところに。」


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