恩師の教え
第28章
「おや、カテリーナかな。久しぶりだね。」
「先生、お元気そうで何よりです。先週からやっと音楽院での授業が再開されたと伺って参りました。」
父ファビオとの話し合いの翌日、カテリーナは母校のチェチーリア音楽院に足を運びました。恩師にどうしても謝らなければならないことがあったからです。
「先生、申し訳ありません。私、先生とのお約束、果たせそうにありません。」
実は、カテリーナが出版しようとしている楽曲集は、もともと恩師が作曲した曲を、カテリーナが楽譜に起こしてまとめて出すという話が発端でした。恩師のサンドロは元首を輩出したこともある名門バルバリーゴ家の一員でしたが、思春期を過ぎたあたりから徐々に視力を失い、20を過ぎた頃には眼鏡でも文字が読みにくい状態になってしまいました。幼い頃から音楽好きで楽器演奏だけでなく、自作の即興曲作ったりして、親族達もその才能が認めていたので、家業の貿易業ではなく、音楽の世界で生きる道に進むことになったのです。
チェチーリア音楽院では、その名門の出もあり学院長をつとめていましたが、カテリーナはそこで生徒として学びながら、目の不自由な恩師の手紙の口述筆記をするなど、サンドロから信頼され、秘書的な役割も任せられるような親しい間柄だったのです。
カテリーナはサンドロを歳の離れた信頼する兄のように慕い、悩み事などを打ち明けることもありました。
「シチリア旅行は有意義だったようだし、ザルツブルグでの演奏会は好評だったと手紙で連絡してくれたね。すっかり創作に励んでいるものだと思っていたよ。」
「先生、やはり私の作品集の中に、先生の曲を加えるのではなく、先生の作品をまとめたものを出版しませんか?」
「いや、そのことについてはもう話し合っただろう?今や作品数はあなたのほうが多いのだよ。それに私はこの目だからね、作品を広めるために各地に演奏旅行に出かけることは難しい。あなたの作品集の中にいくつか私の曲を収録してくれればそれでいい。カテリーナ、あなたが私の曲を弾いて広めてくれれば私は嬉しいんだよ。」
「私、もうリュートは演奏しないかもしれません・・・。」
カテリーナは下を向きながら、ぽつりぽつりと話しました。今度の疫病で幼い弟を失ったこと。そのため自分がフォスカリ家の跡継ぎを婿養子として迎えなければならなくなったこと。この環境の変化から、もはや新しい曲の創作意欲ばかりか、リュートを演奏する気持ちさえ、失ってしまったこと。
「今、あなたがどんな顔で話しているのか、わかるようだよ。弟君のことは、本当にお悔やみを申し上げる。つらかっただろうね。私もいとこの幼い娘が、やはり助からなかった。でもカテリーナ、あなたは自分の運命を嘆くだけで、そのまま受け入れてしまうような娘だったかな。フォスカリ家に残ったまま、作品集を完成させることはできると思うが。」
「それは・・・」
「いつも新たな挑戦をしようとするあなたが、こんなに後ろ向きな考えになってしまうとは、ほかに何か大きな理由があるのかな。」
「・・・・・」
何も応えず、うつむいたままのカテリーナに、サンドロはゆっくりと語り始めました。
「カテリーナ、私はね、若い頃、だんだん目が見えなくなってしまう自分に焦り、絶望し、すべてが嫌になったよ。あの頃は自分の運命を恨んでばかりいた。でもね、そんな自暴自棄になっていたある日、突然伯父がやってきてね、自分のためにリュートを弾いて欲しいと言うんだ。今のあなたと同じように、リュートを弾くどころが、見るのも嫌だったのだけど、この伯父は親族の誰よりも早く私の音楽の才能を認め褒めてくれた人だったから、とても敬愛していたし、ひどく疲れた様子の伯父の様子が心配になってね、彼の望みを断ることが出来なくて、即興曲をいくつか演奏したんだ。その間伯父はずっとカウチに目をつぶったまま聞き入っていたのだけれど、演奏が終わった後、言ってくれたのだよ。『ああ、本当にありがとう、サンドロ。とても癒やされたよ。』と。そのとき、私ははっと気がついた。私は伯父の声から、癒やしてあげなければと悟り、それが自分の演奏によって通じたのだと。」
「声から?」
「視力を失ってから、初めて人の声や楽器の音の響きをより深く感じとることができるようになった。人の声の裏にある感情を理解できるようになった。この後、伯父が私の父に、サンドロは音楽の道に進ませるべきだ、人々のためにその才能を活かすべきだと説得してくれたから、今の私がいるとだと思う。」
「それは先生の音楽が本当に素晴らしいからです。でも私の音楽を必要とする人々がいるのでしょうか?」
