父としての本音
第33章
チェチーリア音楽院に行く道すがら、カテリーナは、作品集を出そうとした経緯をジュリオに説明しました。
「サンドロ先生は、お若いときから、ちょっと目がご不自由なの。視力が弱くて、大きな字ならお手紙は読めるけれど、書くことは少し難しくて。譜面も眼鏡がないと難しいのだけれど、先生は暗記力が素晴らしくて、一度譜面をさらったら覚えてしまうのよ。もともと即興で演奏するのがお得意だったから、私がよく慌てて譜面に書き留めたりしていた。先生が演奏しなかったら、この曲は二度と聞けなくなってしまうと思ったから、作品集を残しましょうと提案したの。」
「はじめは、先生の作品集を残そうとしたんだね。」
「ええ、はじめは先生の即興での演奏を譜面に書き取っていただけだったのだけど、どうしても私が聞きそびれたところなどを自分で補完しなくてはならなくて、最初から先生と確認しながら譜面を仕上げざるを得なかったの。そのうち先生が、『あなたが好きなようにフレーズを足すとか、微調整してみたらどうかな』とおっしゃるので、手を加えるようになったら、面白くて。夢中になって作業をしているうちに、ある日先生が『カテリーナ、あなたは作曲の才能があるよ。ぜひ最初から自分で自分の曲を作ってみてはどうかな』って勧めてくださって。はじめは無理と思ったのだけど、やってみたら楽しくて。」
「サンドロ先生があなたの才能を開花させてくれたんだね。」
「ええ、先生に頼まれて、音楽院の生徒の演奏指導をすることもあるのだけれど、やはり作曲のほうが楽しいわ。あと自分の作った曲を演奏するのもとても充実感があるわ。何か、自分が生きている価値があると感じられるの。ザルツブルグでの演奏会の場を設けてくれたステファンとコンスタンツァには本当に感謝しているの。」
カテリーナが、出会ったころのように生き生きと話す姿を見て、ジュリオは自分が考えている将来の計画が軌道にのるに違いない、と密かな自信を感じていたのでした。
音楽院の院長室で、カテリーナがサンドロにどうジュリオを紹介しようかと戸惑っていると、サンドロのほうが先に
「ああ、カテリーナの創作活動のためにシチリアにご招待してくださったベレッツァ家のかたですね。確かヴァイツァー御一家とお知り合いで、ザルツブルグの結婚式にも一緒に行かれたとか。一度お会いしたかったのですよ。」
「ジュリオ・ベレッツァと申します。どうぞお見知りおきを・・・と言うまでもなく、私のことは、どなたからお聞き及びのようですね。私もカテリーナ嬢の先生に一度お会いしたいと思っておりました。」
「ぜひザルツブルグでの彼女の演奏会の様子を教えてください。シチリアでも作曲していたようですが。」
「それがですね、どうもここのところ、彼女は創作意欲を失って、サボっているようでして、作品集の制作が進んでおりません。勝手ながら、ぜひ先生に注意していただきたいと思い、本日は伺った次第なのです。」
「まあ、ここ数ヶ月はこの街も、フォスカリ家もいろいろとありましたから。」
「とはいえ、私としては、そろそろ彼女に作品集を仕上げていただかないと、ちょっと困ることがございまして。」
「あなたが?」
「ええ、彼女が作品集を仕上げないと、私は彼女と婚約できないので。」
真っ赤になって何も言えなくなるカテリーナと、その様子を愛おしげに見つめるジュリオ。ここのところのカテリーナの言動と感情の変化から、だいたいの背景を察したサンドロは
-やれやれ、どうも彼が弟パオロのライバルということらしい。兄としては弟を応援してやりたいが、このジュリオという男を出し抜くのは、なかなか大変だぞ。-
と思いながらもジュリオに興味を持ち、じっくり話を聞こうと二人に椅子をすすめたのでした。
予定より数週間早くパオロ・バルバリーゴが帰国するようだ、というファビオからの報告に、マリアグラツィアはほっとしました。ジュリオがフォスカリ家に訪問してきて以来、あきらかにカテリーナは気分が高揚していたからです。訪問後数日でジュリオはパドヴァに戻ってからも上機嫌が続き、今日にでも『ジュリオと結婚したい』と言い出すのではないかとハラハラしていたのでした。
さすがにコンスタンツァがステファンに連れられて、いざフォスカリ家を去ってしまって数日は寂しそうでしたが、家の用事も前向きにこなし、毎日のように楽しそうにリュートを弾いていました。
「カテリーナが元気なら、それに越したことはないじゃないか。何事も積極的な以前のカテリーナに戻って、何の不満があるんだ、マリアグラツィア」
「あきらかに、ジュリオ殿の影響ですわ。あなた。」
「そうかもしれないが、大丈夫、最近のカテリーナは立場をわきまえているし、状況は理解しているよ。パオロ殿もこの話は前向きに考えているという連絡もきているし、ジュリオ殿だって、しばらくの間パドヴァに腰を落ち着けると言っていたし、私から見ても、カテリーナは以前のように思ったことをすぐ口に出してしまうような事はなくなったようだ。」
「それで、戻られたパオロ殿とはどこでお会いになるのですか?」
「パオロ殿の希望で、チェチーリア音楽院だそうだ。最初は彼の兄のサンドロが立ち会うそうだよ。二人をよく知るサンドロなら、いい雰囲気を作ってくれるだろう。カテリーナもあそこなら緊張しないだろうし。我々はしばらくのあいだは静観するしかないよ。」
「そうね、カテリーナも敬愛しているサンドロ殿は、パオロ殿の身内ですし。きっとよい方向に話しが進みそうですわ。」
「まあ、この間はジュリオ殿にアドバンテージを与えたのだから、今度はパオロ殿にも好意的な機会を与えないと平等ではないからな。ふふ、どうなるかな。」
「あなた、やっぱりこの状況を楽しんでいらっしゃるのね。娘の、この家の将来がかかっていますのよ。あきれてしまいますわ。」
「まだ戦いは始まったばかりだよ。すぐに諦めるような人間に将来性はない。私があなたの信頼を勝ち取るのに、何ヶ月かかったのか、忘れたのかい?」