急転直下
第51章
-あのときのコンスタンツァは、こんな気持ちだったのね-
暗い船室に横たわりながら、カテリーナはまるで天国から地獄に突き落とされたような、ここ数日に起こったことを思い返していました。
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王宮の謁見の間で、ジェローム王はジュリオ一行を迎え入れ、その場でカテリーナもジュリオと再会したのです。ジェローム王と快活に話すジュリオは、あの明るく陽気な懐かしいジュリオのままで、なぜかカテリーナはほっとしました。
「お久しぶりです、カテリーナ様。お元気そうでよかった。」
「ジュリオ様こそ。計画が順調に進んでいらっしゃるようですね。」
「ええ、フォスカリ家のご支援のおかげです。著作も3巻目を上梓することができました。」
「え? もう3冊目なのですか?」
「私はどなたかと違って、とても勤勉なのですよ。」
「私だって、こちらに来てからも創作活動は続けていましてよ!」
出会った頃のような調子の会話を交わしていたところ、ジェローム王が割って入り、カテリーナに言いました。
「話が盛り上がっているようだが、そろそろジュリオ殿を薬草園に案内してもらってくれないだろうか。 私は急用で出かけなければならないので。何かあれば、部下の者に申しつけてくれれば良い。ジュリオ殿、薬草園の管理責任者に何でも聞いてもらって良い。数ヶ月前に雇い入れた者だが、グラース出身の人間で、薬草の栽培に関して知識も豊富だ。参考になるだろう。」
ジュリオ一行と薬草園に向かいながら、カテリーナはそこで曲を作ることが一番の楽しみであることを話し、ジュリオはジュリエットとコンスタンツァがまもなく出産を迎える準備でヴァイツァー家が大騒ぎだという状況を面白おかしく説明し、カテリーナを笑わせたのでした。その様子を見て、後ろから歩いているマルクがニヤニヤしていたのには、二人とも気づきませんでしたが。
薬草園では、管理責任者の青年が入り口で待っていました。カテリーナも何度か会ったことのある金髪碧眼の美しい青年で、見事に鍛えた体つきをしていたので、どこかの騎士団にいたのではないかとカテリーナは勝手に想像していました。
挨拶もそこそこに、ジュリオも同行の者たちも、植物の種類や栽培方法について矢継ぎ早に質問を始めたので、カテリーナはパオロに言われた通り、邪魔にならないように頃合いを見て先に帰ろうと考えていたのです。
同じ頃、パオロは専用港に停泊中の船の中で、ヴェネツィア海軍の提督と密談をしていました。
「提督殿、我々が把握していた、近々スルタンの側近がキプロス王のもとに訪問にやってくるという情報ですが、どうやらすでに到着している様子です。」
「ということは、王とすでに秘密裏に交渉を始めているということか。パオロ殿、どうなさるおつもりですか?」
「本国政府からはスルタンの本隊が到着する前に、軍事力でキプロス島を制圧するようにと厳命を受けています。」
「ええ、それだけの船と兵力はすでに準備が整っておりますよ。」
「ただ、私としてはキプロス王と交渉する余地がまだあるのではないかと考えています。」
「というと?」
「キプロス王は高齢ではありますが、まだ心身ともにご健在で、カリスマ性も維持しています。スルタンの側近も、王のご様子や島内の状況をその目で見れば、今すぐ下手に動くのは悪手だとわかるはず。スルタンの側近が本国に一旦報告もち帰る隙を狙って、ジェローム王を・・・」
そのときに伝令が飛び込んできました。
『スルタンの本隊が、キプロス島の海上封鎖を狙って動き出したらしい。』
この情報を受け
「今しかないようですな。今なら我が国に勝機があります。」
という提督の言葉に、覚悟を決め頷くパオロ。そこへさらにジェローム王からの伝令がやってきたのです。
『可及的速やかに、貴国の軍船を港から出港させるように』
ジェローム王は、ジュリオ達を残して王宮を出た後、キプロスにある一番大きなモスクの脇にある賓客用の建物に向かい、スルタンの側近に会っていたのでした。一週間ほど前に来訪するとの連絡を受けたときから、“左腕”の副官とともに綿密な準備をし、会合に臨んでいたのです。ジェローム王としては、今回の訪問は状況視察で、まだ大規模な軍事行動に出るような予兆はないと判断していたのですが、念のため、王宮に副官を残し、万が一自分の身柄を拘束された場合は、王宮に残っている副官が指揮を執れるように体制を整えていたのです。
ところがそこへ、副官の部下の一人が会談の場に駆けつけ、耳元で囁き急報を知らせました。
『王宮で副官が刺され、人質をとられたようです。』
思わずピクリと眉を動かしたジェロームに、スルタンの側近は
「何か問題でもございましたかな?」
とひげを撫でながら薄ら笑いを浮かべました。
「いえ、些細なことです。お気になさらず。それでは、スルタンのご要望ということですので、すぐにでもヴェネツィアの軍艦を退避させるよう要請いたしましょう。」
そう答えながら、ジェロームは頭の中で次の一手を考えていました。
-なるほど、あの青年がイエニチェリだったのだな。スパイとして潜伏させるとは、こちらも迂闊だった。ただ彼の味方は王宮内にそれほどいないはず。人質はジュリオたちか? カテリーナは屋敷に戻っているだろうか? 伝令を飛ばせたというのなら、“左腕”はまだ機能しているはず。それなら私は・・・-
その後、ヴェネツィア軍から軍船の退避を断固拒否したとの回答がきて、「それでは私が直接赴くことにしましょう。しょせん商人の国、私が強く言えば、彼らは従うしかありませんから。」とジェロームはヴェネツィア専用港に向かったのです。
昼過ぎに、パオロとジェロームはヴェネツィア専用港のすぐ近くの商館の一室で、二人だけで向かい合うことになりました。
「お互い、手の内は見えているということかな?」
このような緊迫した状況下ではあり得ないような穏やかな口調でジェロームはパオロに問いかけました。
「賢明なあなた様はもうお気づきでしょう? 今我々は、この島を制圧できるくらいの軍事力を維持しております。こちらの言うことを聞いてくだされば、どなたにも害は及びません。我々は平和的に解決したいのです。」
「まもなく援軍がやってくる。スルタンは本気だ。それに、ジュリオたちが人質に取られたようだ。確認したほうがいい。」
「王宮で何かあったというのですか?」
「ああ、残念だがそのようだ。」
「欺されませんよ。ジュリオ殿のご一行は、もともと薬草園の調査研究のために、夕方まで帰ってこない予定です。」
「では、奥方は?」
「え?」
「とっくに戻っている時間のはずだろう?」
「・・・・・その脅しには乗りませんよ。それに、大義の前に個人の感情を優先させるわけにはいきません。」
商館に血だらけのマルクが飛び込んできたのは、そのときでした。