雷雨の夜
第25章
悪意は、悪人固有の感情ではなく、誰しも抱くもの。押さえ込まれた悪意はある日突然露呈し、時に戦争や自然災害よりも周りの人の心を引き裂き、人間関係を崩壊してしまうこともあるのです。
ステファンからの手紙が届いた日の夜遅く、皆が寝静まったころ、カテリーナの部屋に忍び込む人影がありました。
それは、ジュリオ帰国後、急にカテリーナが親しく話しかけてくれるようになったことで、カテリーナが自分に好意を持っていると独りよがりに思い込んでしまったルカでした。
その晩は大雨でした。カテリーナの母が無理して薬師院に連れて行った幼い息子は投薬を受けても体調が回復せず、しかも夕方から雷を伴う激しい雨模様となってしまったため、そのまま母子ともに薬草院に泊まり、翌朝帰るという連絡がきていたのでした。
愚かなことにルカは、カテリーナの両親もジュリオもいない機会は二度とないと考え、自分のカテリーナに対する思いを遂げようと強硬手段に出たのです。ジュリオのカテリーナへの好意は知っていた上で、自由奔放に好きなことだけをやって許されている兄に見返すためにカテリーナを奪い取ってやる、と。ルカの嫉妬心はそこまで肥大してしまっていたのでした。
カテリーナ達をザルツブルグから無事帰国させたことで、皆から褒められ感謝された兄ジュリオの姿は、ルカにしてみれば「騎士道ふぜいを気取って演じている軽薄な兄」としかうつらず、そのジュリオが不在の間にカテリーナを奪い取ってしまおうという気持ちが抑えられなくなっていたのでした。
フォスカリ家の援助のおかげで、何不自由なくここに滞在して商売を学ばせてもらっていることへの恩義も感謝の気持ちも、嫉妬心の前では消え失せてしまっていたのでした。カテリーナは自分に好意を持っているはずだから、既成事実を作ってしまえば、カテリーナの両親も納得するだろう、とまで思い込んでいました。。
というのも、ルカには、自分がカテリーナと結婚できるかもしれないと思う根拠があったのです。ルカはカテリーナたちがザルツブルグに旅立つ前、たまたまカテリーナの両親がカテリーナの婿候補の話をしていた会話を盗み聞きしてしまっていたのでした。
「ジュリオ殿は、カテリーナの性格をよく分かっていて、上手く導いてくれそうだけれど、将来はどうなのかしら? ベレッツァ家の次期当主とはいえ、商売はここに修行に来ている弟君が継がれるんでしょうし・・・。早く良い方とのご縁を結ばないと、あなた、あの子は18になってしまいますわ。」
「あの、すぐとハッキリと物を言ってしまうじゃじゃ馬娘が、確かにジュリオ殿と知り合ってからは、落ち着いた態度になってきたようだな。本人も憎からず想っているようだし、確かに相性はいいかもしれないが・・・。」
「相性の良くとも、あの子が不自由なく生活できる財力のある、しっかりとした方でないと。今回のザルツブルグ行きで、良い殿方とお近づきになる機会があるかもしれません。婚礼の祝宴のあと、ヴァイツァー家の方々のご厚意でしばらく滞在して、社交の場に合流させていただくことになっておりますし。ハッキリ言って、ヴァネツィア内ではあの子、ご縁談を断ってばかりで、もうご縁を見つけることは難しいですわ。」
「そうだね。それにもしザルツブルグでも良縁が見つからないようなら、ルカ殿も候補と考えても良いかもしれないな。ここで真面目に商売の修行をしているし、ベレッツァ家にとっては次男なのだから、フォスカリ家に婿養子に出してくれるかもしれない。」
そこまでフォスカリ夫妻の会話を聞いたところで、ルカは召使いに呼び出されて、仕事場に戻ったので、この会話の続きは聞いていませんでした。
「でもあなた、フォスカリ家には跡継ぎがいるではありませんか。」
「ははは、そうだったね。まだやっと5歳か、早く一人前になって欲しいものだ。」
カテリーナとコンスタンツァがしょっちゅう一緒の部屋で過ごすほど仲が良いこと、その晩、カテリーナの部屋のベッドで泣きながら眠ってしまったのがコンスタンツァだったことなど、ルカは知るよしもありません。カテリーナの部屋に忍び込んだルカは、暗闇のなか、ベッドに寝ている年格好や声が似ていたコンスタンツァをカテリーナと思い込み、いきなり覆いかぶさってきました。
ステファンを思い泣きながら眠ってしまっていたコンスタンツァは、夢うつつのなか、ステファンがやってきたと勘違いし、「愛しい人」とルカを抱き寄せてしまったのです。
しかし行為の途中でステファンではないと気がついたコンスタンツァは必死に抵抗したものの、興奮していたルカは「ああ、カテリーナ!ぼくを受け入れてくれ!」を叫んで、そのまま力ずくで犯してしまったのです。
果てたあとに「ああ、愛しいカテリーナ」とコンスタンツァを抱き寄せキスしようとするルカ。コンスタンツァがその腕をふりほどき「私はカテリーナじゃないわ!」と叫んで初めてルカは人違いしていたことに気づいたのでした。
怒りに震えるコンスタンツァは、震えながらも叱りつけるようにルカに叫びました。
「このことは絶対、秘密にして忘れて頂戴! 誰にも言わないで! もし誰かに言ったらあなたも私も破滅よ! ああ、ステファン! ごめんなさい! この瞬間も命をかけて戦っているあなたを裏切るようなことをしてしまった! 出て行って! ここから出て行って!」
狂うように叫ぶコンスタンツァに恐れおののいて、ルカは逃げるように自分の部屋に戻ったのです。
激しい雷雨の音で、ルカの強姦の物音も、コンスタンツァの叫び声も、カテリーナの耳には届きませんでした。
そして夜半過ぎ、薬草院ではカテリーナの幼い弟が高熱を出し、苦しみ始めたのでした。