暗闇の先
第26章
翌朝早く、弟が重篤な状態だという知らせがフォスカリ家に届き、カテリーナはすぐに薬草院に向かいました。昨晩の雨は上がったものの、運河は増水し、水路のなかの広場は、あちこち水たまりが出てきていましたが、カテリーナは一刻も早く、一晩中付き添っていた母に代わって弟を元気づけようと、コンスタンツァに事情説明する暇もなく屋敷を飛び出したのでした。
フォスカリ家の全員が薬師院に行ってしまったため、屋敷に取り残された形のコンスタンツァとルカでしたが、コンスタンツァはルカと顔を合わせることが耐えがたく、自室で食事をとると召使いに言って、その日はずっと自室に閉じこもっていたのです。
その日はカテリーナも、フォスカリ家の誰も屋敷には戻らず、そのまた翌日も、翌々日も戻らず、3日後になってやっとフォスカリ一家は三人だけで無言の帰宅をしたのでした。そのあまりに憔悴しきった様子に、コンスタンツァは何も声をかけることができず、つい数日前に自分の身に降りかかった災難すら、心の隅に追いやることが出来たほどでした。
「感染症の疑いがあるということで、お別れのキスもできなかった・・・。母は必死に抵抗していたのだけれど、弟はラッザレット・ヴェッキオ島の共同墓地に埋葬されることになったの。ここでは貴族も平民も、市民も外国人も例外は許されないのよ・・・。」
コンスタンツァはただ、話を聞きながらカテリーナの背中をさすってあげることしかできませんでした。
ヴェネツィア市内の疫病の患者は増えていて、ウィーン包囲も膠着状態が続き、みなひっそりと息を潜めるように暮らしていました。少しでも感染の可能性を避けるために、食事もそれぞれ召使いが自室に運んできたものを食べるようになり、前のように気軽に行き来しておしゃべりすることも控えるようになったのです。
未来の見えない、閉塞感に押しつぶされそうな日々、カテリーナは、自分の感情を音楽で表現することで、心の均整を保とうとしていました。
-こんな日々はいずれ終わるはず。私には自分の作品集を出版するという大きな目標があったではないか! そう、ジュリオは一足早く指導書を完上梓したのだから、私も彼と交換すると約束した作品集を完成させなければ!-
そう覚悟を決めたカテリーナは作曲活動を再開させました。『シチリアーナ』に続き、『ザルツブルグの想い出』と題する組曲の構想が浮かんできたのです。
やがてヴェネツィア政府の断固とした感染対策が功を奏しはじめ、あの雷雨の夜から一月ほど経過すると、疫病の患者数が徐々に減少し始めたのです。さらに明るい兆しとして飛び込んできたのは、オスマン軍がウィーンから撤退した、というニュースでした。
「コンスタンツァ! ウィーンからよ! ステファンからの手紙よ!」
たまたま召使いが玄関で手紙を受け取る場面に居合わせたカテリーナは、ステファンからコンスタンツァあてのものだど気づき、「私が届けるわ!」と行って、コンスタンツァの部屋まで手紙を手に駆け込んだのでした。
「え?本当に?」
「正真正銘のステファンからよ! ほら、この封印の紋章!」
ここのところずっと塞ぎ込みがちだったコンスタンツァが、これでもとの明るいコンスタンツァに戻れると思ったカテリーナは嬉しくなりました。
「ね、ステファンはなんて書いてきてるの?」
「ええ、みんな無事だそうよ。オスマンの包囲軍が完全撤退したと確認できたら、近いうちにステファンがヴェネツィアまで迎えに来てくれるって。」
「よかった! これでやっと本当にステファンに一緒になれるわね!」
「ええ、そうね・・・。」
あまり元気のない声に、気になるカテリーナ
「どうしたの? 気分が悪い? もしかして熱はないでしょうね。」
ずっと閉じこもりきりの生活をしていたコンスタンツァが疫病に感染してしまうことはないと安心していたカテリーナは、急に心配になりました。
「ええ、大丈夫よ。なんかちょっとにわかには信じられなくて・・・。」
あの晩から、コンスタンツァは不貞を働いてしまったという罪の意識に一人さいなまれていたのでした。あれ以来、できるだけルカと顔を会わせないように避け続けていましたが、忘れようと想えば想うほど、気に病んでしまっていたのです。そして今さら自分は貞淑な妻としてステファンに秘密にしたまま、彼の元に戻って良いのだろうかと悩み続け、カテリーナにも誰にも打ち明けられず、相談もできずに気鬱となってしまっていたのです。
感染拡大が落ち着いたということで、家族そろっての食事を再開するようになってすぐ、コンスタンツァの体調の異変にいち早く気づいたのは、カテリーナの母でした。けだるい様子に、食事もあまり進まないコンスタンツァの姿を見て、二人きりになったとき、そっと問いかけたのです。
「コンスタンツァ様、もしかして吐き気があるのではないのかしら?」
「はい、実は・・・」
「そうだったのね、今まで気がつかなくてごめんなさいね。ご両親もご主人もいない不安な状態のあなたを気遣ってあげられなくて。」
「いえ、そんな・・・。奥様も大事な大事なご子息のことがございましたもの。それに、まもなく迎えにくるとステファンから連絡もございましたし・・・」
「体調か落ち着くまでは、ずっとこの屋敷にいらしてくださってよろしいのよ。主人に頼んで、いつでもお好きなときにウィーンまでの馬車をご用意させますから。」
「ありがとうございます、奥様」
「ご遠慮なさらないでね。あなたの実の母と想って、甘えてくださってよろしいのよ。」
コンスタンツァの妊娠に気づいたカテリーナの母マリアグラツィアは、夫であるファビオにそのことを知らせたあと、先延ばしにしていた重い課題を話し合うことにしたのでした。
「それで、うちの娘のカテリーナのことですけれど・・・」
「ああ、やはりカテリーナには婿養子をとり一緒になってもらうことになってしまったな・・・。」
「そうなりますと、やはりルカ殿というのが、一番ふさわしいお相手ではないでしょうか?」
「しかし、カテリーナの気持ちを考えると・・・。もしかしてジュリオ殿と将来の約束を交わしているのではないか?」
「それはわかりませんが、ベレッツァ家がご長男を婿養子に出すとは考えられませんわ。あの娘はまもなく18です。今まで好き勝手にさせていましたけど、もう時間的猶予はありませんわ。ルカ殿はベレッツァ家の次男。ベレッツァ家は長男のジュリオが継ぐのであれば問題ないはず。ねぇ、あなたから、カテリーナに諭していただけないかしら。」