「カテリーナ、もし音楽以外の道を見つけたのなら、その道に進んでもらって私は一向に構わないよ。ただ、自分で運命を切り開いて言って欲しいだけだよ。人生では、何かを失ってしってしまっても。また別の何かを得ることができるものなのだから。」
毎晩のように作曲を続けていたのに、ここしばらくリュートを演奏する音も聞こえないので、カテリーナの様子がおかしいと気づいたコンスタンツァでしたが、自分もつわりが酷く、食事も自室で摂るようになっていたため、カテリーナと話をするどころか姿も見かけないまま数日が過ぎました。
「お加減はいかがかしら? コンスタンツァ様。」
「マリアグラツィア様、いつもお気遣いいただき、恐縮です。」
カテリーナに代わり、ここ数日はマリアグラツィアが、様子を見にコンスタンツァの部屋に顔を出してくれていました。
「あの、ここ数日カテリーナ様のお姿を拝見していないのですが、以前はよく私の部屋に立ち寄られてくださったのですが・・・。どこかお加減でも悪いのでしょうか?」
「あら、ここのところよく外出しているからかしら。今日は私の代理で、薬師院まで行ってもらっているわ。月に一度、フォスカリ家は支援者として薬師院にご寄付に伺うのだけれど、つわりを和らげる良い飲み薬をご用意してくださるとのことで、その受け取りも兼ねて、ね。」
「そうだったのですね、ありがとうございます。」
「あの子もやっと、フォスカリ家の娘としての自覚が出てきたのかしら。急に家の用事も自分から手伝いを申し出るようになって。親友であるあなたが、母親になるものですね。きっと自分の将来のことも真剣に考え始めてくれたんでしょう。良い婿殿を迎えて、この家をしっかりと守ってもらわなければ。」
「そういったお話がすでにあるのですか?」
「ええ、まあいろいろと。本当のことを言うと、コンスタツァ様のご実家や、ヴァイツァー家のご紹介で、ザルツブルグで名家の方々とお知り合いになる予定だったのですけれど、あんなことになってしまったので・・・。それに今は婿養子に入っていただける優秀な方を考えていて・・・例えば、今ここに滞在中のベレッツァ家のルカ殿とか・・・。」
ルカの名前を聞いて、コンスタンツァは思わず顔を伏せてしまいました。
「あら、どうしたの? また気分が悪くなってしまったかしら?」
「ええ、ちょっと。いつものつわりが・・・奥様、一人で大丈夫ですので、少し休みます。失礼を・・・。」
「わかったわ。あとでさっぱりした飲み物を届けさせますからね。」
マリアグラツィアが退室したあと、コンスタンツァは身体が震えるほど憤慨していたのです。
-そうだったのね。カテリーナはベレッツァ家の長男であるジュリオとは、別れなければならなくなってしまったのね。あんなに幸せそうに秘密のプロポーズを報告してくれたのに・・・。それにしても婿候補があのルカだなんて!。許せない、それだけは絶対阻止しなければ!-
その日の夕方、薬師院からの薬を手に久しぶりにコンスタンツァの部屋に向かったカテリーナでしたが、あいにく姿が見当たりません。
-具合が良くないはずなのに、一体どこへ?-
もしや倒れていないかと、屋敷内をあちこち探し回ったところ、ルカの部屋の前で言い争う声を聞いてしまったのです。
「ご両親に命令されても、決して、承諾なさらないでください! そもそもあなたはここにいられないようなことをなさったのですから!」
「でも、カテリーナが良いというなら、私は拒否するつもりはない。」
「もしあなたがフォスカリ家に入るというのであれば、あなたが私にしたことをフォスカリ家の方々にも、ヴァイツァー家の人間にも知らせるつもりです。それでもよろしいですか?」
「まさか! そんなことできるわけ・・」
「私は本気です。覚悟はできています。たとえそれで私がヴァイツァー家から離縁されようとも、私は告白しますから!」
「わかった、わかった! 許してくれ! 断るから!」
コンスタンツァのあまりの剣幕と、離縁という言葉まで飛び出した言い争いに驚いて、カテリーナは持っていたガラス瓶に入った薬を思わず床に落としてしまい、その音に気づいたコンスタンツァがルカの部屋から飛び出してきました。
部屋の前の廊下には青白い顔をして震えるカテリーナの姿が。
「カテリーナ! あなた今の話・・・。」
「コンスタンツァ、離縁て何? 私、あなたの体調が心配で・・・。え?どういうこと?」
そのとき急に血の気が引き、崩れ落ちるコンスタンツァをカテリーナは慌てて抱き留め、ただおろおろとしているルカに向かって叫びました。
「ルカ! すぐに誰か召使いを呼んできて! ああ、コンスタンツァ、しっかりして!」




