ジュリオの沈黙
第45章
思いのほか病院創設の話が一気に進んで、ジュリオは大学での講義と創設準備とで大忙しとなり、しばらくの間ヴェネツィアのカテリーナのもとに赴くことができませんでした。
ファビオが予想以上に積極的に迅速に自分の提案を支援してくれたので、婿養子候補として優位な立場を確立することが先決だと考えていたからです。それに、婚約の印としてお互いの本を交換する約束をしていたカテリーナに自分の作品集の出版に集中してほしかったのです。
そんなある日、パドヴァ大学のジュリオのところに突然ファビオが訪問してきたのです。驚いたものの、丁度よい機会と考えて急遽学長にも同席してもらい、進捗状況の報告をしたのでした。
「ジュリオ殿、よろしければこの後少し二人で話しをしたいのだが。」
「それならば、今日は気候も良いので聖ジュスティーナ修道院まで一緒に行きませんか? 先ほどお話しした薬草を育てる場所として、実はこの修道院の一部を改修する予定なのです。医学や薬学の研究を目的として大学併設の薬草園を設立するのは、おそらくナポリでもモンペリエにもない、初めての試みでしょう。」
ファビオからカテリーナの近況を聞くに絶好のタイミングだと思ったジュリオは意気揚々と歩き出したのですが、すぐにファビオの横顔が先ほどまでとは違って、難しそうな顔をして考え込んでいるのに気づき、いやな予感がしてきました。
とりあえず当たり障りのない天気の話などしているうちに修道院に到着したので、ジュリオはとりあえず案内をすることにしました。
「ここが薬草園の予定地です。薬草園を作るというアイデアは、実はジュリエット様から聞いた話が発端なんですよ。」
「そうなのですか? そういえばジュリエット様はロバート殿とのご結婚前、マリアンヌ様の一番弟子でもいらっしゃいましたね。」
「ええ、ステファン殿とコンスタツァ嬢の婚礼の宴の際にお伺いしたのですが、ジュリエット様がキプロスにいらっしゃった頃、王宮内にご自分の薬草園をお持ちだったそうです。そこでマリアンヌ殿に教えられた植物を育て、キプロス王のために調薬していたのだとか。ジェローム殿からの特別配慮で、ムスリムの王宮付き侍医から学びながら、多くの調薬を試したりしていたそうです。」
「それは初耳でした。父マリオから内密にキプロス王とジュリエット様とのことは聞いていましたが、シチリアでジェローム王から直接話を聞いたときは、薬草園の話は出てこなかったので。」
「ええ、そうでしたね。私もできれば参考のためにその薬草園を見に、キプロスまで見学に行きたいところなのですが・・・。」
「キプロス王宮の薬草園ですか・・・。初秋のころでよろしければ、カテリーナがご案内できるかもしれません。」
「え?」
「ジュリオ殿、カテリーナはパオロ・バルバリーゴ殿と婚約することが決まりました。そして再びキプロスに赴任するパオロ殿に同伴してカテリーナもキプロスに参ります。これは娘の意思というより、フォスカリ家の家長としての私の判断であり決定です。このことについて、娘が直接あなたと会って話したり、あなたに手紙をかいて説明することを私が厳しく禁じました。」
「・・・・・」
「もうすぐ、カテリーナのリュートの作品集ができあがります。カテリーナいわく、それだけは受け取って欲しいそうです。」
「・・・・・」
「そして、必ず当主としてベレッツァ家を継いで欲しいと。歴史あるベレッツァ家を守るには、ジュリオ殿が絶対に必要なのだと。」
「・・・・・」
「もちろん、ジュリオ殿、あなたの指導書については、お約束通り私が当主として今後も続巻の刊行を支援いたします。パドヴァ大学の研究施設、病院施設、そしてここに作られる薬草園は、サンマルコ共和国の国家事業として推進していきます。」
いつでも陽気で饒舌なあのジュリオが何も言えず、ファビオの話を聞いたままずっと黙ったままでした。。
*****
つい最近まで精力的に活動していたジュリオが、急に部屋に閉じこもってしまったことに、同僚のマルクは心配して何度もジュリオの部屋にやってきたのですが、扉を開けてもらえず困り果ててしまいました。
理由も言わず二週間も大学に出てこないジュリオに、『講義を行わないのであれば教授の地位を剥奪する』と、さすがに学長の堪忍袋の緒が切れ「最後通牒を突きつけて、這ってでも来させなさい。」との厳命を受けてマルクが改めてジュリオの部屋に向かいました。
このとき、マルクは大学にジュリオ宛に届いていた荷物をかかえていたのです。
案の定、マルクが扉をノックしてもジュリオは出てきません。しかし物音はするので、部屋の中にジュリオがいるのは分かったのでマルクは扉の前で大きな声で学長の最後通牒を伝えました。
「それから、ジュリオ、君宛の荷物が届いていたから、ここに置いていくよ。アルド社からの荷物のようだが、君の指導書よりも大判の本のようだ。いい加減に明日は大学に来ないと本当に・・」
そこまでマルクが言ったところで、扉が開き、もしゃもしゃ髪をし、やつれたジュリオが目だけをギラつかせて飛び出してきました。
「ジュリオ、きみ、ちゃんと食べていないようだな。すぐ何か食べ物を持ってくるよ。」
そう言って建物の階段を飛び降りて外へ飛び出していったマルクを気にも留めず、ジュリオは置かれていた荷物を取り上げると包装をビリビリと破りました。果たしてそれは、カテリーナの作品集だったのです。
作品集を開くと最初の頁に
『ジュリオ・ベレッツァに捧ぐ』
という献辞の文字が目に飛び込んできました。
そして、そこにはカテリーナからの手紙が挟まっていました。
パンとチーズとワインの瓶を抱えてマルクが戻ってくると、ジュリオは目を真っ赤にしながら、その手紙を読んでいるところでした。