待つだけの日々
第58章
『ああ、帰ってきたんだな』
海上からサンマルコ広場に建つ鐘楼が見えてきたとき、パオロはつぶやきました。すでに自分の下船準備を終えたジュリオとともに、二人で荷物をまとめている間に船が港に到着したかと思うと、パオロの個室に二人の官吏が入ってきました。
「パオロ・バルバリーゴ殿、ジュリオ・ベレッツァ殿、お疲れのところ恐縮ですが、このまま我々と元首宮までお越しいただけませんか?」
言葉使いは丁寧でしたが、慇懃無礼なその態度は強制連行と同じでした。
元首宮に着くと、二人はそれぞれ別室に通され、キプロスでの経緯を事細かに質問されました。予想していたことでもあり、ジュリオはできるだけ明るく快活に答え、パオロの適格な状況判断と真摯な行動を強調するように説明しました。ジュリオは2時間ほどで解放されましたが、パオロはその晩そのまま、元首宮に留め置かれたのです。
ジュリオはパオロの状況を心配しつつも、その足でカテリーナの状況を憂慮しているはずのフォスカリ家に向かうことにしました。召使いがジュリオの来訪を告げると、先に飛びだしてきたのは、夫人のマリアグラツィアでした。
「ああ、ジュリオ殿。ご無事で良かった。娘から手紙で知りました。あなたのおかげで無事シチリアに逃れたと。主人に代わり、いえ、母としても心よりお礼申し上げます。感謝してもしきれませんわ!。」
「いえ、幸運にもあのとき実家の商船が停泊しておりまして、神のご加護です。当然のことをしたまでですので。ところで、ご主人のファビオ様は?」
「それが、ここ2週間ほど、家を留守にしておりますの。緊急会議とかで招集されてしまって、ずっと元首宮のようです。それで、娘はまだそちらのご実家でお世話になっているのですね。パオロ殿のお許しが出るまでキプロスに戻れないとか。早く戻って、提督夫人としてのお役目を果たさなければならないと焦っているようでしたわ。体調は良いようなことを書いてきましたが、心配で。」
-ああ、なるほど。先ほどの官吏たちに『キプロスでの戦後処理に関しては現時点では国家秘密に当たるため、関係者以外には口外しないように』とやたら念押しされたのは、こういうことだったのか。フォスカリ夫人はパオロが役職を解任され、ヴェネツィアに戻ってきたことなど知らないのだろう。でもカテリーナは何故、自分の妊娠のことは母親に告げていないのだろうか? まだ流れる可能性がある時期だからか? 理由はわからないが本人が母親に明かしていないことを私の口から言うことはできない。-
「公私ともに大変お世話になっているフォスカリ家の皆様のためにお役に立てて良かったです。私は学長に報告するためにすぐパドヴァに戻らなければなりませんが、実家の父とも連絡をとってみます。」
「あら、今晩くらいこちらでお休みになられては? すぐお食事とお部屋ご用意しますわ。」
「ありがとうございます。ただ、キプロスで別れた大学の同僚のことも心配なので。先にパドヴァに帰還したはずなのですが。」
「あ、マルク様ね。娘をシチリアまでお連れくださった。とても親切にしてくださったそうで。どうぞよろしくお伝えくださいませ。」
その日の夜半過ぎ、やっとジュリオは自分の部屋の寝台に横になることができたのでした。
*****
ある日突然やってきたフォスカリ家の令嬢とジュリオの同僚と名乗るマルクという青年に、ジュリオの母カミーラは、この二人が駆け落ちでもしてきたのかと最初は驚きました。
しかしすぐに説明を聞いて事情を理解し、慌てて召し使い達を総動員させてキプロスから避難してきた人達を受け入れたのでした。
ベレッツァ家は歴史のある古い貴族の家柄ですが、カミーラは商家の出で、嫁入り前から実家の実務も手伝っていたのです。そのため夫ジェコモが商売を始めた当初から、カミーラの実家からの協力も得て、当時としては珍しく夫婦二人三脚で事業を興したのです。
