帰国の船内
第57章
「明日にでも母国から要人を乗せた船が参ります。その船に折り返しお乗りいただければと存じます。快適にヴェネツィアにご帰還できるかと。ただ、戻りましたらすぐに元首宮にそのままご滞在いただくことになります。キプロスでの事の経緯についてご報告ください。」
停戦合意し三週間、負傷者の王宮からの移送も終了した頃、ジュリオはヴェネツィア派遣団の一人から申し入れを受けました。
副官ほか兵士たちの埋葬も一段落し、ジュリオもそろそろ本国に戻らなければと思い始めていたので、その提案に乗ったのです。
すでに商館長としてパオロも仕事も復帰していると聞いたので、きちんと出立の挨拶をしようとジュリオは商館に赴きパオロとの面談を申し込んだのでした。
この頃にはもう、ジュリオとパオロの間にはともに戦闘を生き抜いてきたという同志のような仲間意識を感じるような間柄になっており、お互い本音で話すようになっていました。
そしてジュリオが自分の帰国予定を告げると、驚いたことにパオロが自分もその船で本国に帰ることになったと明かしたのでした。
「私も本国に呼び出された。」
「え? サンマルコ共和国領となったキプロスの初代総督となるのではなかったのか?」
「ああ、キプロス王に何かあった場合は、領有権を主張してスルタンと戦い、キプロスを制圧するようにと命令を受けていた。そして制圧後は私が提督してキプロスを治めよと。そうでなければ、あれだけのヴェネツィア海軍の船を駐留させることはない。
そもそも、君のキプロス訪問がこんなに迅速に事が進んだのも、いざというときに優秀な外科医を送り込んでおきたいという政府の意向が働いたからだと、今さらながら気がついたよ。」
「やはりそうだったのか。しかし早々に総督が不在になってしまって問題はないのか?」
「いや、私は戦闘中に怪我でしばらく政務を執ることができなかったから、身分的にはまだ商館長のままで、正式の辞令は下りていない。おそらく、その船で本国からやってくるという要人が、総督となるのだろうな。」
「そうは言っても、君だってキプロス事情に詳しい政府の要人の一人だろう?名門バルバリーゴ家に一族だし。」
「いや、傍流の庶出の三男にすぎないよ。何の力もない駒でしかない。私に決定権はないんだ。カテリーナからは、体調が落ち着いてきたからそろそろキプロスに戻っても良いかという打診の手紙が届いたが、申し訳ない、まだしばらく君のご実家で世話になるか、もしくは一度ヴェネツァアのフォスカリ家に戻ってもらうか、今日にでもジュリオ、君に相談しようと思っていたんだ。」
「いや、もちろんシチリアに実家には好きなだけ滞在してもらって構わないが・・・。政府の上層部に約束を反故にされたってことか?」
「・・・なんだか、必死に敵と戦ったあとに、味方のだまし討ちにあったような気分だな。」
ここまで本心をさらけ出し、感情を抑え切れずに下を向いて肩を震わせているパオロの姿を見て、ジュリオは何も言えなくなってしまいました。しばらくの沈黙のあと、ジュリオは『そうだった』と思い出し、懐から凝った細工の蓋つきのガラス器を取り出しました。
「王宮内の治療室の片付けをしていたときに、これを見つけたんだ。ジェローム王の副官の寝台のそばの棚にしまってあった。カテリーナを守ったときの傷が早く回復するようにと、ジェローム王から下賜されたものだが、これは君が受け取ってくれないか? 副官の、そして王の遺品として。」
それは、マリアンヌがジェローム王に渡して欲しいとパオロに託した、あの最後のクリームの器でした。
「ああ、これはマリアンヌの遺品でもあるね。ありがとう、ジュリオ。大切にする。」
パオロの予想通り、到着した政府の要人は十二人委員会のメンバーだった一人で、初代キプロス総督の正式な辞令を持参して商館にやってきました。そして商館は総督庁と名を換え、パオロはまるで追い出されるかのうように、帰国船に乗り込むことになったのです。
『引き継ぎは必要ない。必要な情報はもう先に到着し情報収集してきた派遣団から聞くから』と侮蔑的に言われても、パオロは特に意見することもなく商館を、キプロスを去ったのでした。
ヴェネツィアへと帰る船の中で、ジュリオは治療という名目でしばしばパオロの船室に訪れました。怪我はもうほとんど回復していたパオロでしたが、その無気力な様子にジュリオは彼の精神状態のほうが心配だったのです。パオロの気を紛らわそうと、十字軍の時代から代々ベレッツァ家に伝わってきた宝剣にまつわるさまざまな話をすると、実に興味深そうに話を聞いてくれるようになり、そのうちぽつりぽつりと自分の話をするようになりました。
「私の母は、とある没落貴族の娘だったため、バルバリーゴ家には後妻として正式に認めてもらえなかったんだ。でも自分は嫡子として正式に認めてもらい、兄たちと分け隔て無く教育を受けさせてもらった。そのことを母から何度も感謝するようにと諭されてきた。そしてバルバリーゴ家の恩義に報いるために、一生尽くしなさいと言われた。
そんな母は、まだ私が幼い頃に病でなくなってしまったんだ。母は肺の病気になってからバルバリーゴ家にツテで薬師院にずっと入院させてもらい、治療を続けていた。薬師院のマリアンヌ院長は、私を小さい頃からかわいがってくれて、祖母のような存在だったんだ。」
「そうだったんだね。ジュリエット様からも聞いているけど、彼女を慕っている人は大勢いるみたいだし、何より薬師院を創設されたことで、実に多くの人たちを救ってきた偉大なる女性だね。」
「あの、君から受け取った副官の遺品のクリームの入ったガラス器、あれは私がマリアンヌ様に最後にお会いしたときに、ジェローム王に渡してくれって託されたものなんだ。」
「そうだったのか! 回り回って、君の手元に落ち着いたのも、何かの運命のような気がするな。」
「あのとき、マリアンヌに忠告されたのに・・・」
「え?」
「なあ、ジュリオ、俺にもしものことがあったら、カテリーナのことを、頼んでいいか?」
「な、何を言っているんだ、パオロ。君の怪我はもうすっかり回復してるし、本国で何か罪に問われて、牢屋に収監されるわけでもないだろ?」
「いや、今回のことでよく分かった。俺はしょせん、いいように危険地帯に送り込まれる捨て駒なんだ。いつまたどこに派遣されるかわからない。」
「それなら、もう国から離れて自由に商売とか始めたらどうだ? 君の経験と知識なら、これから何でも出来るだろう?まだその若さだし。」
「・・・そうか、ああ、そうしていいんだ!なるほど・・・。」
「君がキプロスをヴェネツィア領とした功績は疑いないんだ。もうバルバリーゴ家や国に対する恩は返しただろう?」
このとき始めて、パオロの目に力が戻った気がジュリオにはしたのです。




