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平穏な日常の蔭

第62章

 ジュリオは毎月1回、自分の解剖書の制作状況と次巻の出版予定についてパトロンであるファビオ・フォスカリのもとに、定期報告に通っていました。当初、来年早々には4巻目を出版する方向でアルド社と話をすすめていたのですが、この秋のキプロスでの戦闘に巻き込まれた事もあり出版予定の延期の弁明と、さらにパドヴァ大学付属医療施設の進捗状況についても詳しく説明しに、その日はフォスカリ家に赴きました。

 

 「報告をありがとう、ジュリオ殿。それにしても、娘と娘婿の大恩人に対して、こちらからお礼に伺わなければならないところを、大変申し訳ない。カテリーナからもパオロ殿からも聞いている。ご実家のベレッツァ家にもカテリーナが大変お世話になった。特にお母上のカミーラ様には、娘にとても気遣っていただき、親切にしてくださったとか。二人が無事にヴェネツィアに戻ってこれたのは、ひとえにジュリオ殿のおかげだ。いつでも全力で支援するから、遠慮無く、何でも相談して欲しい。」

 「いえ、そんな。怪我の治療は医師として当然のことですし、マリアグラツィア様にも申し上げた通り、戦闘前に脱出する船を確保できたのは本当に神のご加護としか・・・。」


 客間でファビオとジュリオがそんな会話を交わしていたとき、ちょうどカテリーナの見舞いに来ていたパオロが顔を出したのです。

 「廊下にも声が聞こえてきたので、ジュリオ! 会えて嬉しいよ!」

 「パオロ。すっかり快復したようで良かった。帰りの船の中では、大丈夫かと心配だったが、元気そうで何より。」

 「おや、二人はそんなに親密な関係なのか?」

 親しげに挨拶を交わす二人に、思わずファビオはきょとんとした顔をして聞きました。

 「ええ、義父上、あの戦闘を生き抜いた仲ですから。もしお話が終わっているのならば、ジュリオを借りてよいですか? ジュリオ、丁度良かった。少し時間をくれないか。」 


 いつになく明るい雰囲気のパオロに戸惑いつつも、パドヴァ大学に戻るのに同行するから、というパオロと一緒に、ジュリオはフォスカリ家を後にしたのでした。

 

 二人でブレンダ運河を遡上する船着き場まで行くと、急にパオロは神妙な顔つきになり、態度が急変したのです。

 「ジュリオ、キプロスでのことで、ひとつ確認したいことがある。落ち着いて話したいので、ちょっと運河沿いのバルバリーゴ家の別荘に立ち寄ってくれないか。」

 「構わないが。私もヴェネツィア政府の審問官に話したこと以外何も知らないと思うが・・・。」

 「ちょっと事情が変わった。君の身に危険が及ぶようなことはないとは思うが、話しておきたいことがあるんだ。」


 あのマリアンヌが晩年を過ごした別荘に着くと、召使いにワインを持ってこさせたあとは人払いをして、パオロは単刀直入に話し始めました。


 「実は、カテリーナがヴェネツィアで、王の副官を目撃したんだ。」

 「え? 何だって? 見間違えじゃないのか? 妊娠初期の不安定な時期だし、疲れから変な思い込みをしたとか・・・」

 「二度見かけたそうだ。一度目は薬草院から帰るとき、リアルト橋の近くの市場で。二度目は、音楽院の中庭で、私の兄、院長のサンドロと話してしていたところを。サンドロは目がよく見えないから、人相をはっきりと説明はできなかったが、忘れ物を届けにきたと言われたそうだ。」

 「忘れ物?」

 「一冊の作品集を。『リュートのための舞曲とアリア』。カテリーナの作品集だよ。サンドロの曲も数曲収録しているから、彼の名と肩書きが奥付にあったので、音楽院に届けにきたそうだ。」

 「親切な方が、たまたま届けてくださったのでは?」

 「カテリーナが確認したところ、その一冊はまさしく、彼女がキプロスに置いてきてしまった一冊だったそうだ。彼女が楽譜に端に書き込んだメモがあった。」

 「・・・・・」

 ジュリオは気を落ち着かせようと、テーブルに置かれた赤ワインを一口ごくりと呑みました。


 「ジュリオ、思い出してくれ。君が『副官が服毒自殺を図った』と、私が休んでいた部屋まで報告に来てくれたとき、確か翌朝には埋葬すると言っていたよね。」

 「薬草園のジギタリスの植わっている区画で発見されたと報告を受けた。すでにそのときは事切れていて、遺体はとりあえず地下室に運ばれた、と。できるだけ早く埋葬するという習わしだと聞いたから、翌朝には薬草園の、王の遺体の隣に埋葬するように指示したんだ。」

 「君がご遺体を直接確認したわけではなかったんだね。」

 「あのときは、目の前に治療をしなければならない怪我人達がまだたくさんいて、そちらを優先してしまった。ほかにも治療のかいなく亡くなられた兵士もいて、副官の部下たちに対応を任せてしまったんだ。」

 「埋葬場所は君が指示したと言ったが、なぜジェロ-ム王の横なんだ?」

 「それは、王の死後、生前の副官に頼まれたからだ。自分が死んだらそうしてくれと。王の死がショックだったから、そんな弱気な頼み事をしたのかと思い、必ずあなたは快復するから、と励ました。コーランの教えでも自殺は大罪と聞いていたから、まさか後追いするなどとはそのときは考えなくて。」

 「あの政府派遣団が王の遺体が埋葬された周りをすべて掘り返したそうだ。何も見つからなかったそうだ。」

 「それでは、自殺というのは狂言だったのか! 確かに彼の手下が示し合わせて工作することは可能だった。あの冷静沈着な副官が私に、あんな願いごとをするなんて、確かに違和感があったんだ。あのときは私もかなり疲労していて、深く考えなかった。」

 「ありがとう。これではっきりした。」

 「彼は一体何者なんだ、パオロ」

 「今、それを調べているところだ。念のため、カテリーナはしばらく外出しないように、と言い含めている。誘拐などされたら大変だからね。ただ、私には、何か彼がこちらとコンタクトを取ろうとしているようにも見えるんだ。もしかしたら君の目の前にも現れるかもしれない。そのときはすぐ私に報告してくれないか。」

 「分かった。必ずそうするよ。・・・・見つけたら彼を捕まえるのか?」

 「ああ、もしかしてスルタンか、もしくはほかの誰かとつながっているかもしれない。彼の目的が何かも現段階ではわからない。」

 「捉えたら、自白させるのか? 拷問とかして・・・」

 「・・・・彼は妻の、カテリーナの命の恩人だ。そんなことはしたくはないんだが。立場上、指示せざるを得ない・・・。」

 「立場上?」

 「ああ、また上層部からやっかいな役目を負わされた。結局いつも手を汚さなければならないのは私というわけだ。まあ、今回はそれを承知で引き受けたから、仕方ないな。」

 

 戦いは終わり、平穏な日常がやっと戻ってきたと感じていたジュリオは、あのフォスカリ家での妙に明るかったパオロの態度は、カテリーナを安心させるための演技だったのだと、そのとき気づいたのでした。


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