極秘計画
第35章
創作中の楽曲についてサンドロからアドバイスをもらおうと、カテリーナがリュートを持って昼食後の音楽院に訪れると、サンドロは珍しく来客中のようでした。
「学院長はただいまお客様とお話中ですが、少々お待ちください、お声を掛けて参ります。」
「いえ、とくにお約束もしておりませんでしたし、来訪を事前にご連絡していなかった私が悪いので、また改めますわ。」
「お客様はお身内のかたですし、おそらくカテリーナ様もご存じのかただと思いますので。」
召使いの一人にそう言われてしばらく玄関ホールで待っていると、「中庭のほうにどうぞ」と案内されたのでした。
中庭にある四阿で、サンドロと話している若い男性がこちらを見たとたん、カテリーナの胸が高鳴りました。パオロだとわかったからです。
-え?もうキプロスから帰っていらしたの?-
実はパオロはカテリーナの初恋の相手だったのです。初恋とはいっても、10歳の少女が優しく声をかけてくれたお兄さんに淡い恋心をいだくようなものでしたが、あの壮行会での演奏のあと、カテリーナの頭を優しく撫でて「とても上手だったね。素敵な演奏をありがとう」と言ってくれたパオロは、幼いカテリーナにとって夢の王子様のように見えたのです。
恥ずかしくてサンドロには「緊張して演奏したことしか覚えていない」と言っていたカテリーナでしたが、実はパオロがヴァネツィアを去ってしまった後は数日間、悲しくて一人で泣いていたほろ苦い想い出がありました。
「ちょうどよかった、カテリーナ。覚えているかい?弟のパオロだ。昨日の晩、キプロスから戻ってきたんだよ。かしこまった席で再会するより、こちらのほうがいいだろう?」
そうサンドロから紹介されて6年ぶりに会ったパオロは、カテリーナをして幼いころに憧れた王子様を彷彿させた姿だったのです。
「久しぶりだね、カテリーナ。あんなに小さかったのに素敵な女性になって、驚いたよ。でも今でもリュートは続けているんだね。いつも持ち歩いているのかな。」
「こ、これは、サンドロに、いえサンドロ先生に今日はあの、ちょっと創作のご相談に伺おうと・・・。あ、その、パオロ様、お帰りなさい、無事に帰国されて、その、とても安心いたしました。」
「ふふ、パオロでいいよ。良かったら、少しリュート弾いてくれないか。あの可愛い少女がどのくらい上達したのか、聞いてみたいな。」
「パオロ、カテリーナはもう私以上の弾き手だよ。もう国外での演奏会に招聘されるくらいの実力なんだ。」
「それは驚いたな。素晴らしいね。」
幼い頃の“憧れの王子様“に褒められて、頬を紅潮させてしまったカテリーナ。この間、ジュリオと一緒だったときと同じくらい顔を赤らめているカテリーナを見てサンドロは
-おや、これはもしかして、かなり脈ありかな?-
と、意外に感じながらも、カテリーナが作品集を出そうとしていることもパオロに説明して、一緒になってカテリーナを褒め称えたのでした。
二人からあまりにも褒められて、何も言えなくなってしまったカテリーナにパオロは微笑みながら尋ねました。
「今日はあなたにお会いできるとは思っていなかったので、プレゼントは家においてきてしまいました。よろしければ明日、フォスカリ家にご挨拶にお伺いいたします。よろしいでしょうか?」
家に戻ったカテリーナから、翌日パオロが挨拶に訪問するという報告を受けたマリアグラツィアが、大騒ぎして召使いたちに翌日の食事に準備を指示している様子を、カテリーナ本人は何か人ごとのように不思議な気持ちで眺めていたのでした。
***
パオロ・バルバリーゴは実はカテリーナとの見合い話は真の帰国目的を隠蔽するための隠れ蓑だと理解していました。本国では、十年ほど前からキプロス島の植民地化計画が密かに進められていたのです。
もともとキプロス島は地中海交易の重要な位置に存在し、十字軍の頃からイスラム勢力とキリスト教勢力でその領有を巡って紛争の絶えない地でした。ここ30年ほどはバランス感覚の優れたジェノヴァ出身の改宗イスラム教徒ジェローム王だったからこそ、ある程度平和に維持に繁栄させることができていたのです。ジェローム王が即位する前、一時アヴィニョン出身の教皇がフランス領有を画策するという横やりもありましたが、基本的に交易目的のジェノヴァとヴェネツィアが商館を置き、ジェローム王を信頼し、上納金を期待し経済的繁栄を優先した当時のスルタンとの良好な関係が続いていたのです。
ところが、10年ほど前にキプロス直轄領有の野心に燃えるスルタンに代替わりし、そもそもあのフォーフェンバッハの事件以降、ジェノヴァ勢力がすっかり後退していたところで、サンマルコ共和国政府は、地中海交易の最重要地であるキプロスを単独で領有するという方針に切り替え、作戦が練られていたのです。
キプロスの動静、キプロス王の健康状態など詳細に探れという密命が、まだ若いパオロ・バルバリーゴに下り、商館長の助手という公式の役職とプライベートな存在という絶妙な立場でキプロスに送り込まれたのが6年ほど前。
パオロは商館長以上にジェローム王の懐に飛び込み、【マリアンヌが院長を勤める薬草院のクリーム】など王の個人的な所望品の手配を受けるまでの間柄になっていたのでした。
このことはサンドロはもちろん、元老院議員のファビオ・フォスカリすら知らず、十二人委員会のメンバーだけが情報共有していた極秘計画だったのです。