その夫から『最近どうもキプロスがきな臭いな』とは聞いていたので、カミーラは事態をすぐ理解することができたのでした。
自分の屋敷だけでなく、知り合いの家まで掛け合って、滞在先を確保したカミーラの行動力と人脈に、カテリーナもマルクも感服してしまいました。
「ジュリオは母上に似たのだな。人当たりがよく陽気で、誰とでもすぐ親しくなれる。しかも周りをまとめてすぐに取りかかる行動力がある。」
感心そうに言いながら召使い達と一緒に荷物を運び入れてくれるマルクに、カテリーナも思わず
「お互い、素晴らしい友人を持つことができて幸せですね。」
と答えてしまいました。
「いや、本当に。ここならあなたも快適に過ごせるのではないですか? まだしばらくは安静にして過ごさないといけない時期ですし。」
「はい。ご心配をおかけして申し訳ありません。今、私が出来ることは、信じて待つことしかありませんね・・・。」
その晩はベレッツァ家への挨拶も夕食もそこそこに、疲れ切っていたカテリーナは先に失礼させてもらい、床につきました。
家業を手伝いつつも家の中を取り仕切っているカミーラは、カテリーナのこともとても気を遣ってくれました。そのためか、毎日眠く、だるそうにしているカテリーナの様子をみて、すぐカミーラは気がついたのです。しかし本人が言い出すまでは聞くまいと、夫にもその可能性を話さないで黙っていました。
それから2週間ほどだってから、ジュリオから父ジャコモあてに、待望の通信が届いたのです。
『キプロスからスルタンの船が撤退したが、キプロス王は戦死、キプロスはヴェネツィア軍が制圧している。パオロは怪我をしたが命に別状はないものの治療中。多数の怪我人が出て自分は対応に当たっているが、戦闘再開の可能性は低いようで、まもなく停戦条約が結ばれるだろう。』
短い通信でしたが、ジャコモがカテリーナとマルクも同席した昼食の場で手紙を読み上げてくれたので、ひとまず皆安堵の胸をなで下ろしたのでした。
その昼食後、カミーラがカテリーナの部屋を訪れると、カテリーナは珍しく机の前に座って、一心に手紙を書いているところでした。
「カテリーナさん、良かったわ。今日は体調が良いようね。」
「はい、奥様。夫が無事と知って、元気が出て参りました。今、夫あてに手紙を書いているところです。ジュリオ…様にもお礼を申し上げなくては。」
「その前に、これをお読みになった方が良いわね。ジュリオからの手紙に同封されていたからあなたに渡すようにと、主人から言付かってきました。パオロ様からあなた宛てのお手紙のようよ。」
「え?パオロから?」
頬を染め、目の前にカミーラがいるにも関わらず、嬉しそうにすぐに封を切って読み出すカテリーナ。その顔はすぐ曇ってきてしまいました。
「あら? どうしたの?」
「・・・まだ、キプロスに還ってくるなと・・・。」
「まだパオロ殿ご本人も怪我から回復されていらっしゃらないのでしょう? ジュリオも多くの治療中の患者対応でまだ大変なようだし・・・。」
「せめて、私がパオロの側にいて、彼を看病することができれば・・・」
「本当にそれが今のあなたにできるのかしら? カテリーナさん」
「え?」
「気づいていたけど、あなたが何も言わないから黙っていました。でもね、辛いときは周りに助けを求めてもいいのよ。 やせ我慢や無理は良くないわ。お腹の子のためにも。」
「・・・・・」
「お手紙を書き終わったら、召使いに渡してね。できるだけ早くキプロスまで届くように、家令に命じておきますから。」
それからさらに二週間。カテリーナは相変わらずベレッツァ家で快適に過ごさせてもらいつつも、マルクはパドヴァに向かって出立してしまい、パオロからの返事も届かず、カテリーナが出来ることといえば、つわりが納まったときにリュート奏でて、気を紛らわすことぐらいしかなかったのです。
そしてシチリアに来てひと月以上過ぎたころ、父ファビオからの手紙が届きました。そこには「キプロスではなく、フォスカリ家に戻るように」と書かれてあったのです。