副官の願い
第56章
ジュリオもまたヴェネツィア政府派遣団からの審問を受けましたが、パオロと違ってかなり丁重な姿勢での質問を受けていました。ただ質問の冒頭から、ジュリオは違和感を覚えていたのです。まるでジュリオが政府からの任命を受けてキプロスに派遣された医師のような扱いでした。
-そうか。ヴェネツィア政府はとっくにこういう事態になる可能性を想定していたのか。だから、あんなにあっさりとキプロスへの渡航申請が許されたのか。戦いの場に外科医は必須だ。ヴェネツィア商館に外科医は常駐していなかったからな。-
「それで、ジュリオ殿、あとどのくらいでまだ王宮で治療中の全ての患者を他の場所に移せそうか教えていただけますか?」
「そうですね。あと2、3週間でしょうか。移送先で安静が必要ですが、とりあえず移送させても大丈夫かと存じます。とくに重傷なものが4名ほどおります。そのうち1名はキプロス王の副官ですが。」
「そうですか。副官は移送させる必要はありません。ここでこのまま幽閉となります。ジュリオ殿も移送が終了したら、どうぞご帰国ください。このたびの報酬はご帰国後にお渡しいたします。」
「いえ、そんなつもりは! ここへは大学付属の医療施設創設の研究のために来ておりましたので、個人的な報酬などは。」
「わかりました。では、その創設として支給される予算に加算しておきましょう。あなた様の帰国の船はこちらで手配します。それでよろしいでしょうか?」
審問が終了したあとジュリオはまだ治療中の患者たちを診るために病室となっている客間に戻り、いつも通りの診察をしていましたが、ジェローム王の副官が珍しく話しかけてきたのです。
「ジュリオ様、王の埋葬の手配、ありがとうございました。大変申し訳ありません。もうひとつお願いがあります。」
少したどたどしいイタリア語ですが、王の死後、ほとんど口をきかなくなってしまった副官のほうから話しかけてくれたことに嬉しくなり、ベッドの横に座って「何でもおっしゃってください。」と答えました。
「私のときも、同じ事をお願いしたいのです。」
「え?」
「同じように、薬草園の四阿の近く。メッカの方向を向いて。できれば王の隣に。」
「大丈夫ですよ。あなたの身体は回復しています。もうひと月もすれば起き上がって、歩けるようになるかもしれません。どうぞ希望を持ってください。」
「ありがとうございます、ジュリオさま。今までの治療に心から感謝いたします。宜しくお願いします。」
『副官が今後王宮内で幽閉されるとしても、せめて薬草園を歩き回れるように配慮してもらえないだろうか』とジュリオがヴェネツィア政府派遣団に要望を打診した二日後、ジュリオは悲痛な面持ちで、まだ回復途上のパオロの診察をかねて、パオロの館を訪れました。
ジュリオはヴェネツィア政府派遣団に同行していた医師から処置を受けるようになっていたので、ジュリオはここ1週間ほどジュリオに会っていませんでした。
戦闘時に負傷でただでさえ精神的肉体的に疲弊していたパオロでしたが、寝室に通されたジュリオの目には回復するどころか、全く生気がなく、さらにやつれているように見えたのです。
「パオロ殿、お加減はいかがですか? 食事は摂っておられますか?」
そう声をかけられると、パオロは上半身を起こしてジュリオの目を見て少しだけ微笑み「パオロと呼び捨てでいい。君にはまだきちんと感謝していなかった。ありがとう。」
「私は医者です。当然のことをしただけですよ。」
「それだけではないよ。本来なら君たちや島内の女性や子ども達を国外に逃がすための船を手配しなければならなかったのに・・・。」
「それは、実家の父が共同経営しているナポリ商船にたまたま出会えただけですよ。神のご加護です。私の力ではありません。」
「一生かかっても返せない恩を受けました。本当に申し訳ない。どうお礼をしたらよいのか・・・。」
「それなら、ヴェネツィアの派遣団の方から、治療の報酬はパドヴァ大学付属の医療施設建設のための予算を上乗せしてくれると約束してもらいましたから。」
ニコっと笑うジュリオ。
「君もあいつらからの審問を受けたのか?」
語気を荒くするパオロ。
「いえ、審問というよりは、怪我人たちの具合などについて聞かれただけです。」
―“あいつら”? パオロは派遣団と何かもめでいるのか? 少し心配になりながらも、ジュリオは話しを続けました。
「実はパオロ、こんなときに申し訳ない、報告しなくてはならないことがあって。良い情報を悪い情報とあるのですが、どちらから話そうか?」
「では、良い情報から」
「先ほどマルクからの速達が届きました。カテリーナ…様は無事シチリアの私の実家で安静にしているそうです。そのほかあの船で脱出してきた人間は全員無事だそうです。」
「そうか、良かった。本当に良かった・・・。ジュリオ、君のご実家にもお礼をしなくては。」
「そんなこと今は気にしないでくれ。それより悪い情報なのだが・・・。今朝方、ジェローム王の副官殿が亡くなられた・・・。」
「え? 順調に回復しているはずだったのでは?」
「おそらく何らかの毒物を嚥下したようだ。」
「コーランの教えでも、自殺は大罪だろう? なぜ?」
「王に殉死したということでしょうか? このたびの戦闘をジハードと考えられていたのかもしれない。怪我のため参戦できなかったこと、王を警護できなかったことを悔いておられたから・・・。」
「それほど、王に対する忠誠心があったのだな。」
「明日には王宮の薬草園、ジェローム王の亡骸の隣に埋葬する予定です。」
「私には、ヴェネツィア政府に対してそこまでの忠誠心は持てないな・・・。」
そう呟いたきりパオロが黙り込んでしまったので、ジュリオは別れの挨拶をして屋敷を後にしました。
その足でジュリオは遺体が発見されたと報告のあった薬草園の一画に向かいました。医師として副官の死因を究明し、それを報告しなければいけない立場だったのです。
「やはりな・・・」
そこにはたくさんのジキタリスの花が咲いていました。この薬草園に強心剤として植えられていたのでしょう。しかし同時にジキタリスは口にすると、摂取後数時間で嘔吐や胃腸障害、めまい、不整脈などの中毒症状を起こし、最悪の場合は心臓機能が停止して死に至るという恐ろしい猛毒です。副官はそれを知っていたのでしょう。夜中に自分の寝台を這いだ出し、ここにきて大量に口にしたのかと思うと、ジュリオは副官の気持ちに気づいてあげられなかったという後悔と、パドヴァでの薬草園の安全管理という難題を突きつけられたという思いで、しばらくそこに一人たたずんでいました。