ジュリオの提案
第39章
明日にはマリアンヌと面会するという日の午前中、ジュリオが突然フォスカリ家を再訪しました。
「パドヴァ大学での仕事の調整が一段落つきましたので、改めて今後の展望についてご説明したのですが、ファビオ殿のお時間をいただけますでしょうか?」
ファビオが元首宮に出かけて不在だったため、明日の昼に、という話になると、その場にいたカテリーナが少し慌てて
「あの、私も同席した方がよろしいのでしょうか? 明日は人と会う予定があるので、外出してしまうのですが・・・。」
普段ならカテリーナに予定を変更して家にいるようにと諭すマリアグラツィアでしたが、きっとパオロと会う約束があるのだろうと勝手に推察し、
「それでは本日昼過ぎに夫が帰ってくる予定なので、夕方にもう一度おいでください」
とジュリオに告げました。
ヴェネツィアでの宿泊先に戻ったジュリオは、このとき初めて自分のライバルの存在が気になり始めたのでした。単なる娘の婿ではなく、フォスカリ家当主となる娘婿であれば、娘の両親がかなり程度の決定権を有することは理解していましたし、だからこそカテリーナの両親に納得してもらえるような準備を進めてきたのですが、ライバルがもしヴェネツィアの名門一族の一人だとか、フォスカリ家と昔からの大口の取引先、もしくは昔から家族ぐるみの付き合いの一族の子息だとしたら・・・。
カテリーナの自分への気持ちは信じていたものの、家のために一度はきっぱりと別れを告げたことがあっただけに、情報収集して万全を期したいと考えたからです。とはいえ、ヴェネツィア国内に深い人脈もないジュリオは、とりあえず少し前までフォスカリ家に滞在していた弟ルカに連絡をとってみようと考えたのでした。
その日の夕方、「突然のことで、食事の用意もできないのだが、申し訳ない」とファビオが挨拶しながらサロンでジュリオ迎え入れました。サロンにはマリアグラツィアもカテリーナも同席していたのですが、会話は主にファビオとジュリオの間で交われることになったのです。
「いえ、こちらこそ突然の訪問、恐縮です。ファビオ殿」
「パドヴァ大学での生活は落ち着かれましたか?」
「はい、熱心な学生も多く、教え甲斐があります。私の母校と同じくらい歴史のある大学ですから教授陣も優秀な方ばかりで感銘を受けました。ただ、母校と大きな違いにも気がつきました。」
「それは、何でしょうか?」
「はい、経済的に発展している貴国からの庇護もあり、人材だけではなく書籍も研究設備が大変充実しております。そこで、私は教授としてここで尽くすだけなく、この大学でしかできない事業を興したいと考えたのです。」
ファビオはにやりと笑い、
「どうぞ、お座りになって、その話をお聞かせください。」
とジュリオの話の続きをじっくりと聞くことにしました。
「きっかけは、このたびの疫病の大流行です。貴国は他国との交易が経済の中心ですから、外国船の出入りが激しく、検疫所が機能していても、どうしても外国からの疫病の流入を抑えることはできません。
そこでパドヴァ大学内に、医学部直轄の施設として、ヴェネツィアだけでなく、パドヴァなどの衛星国の人々のための研究の場を作ることを考えました。確かにラッザレット・ヌオーヴォに感染患者の施設ができましたが、対処療法の隔離施設でしかありません。疫病そのものの治療方法や薬を開発したり、疫病蔓延を防ぐ科学的なアプローチを研究する施設を作りたいのです。そしてその研究施設とともに、いずれは患者を治療する病院も作りたいと考えております。」
「その計画はどこまで具体的に出来ているのですか?」
「今は私の構想を話してパドヴァ大学内で信頼を得て、協力者を増やしているところです。学部長、および学長からは内々の承諾をすでに得ました。私の専門分野は解剖学ですが、感染症などの専門医などほかの分野の専門家を集め、将来的には総合病院を作りたいと考えております。疫病の被害は元老院議員も船乗りも関係ありません。市民全員の問題です。今回のような疫病の流行を抑えるためには、市民の誰もが医療の恩恵を受けられる施設が必要ではないでしょうか?」
キラキラした目で訴えるジュリオに、頼もしさを感じつつもファビオは冷静に問いかけます。
「素晴らしい計画だが、問題は資金調達だね。そこはどのように考えているのだね?」
今度はファビオがにやりと笑って応えました。
「もちろん、そこは元老院議員の方々に国庫の予算をいただくためのご説明に伺わなければなりませんが、それだけではなく、広くご寄付を募るために、資金調達のための活動を同時に始めたいと考えております。
たとえばチャリティーイベントなどを開催して、例えば新進気鋭の作曲家によるリュートの演奏会とか。これから説得しなければなりませんが、実はすでに一人、協力していただこうと考えている方のあてがございまして・・・。」
ここでカテリーナが喰い気味に「もちろん!喜んでご協力しますわ!」とつい大声を上げてしまったことに、ファビオも珍しく大笑いしてしまったのでした。
大切な弟を救えなかったことに無力感を感じていたカテリーナにとっては、それほど魅力的な提案はなかったのです。
どちらかといえばパオロびいきだったマリアグラツィアでさえ、薬草院で失った幼い息子のことを思い返し、「ジュリオ様が10年前にいらっしゃたら、もしかしたら」とつぶやいて涙を流したのでした。