母としての本音
第32章
「アルド社へのご同行をお願いできませんか? あなたのお父上のご許可もいただいております。」
そうジュリオを誘われて、カテリーナは街に出ました。二人が連れ立って出かける様子を見て、マリアグラツィアは夫ファビオに思わず不満を漏らしてしまいました。
「あなた、パオロ殿のことは、バルバリーゴ家に話を申し入れたのですか?」
「どうしたんだい、急に。内々に話を持ちかけたから、パオロの帰任とともに本人の意思を確かめることになっているはずだよ。」
「そんな悠長なことで大丈夫かしら。パオロ殿が戻って来る前に、カテリーナがジュリオ殿に決めてしまうことになってしまわないかしら? あの子はすでにジュリオ殿からプロポーズを受けていたのでしょう?」
「そういうことを言うということは、あなたはジュリオよりパオロがふさわしい、と思っているのかな。」
「だって、バルバリーゴ家は昔からよく知っておりますけれど、ベレッツァ家はつい最近交流が始まったご一家ですし。ジュリオ殿は好きですけれど、貿易業はご経験がありませんし、このフォスカリ家を導くことができるかどうか・・・。」
「パオロ・バルバリーゴに関して言えば、18でキプロスに赴任して以来会っていないから、私もどのような青年か、現段階では判断できない。ジュリオ・ベレッツァについても、彼の将来の計画を聞くまでは、なんとも言えないよ。カテリーナも自分の立場を理解しているはずだから、少し様子を見よう。パオロはできるだけ早く戻ってくるように命令を受けているはずだから、まもなく役者は揃うからね。」
「あなた、もしかしてこの状況をちょっと楽しんでいらっしゃる?」
「忘れたのかな、マリアグラツィア。あなたのときは私を含めて婿養子の候補者が3人もいたのだよ。あのときのマリオ・フォスカリ殿の気持ちは、こういうものだったのかと思うと、ちょっと愉快でね。」
アルド社で、解剖学指導書の続巻の刊行について、支配人とテキパキと話を進めているジュリオの横で、カテリーナは二人で交わした約束を思い返していました。
-お互い出来上がった本を交換しようと言っていたのに、ジュリオはすでに2冊目の話が具体的に進んでいる。それに引き換え私は・・・-
ジュリオに勧められたシチリア旅行のおかげで、今までにない旋律の曲がいくつかできたものの、ザルツブルグの演奏会後は創作活動をするどころではなく、すっかり意欲が失せてしまった自分が、改めて情けなくなってしまいました。
私には作品集を出すほどの才能が無かったということなのかしら。やはり先生の作品を追加して・・・。
「二巻目につきましてもファビオ・フォスカリ殿の支援を確約して参りました。私もパドヴァ大学で教授職を得てパドヴァに居住することになりましたので、初巻より効率よく校正作業も進められるかと存じます。」
「それはこちらとしてもありがたいことです、ジュリオ殿。ところでカテリーナ様、作曲の進捗はいかがですか? リュート作品集も弊社としては期待しているのですよ。」
急に支配人に話しかけられ、動揺したカテリーナは思わず
「あ、はい、もうしばらくお待ちいただければ・・・」
と言葉を濁すしかありませんでした。
アルド社の建物を出た途端、ジュリオはわざとちょっとような怒った顔をしてカテリーナに言いました。
「カテリーナ、ちょっとお小言を言ってよいですか?」
「え、どうしたの? ジュリオ。」
「あなたは、最近創作活動をさぼっていますね。それどころかリュートをあまり弾いていませんね。昨日の演奏でわかりましたよ。」
「ご、ごめんなさい。いろいろあってとてもそんな気持ちになれなくて・・・。」
「私と初めてアルド社に行ったとき、約束したではありませんか。お互い出す本を交換しようと。どんなに愛おしいカテリーナでも、こればかりは、甘やかすことはできませんよ!」
「ごめんなさい。」
「仕方ないですね。ここはひとつ、あなたの先生に叱っていただかないと。」
「私の先生?」
ふふ、と笑ってジュリオは
「そう、これからあなたの母校に行きませんか? 私も一度行ってみたかったのです。演奏家としてのあなたを育てたところに。ぜひ連れて行ってください。」
とチェチーリア音楽院行くことを提案したのでした。
恩師は、もう一人の候補者の兄であるサンドロだけれど・・・と一瞬躊躇したものの、あのニコニコとした陽気な笑顔を見せられて、カテリーナはジュリオを案内することに決めたのでした。
一方、屋敷に残っていたコンスタンツァは、ステファンも同席して、フォスカリ家の侍医の診断を受けていました。お腹の子が順調なら、コンスタンツァの体調が良好なうちにすぐにでも帰国の途につきたかったのです。
医師の診察が終わると、ステファンはコンスタンツァを部屋に休ませ、フォスカリ夫妻にお礼の品々を渡し、改めて感謝の気持ちを伝えました。
「妻が大変お世話になりました。マリアグラツィア様にはつねにお気遣いいただいた、と昨晩妻から伺いました。本当に、緊急事態だったとはいえ、突然のこちらの無理なお願いを快くお引き受けくださり、どんなに感謝してもしきれません。母ジュリエットも一緒にお礼にご挨拶に伺うつもりだったのですが、少し体調を崩してしまいまして、いえ、ご心配には及びません。安静に過ごしていれば心配はないと医者に言われております。」
「いえ、疫病の流行もあって、あなたがなかなか迎えに来られなくなってしまって、ご心配でしたでしょう?」
「今回の流行は酷いと聞き及んでおりました。ご子息のことは、ヴァイツァー家一同、心より哀悼の気持ちをお伝えいたします。実は私には双子の兄がおりましたが、7歳のときに流行病で同じように。母はそのことで、マリアグラツィア様のご心情を察し、とても心配しておりました。」
「まあ、そうでしたの。痛み入ります。そうですね、ここ数ヶ月、両家ともいろいろあったけれど、でもお互い乗り越えることができて、本当に良かったわ。」
「カテリーナ様とも、とても仲良くしていただいていると、手紙にありました。」
「ええ、すっかり親友のようね。二人でしょっちゅう一緒に部屋でおしゃべりしていたわ。」
「今度はぜひ我が家にいらしてください。父も母も大歓迎です。」
「ええ、コンスタンツァ様が無事出産されたら、ぜひ伺いたいわ。まあ、それまでにカテリーナも結婚していれば良いのだけれど・・・。」
昨晩コンスタンツァから、”カテリーナとジュリオの仲はちょっと複雑なことになっているから、変なこと言わないでね” と釘を刺されていたステファンは、マリアグラツィアの愚痴を、ただ微笑んで聞き流すことにしました。




