娘時代の終わり
第43章
ファビオ・フォスカリが十二人委員会から極秘の呼び出し指令を受けた時、きっとどこかに大使として派遣任命が下るのだろう、と思いました。そういう可能性もあるとはわかっていたものの、委員会室に向かいながら『せめて娘のカテリーナの婚約が成立してからにして欲しいものだ』と考えていたのです。
それが、パオロ・バリバリーゴとカテリーナの結婚、そして新婦カテリーナをキプロス総督として赴任するパオロに同行させよ、という命令でした。
「総督? もしかしてキプロス島を直轄地として領有する、ということですか?」
「10年ほど前から検討されていたことだ。そなたの義父、マリオ殿の見事な外交手腕で現キプロス王とは良好な関係を築くことができ、最恵国待遇を享受してきたが、王のご年齢から後継者問題がくずぶり始めている。現キプロス王のご子息は幼いうちに亡くなられている。病死なのか暗殺なのか、はっきりしたことは調査したがわからなかったが。そんな状況下で二年前、好戦的なオスマン帝国の新スルタンが就任した。若きスルタンはウィーン包囲に失敗したあと、今度は地中海に矛先を向けているようだ。十二人委員会では、彼を経済的利益より支配領土欲が強い人物像と特定している。近いうちに自分の子飼いの人間をキプロスに送り込むに違いない。」
「そうなる前に、ということですか。とはいえ現キプロス王はまだご健在のようですが・・・。」
「オスマン側に先に行動を起こされてはまずい。ずっと経過観察中だったが、このたびのウィーン包囲で、計画実行が早まったのだ。」
「もとはジェノヴァ人とはいえ、キプロス王が我が国の領有を認めるわけはないと思われますが。」
「ああ、それは分かっている。かつて送り込んだ我がサンマルコ共和国養女という立場の花嫁を社会情勢により処刑してしまった過去もある。ただ、できるだけキプロス王とは交渉をする方針だ。ただし外交交渉で打開出来る前にスルタン軍が侵攻してきた場合は、キプロス王を捉えて領有を宣言する。」
「それがパオロの使命なのですか。」
「次の支配者は若々しい者、キプロスの事情を理解し、キプロス王とも親しいものがふさわしいということで、パオロ・バルバリーゴに白羽の矢が立ったのだ。そこへそなたの令嬢との縁談話が舞い込んだ。 若い夫婦が新しい主人として揃って島にやってくれば、住民たちの間に、これからずっと腰を落ち着けて島を統治してくれるという期待感を醸成することもできる。」
「し、しかし・・・」
「もちろんできるだけ軍事行動は避け、人的損害は最小に抑えたいと考えているが、ある程度の軍事行動は避けられないだろう。最悪の展開になった場合は、カテリーナ嬢だけは先に島を脱出させることも検討範囲内だ。いずれにせよヴェネツィア海軍が島の防衛に全力を注げるよう、準備を整えている。」
元首以下、十二人委員会のメンバーが勢揃いした部屋の中で、メンバーの一人でありパオロの伯父でもあるフェデリコ・バルバリーゴからの説明を聞いた以上、ファビオは腹をくくるしかありませんでした。
「私にも、娘カテリーナにも、拒否権はない、ということですね。」
「明後日にはパオロをフォスカリ家に訪問させるから、そのつもりでいて欲しい。今月中には婚約。夏には婚礼の儀式を済ませ、初秋までにはパオロは、まずは商館長という立場でのキプロス入りとなっている。」
「フォスカリ家が断絶してしまうようなことにならないよう、最大限の配慮はする。そなたも今からこの計画の責任者の一人として、委員を拝命してほしい。」
「分かりました。ひとつだけ条件がございます。それを了承していただきましたら、喜んで責任を全うしたいと存じます。」
その日の帰館は遅くなり夕餉の席には間に合わなかったため、ファビオは夫婦の寝室でまずは妻マリアグラツィアに「カテリーナはパオロと結婚させるつもりだ」と宣言したのでした。
「どうやらパオロは若くして政府の重要な任務に就くことが決まったようだ。ぜひカテリーナに支えてもらいたいとフェデリコ・バルバリーゴから直談判されてしまったよ。もちろんフォスカリ家への婿入りという形だ。家柄、人格も申し分ないし、当のカテリーナも憎からず想っている相手なら、問題ないだろう。」
すぐに喜んで同意するかと思ったマリアグラツィアは、少し考えこんだあとに
「政府でのお仕事って、危険なことはないでしょうね。パオロはご一家の商売を手伝うとばかり思っていたから、ちょっと意外でしたわ。」
女性の勘は鋭いなと思いつつ、ファビオは真実を半分だけ告げました。
「奇遇にも、そなたの父上と同じ、商館長としてキプロスへの赴任だよ。キプロス王とは友好的な関係を維持しているから、今のところそんな危険なこともないだろう。」
「カテリーナも一緒にまいりますの?」
「世継ぎのことを考えると、同行させたほうが良いだろうな。」
翌朝の朝食後、父から自室に来るようにと呼ばれたとき、カテリーナは一心に曲を作っている最中でした。前日に手紙の代筆のためマリアンヌから聞くことになったドロテアという女性を巡る話に今までにないインスピレーションを受け、組曲『ザルツブルグの想い出』の最後の曲、『ある貴婦人の物語』という作品を完成させるのに夢中だったのです。
召使いが何度か名前を呼ばなければ気づかないほど夢中になっていたせいか、父の部屋に入ったときも、何の用事か全く予期していませんでした。
「明日、パオロが我が家にやってくるそうだ。正式な、最終的なプロポースだと理解して欲しい。そしてその申し入れをおまえが受けてくれると信じている。おまえの母とも相談して、総合的に判断したのだ。これはフォスカリ家の当主としての発言だと理解して欲しい。」
父の言葉を聞きながらカテリーナは、自由気ままに過ごしてきた自分の娘時代が終わりを迎えたことを悟ったのでした。