手紙の紋章
第24章
「昨晩、検疫所から警告が出た。先月入港した複数の船の乗組員から疫病患者が出たという報告があった。事態が安全となるまで、不急不要の用事以外、できるだけ外出しないように」
ジュリオがナポリに旅立った数日後、カテリーナの父は、家族全員と客人、さらに召使い頭までサロンに集めて、疫病について警戒するように強い要請をしたのでした。
いろいろな国々と交易をすることで経済が成り立っているヴェネツィアは外国船が頻繁に入港するため、西洋では最も早くから疫病について水際の警戒体制が発達していたのですが、今回はかなり警告レベルが高かったものの、カテリーナは自分や家族のことより、「無事ナポリまで戻れるかしら」と真っ先にジュリオのことが心配になりました。そして愛する人がそばにいないことが、こんなに不安でいたたまれない気持ちになるものなのか、とコンスタンツァの気持ちが初めて心から理解できたのでした。
街歩きも、郊外への散策も出来ないので、カテリーナとコンスタンツァは家の中で過ごすしかなく、ザルツブルグから持ち帰ってた楽譜をチェンバロで弾いたり、楽譜に書き込まれた手記をから、筆者が誰で、どんな境遇にあったのか読み解く推理をしたりして過ごしていました。
そんなある日の午前中、カテリーナがルカの仕事場に行っている間、コンスタンツァは楽譜の束に挟まれた、上質な紙に書かれた手記を数枚見つけたのです。そこには不義の子を産んで秘密裏に出産し、そのことで自分を責め、罪を後悔していることが書き綴られていました。
“娘を産んで、見捨ててしまった。あのときの私はまだ子どもで、どうしていいかわからなかった。彼が探して連れてきた薬使いの女性が、出産を手伝ってくれ、無事産まれたのに、彼女に泣きついて、どうしよう、この子を殺して私も死ぬと、叫んだ。その女性は、私を叱りつけ、しっかりしなさい、あなたは母親になったのよ!と抱いて一緒に泣いてくれた。”
“私がニコレッタに託した子は、娘は元気だろうか。”
“これは、私への罰なのだ。娘を産んだことを黙って、嫁入りした。なかなか子どもができなかったのは、子どもを見捨てた罪のせいではないかと、ずっと不安だった。やっと息子を産むことができてからも、この子に何か不幸が訪れてしまうのではないかと、恐れていた。”
“きっと夫は、ヨハネとの不貞を疑ったのだろう。殺されなかっただけでも感謝しなければならないのかもしれない。夫がロバートを廃嫡しない代わりに、ずっとここで暮らすよう命じたのは、当然かもしれない。ヨハネとのことは潔白だと申し開きできるけれど、あの娘のことは? 今はロバートに不幸が襲ってこないように、私が罪を償わなければならない。”
“そうだ、いまここ閉じ込められ、ロバートに会えないのは、神からの罰なのだ、でもあの子に会いたい。”
これは何?ただの創作?
そのときコンスタンツァは手記が書かれた紙に印章のすかしが入っていることに気づいたのです。
―まって、この印章、どこかで見たことがある・・・。-
昼食後、カテリーナの母は、今朝から体調が悪い幼い息子を、薬師院に行ってみてもらうため外出するとカテリーナに告げたのでした。
「かかりつけ医の先生は、元老院の感染症対策委員会にかり出されてしまったのよ。外出はしたくないけど、薬師院を頼るしかないわ。できるだけすぐ戻ってきますからね。」
この頃、カテリーナの父は警告を伝えた日から感染対策の会議と対応で元首宮に泊まり込み状態でした。
昼食後にカテリーナに、発見した手記のことをコンスタンツァは教えて、二人でその手記について話しあおうとしたカテリーナとコンスタンツァのもとへ、召使いが手紙を届けにきました。
「ステファンからだわ!」
手紙に歓喜するコンスタンツァでしたが、ふと、その手紙につかわれていた便せんには、あの紋章のシーリングスタンプが押されていたのです。
「そうだわ! あのロバート様の指輪の紋章にそっくりだわ。」
「え? 何のこと? ステファン様はご無事なの?」
慌てて手紙を開封するコンスタンツァ。
「え、ええと。そうね。・・・・・」
「・・・・・・」
「ウィーン市内は厳戒態勢だそうだけど、特に激しい戦闘はなくて、膠着状態みたい。」
手紙を読みふけるコンスタンツァをそっとしておこうと、カテリーナはリュートを取り出し、しばらくの間、調弦をしていました。
「カテリーナ、ヴァイツァー家の皆様はご無事だそうよ。空席だった宰相位に就かれたばかりのロバート様は、何とか街に被害が出ないよう、平和裡に解決するよう外交交渉を始めたみたい。詳細がわからないけれど。ステファンが最初の伝令として白旗を掲げて数騎で敵陣に向かうかもしれないって。」
「・・・・・」
「これってとても名誉な役目だって。でも・・・・。ジュリエット様に泣かれてしまったみたい。そうよね、ジュリエット様にとって、ステファンはたった一人の息子ですものね・・・。私にとっても・・・。」
リュートを脇に置いて、泣き出したコンスタンツァの背中を優しくさすって慰めるカテリーナ。
「オスマン軍だって、いきなり正式な交和平渉使節に手を下すなんてことはしないわ。山賊の類いではないのだから。今はあなたが気をしっかり持って、彼を信じましょう。私たちができるのは、ここで悲しむことではなく、無事を信じて心穏やかに過ごすことしかないわ。」
「ええ、そうね。いつも通り過ごしましょう。」
「ジュリエット様もロバート様も耐えていらっしゃるのだから。」
「ロバート様・・・・そう、この手紙を見た時、気がついたの。」
「ロバート様の指輪にそっくりとか言っていたこと?」
「そう、あの手記が書かれていた紙に、透かし模様が入っていたの、気がついた?」
「え?」
「紋章みたいで、しかも見覚えがあったの。そしてこの手紙の封印が同じ紋章だわ。これは、ロバート様がいつも着けられていた指輪に彫られた紋章なの。」
「え? ということは、あの手記を書いた人物は、ヴァイツァー家の人間なの? でも手記を見つけたあの館の持ち主は、すでに途絶えたとか言われてなかった?」
「結婚前に、ロバート様から教えていただいた話から考えると、きっとあの手記を書かれた方は、ロバート様のお母様だと思うわ。いろいろ悲しい行き違いがあって、ロバートのお母様は濡れ衣を着せられて、あの館に幽閉されていたの。ヴァイツァー家の名誉がかかっている問題だから、詳しいことは話せないけれど。」
「そうだったの・・。もちろん私の心の中だけで留めておくわ。この手記は、あなたが帰国するときに、持ち帰ってロバート様にお渡しして。本来私が手にするべきものではないのだから。」
カテリーナはこのとき湧き上がってきた感情を抑えきれずに、リュートを手に取りました。しかしカテリーナが途切れ途切れに弾く旋律が心の琴線に触れたのか、コンスタンツァは再び嗚咽を漏らし始めたのです。
「コンスタンツァ、ごめんなさい。」
「いいえ、いいのよ、続けて、カテリーナ。今夜は思い切り泣きたいの。」
その日、泣きながら眠ってしまったコンスタンツァを自室のベッドに休ませて、カテリーナはコンスタンツァが滞在していた客用寝室で休むことにしたのです。




