伯父と甥
第36章
『これから本家に帰国のご挨拶に行かないといけないので』とサンドロ、カテリーナと別れてチェチーリア音楽院を出たパオロは、市内の大運河沿いにあるバルバリーゴ家の邸宅ではなく、ブレンダ運河沿いにある別荘のほうに向かうため、待たせていたゴンドラに乗り込みました。
つねに一族の誰かが元老院議員の任につき、過去に何度もサンマルコ共和国元首を輩出した名門一族の別荘は『バルバリーゴ宮』と通称される壮麗な屋敷でした。そこに一人で来るように、と本家の現当主からの連絡があったのです。
そして、現当主のフェデリコは、サンマルコ共和国の中枢機関である十二人委員会のメンバーの一人でもありました。
「無事帰還いたしました、伯父上。」
「パオロ、無事で何よりだ。帰国早々申しわけないが、くわしく報告して欲しい。通信文書は毎回届いているが、いくつか確認したいことがある。」
「はい、最後にお送りした通信内容の更新からはじめてよろしいでしょうか?」
挨拶もそこそこに二人は人払いをしてからキプロスの情勢を話し合いました。キプロス領有に関して、できるだけ軍事行動を避けたいと考えていたヴァネツィア政府は、ジェローム王の後継者が乗り込んで来る前の隙を狙っていたのです。交易の支障となってしまう港湾設備などのインフラ破損を避けるために、戦いは避けて外交交渉での解決を望んでいました。
「次に島内のインフラについてですが、現在、ヴェネツィア専用の港湾設備は、マリオ・フォスカリ殿の時代に大規模に改築、拡張したおかげで、日常的なメンテナンスだけで問題ありません。」
簡潔に事務的に、かつ要点をおさえたわかりやすい報告をよどみなく話し続けるパオロに、思わずフェデリコは、若い頃から優秀な外交官だった自分の兄を思い出してしまいました。
「それにしても、私の兄に似てきたね、パオロ。姿、形だけではなく、立ち居振る舞いや話し方も、若い頃の兄を見るようだ。」
「そんなに似ていますでしょうか? ここに来る前に、チェチーリア音楽院に寄ってきたのですが、サンドロからも同じことを言われました。元首でもあられたというリッカルド伯父に似ているとは、光栄です。」
リッカルドは、マリアとの間に子どもは出来なかったので、バルバリーゴ家の家督は次男のフェデリコが受け継いだのでした。つまりパオロはリッカルドからみると末の弟の三男、一番若い甥でした。
二時間近い報告が一段落すると、フェデリコは召使いを呼んでワインを持ってこさせ、久しぶりに帰国したパオロの近況を尋ねました。
「それにしても絶妙なタイミングでフォスカリ家からの申し入れがあって助かったな。それらしい帰国理由を捏造する手間が省けた。それで、実際問題、フォスカリ家の娘との見合い話は受けるのか?」
「たまたま今日、兄のところでお会いしました。すっかり美しい女性に成長していて、驚きました。」
「え? もう会ったのか?」
「正式には明日、フォスカリ家に伺う予定です。」
「気に入ったのか?」
「まだわかりません。ただサンドロいわく、彼女が私について、兄に照会してきたそうですよ。なかなか積極的な方のようです。」
「では彼女はそなたに興味あり、ということなのかな?」
「それは、どうでしょう? どうも婿養子候補として強力なライバルがいるようですし。」
「え? それは初耳だな。」
「私に彼女の情報をくださった方がいたのですよ。ところで、今日はこれでよろしければ、その情報提供者に頼まれた用事をこれから済ませたいのですが。」
「ああ、今日の情報は委員会にかけて討議するから、改めてまたこちらから連絡する。」
「伯父上、私の父にはいつ説明されるおつもりでしょうか?」
「まだしばらくは、極秘だ。もちろんフォスカリ家の者にもな。」
パオロは再び待たせていたゴンドラに乗り込み、ブレンダ運河をしばらく遡ると、岸からちょっと奥まった、柳の木の奥に、ちいさな可愛らしい館が見えてきました。
「小一時間で戻るから、すまないがまた待っていてくれ」
そう船頭に言うと、傾きはじめた西陽のなかを、パオロはその館に向かって歩いていきました。
***
-雰囲気が、少し変わったようだ。キプロスで苦労してきたのであろうか?-
6年ぶりに弟に会ったサンドロは、パオロの中に、今までになかったものを感じ取ったのです。
-伯父リッカルドに口調や所作がかなり似てきただけではなく、繊細でおだやかな印象の奥に、人を立ち入らせないような冷静で達観した強い思いがあるような・・。自分の目的達成のためには、身近な人も躊躇なく利用するような・・・-
サンドロも、いつも冷静沈着で優秀だった伯父リッカルドを若い時から尊敬し、何より自分の音楽の才能を認め、音楽の道に進めるよう父を説得してくれた恩義もありました。
ただ、リッカルドの最初の妻も、後妻となったマリアも、甥の立場から見てあまり幸せそうな雰囲気を感じられず、家庭人としてのリッカルドは公務に時間をとられ過ぎて、妻たちはずっと寂しい想いをしていたのではないかと、勝手に想像していたのです。
-まあ、弟はリッカルドとは立場も違うし、それにカテリーナも、おそらくはジュリオ殿と想い合っているようだから・・・-
サンドロは「我ながら、くだらない杞憂だな」と頭に浮かんだ思いを振り払い、その日は床に就いたのでした。




