秘密の約束
第23章
フォスカリ家での帰国の無事を祝う夕食の翌朝に、ジュリオはアルド社に向かい、解剖学指導書の一巻目の見本を受け取りました。そして、その足でフォスカリ家に向かい、ルカを尋ねたあと、以前もお世話になった教授の友人宅に戻り、その後はずっと、教授あてと父親あてに、長い手紙を書いて過ごしました。
そしてその翌日に、再びフォスカリ家を訪問し、カテリーナを呼び出し、二人で初めてアルド社に行った帰りに反省会をした宿のサロンで、二人きりで昼食をとったのでした。
「コンスタンツァ嬢のご様子はいかがですか?」
いつもの快活な口調と違う、心から労るような優しい声でジュリオは問いかけてきました。
「まだ時々ひどく落ち込んでしまうみたいで。今日はまだお部屋で休まれています。ご結婚されたばかりで引き離されるなんて。ステファン様だけでなく、ご家族のご無事かどうかも心配で仕方ないでしょうし。」
「そうですね、今日は平和でも明日はどうかわからない。どんなにあらがっても、一人の力では運命に逆らえないこともある。でも、そういう時にこそ、一緒にいてくれる人がいれば乗り越えられます。」
「ええ、私もステファン殿が迎えに来るまで、コンスタンツァに寄り添って、力づけるつもりです。」
「彼女にとってあなたは真の友人ですね、カテリーナ。」
「ジュリオ、あなたもよ。」
「ただ、もうお別れしなければならないのです。」
「え!?」
なんとなく、本が出版されるまでジュリオはしばらくヴァネツィアに留まるのものだと思っていたカテリーナは、突然のお別れの言葉に動揺し、謀らずも涙ぐんでしまいました。
「明日にはナポリに戻らなくてはならないので。」
「そうなのね。あなたには研究の続きがあるのでしたね。寂しくなるわ。」
「でも、ほら見てください、今日やっと完成した、指導書の最初の1冊だ。」
ジュリオは急に明るい声で、昨日受け取った出来たばかりの立派な本を包みから出したのでした。
「これで将来の足がかりができた。」
「え!? もう完成したの?」
「ああ、この最初の一冊はできるだけ早く、共著にしてくださった教授にお渡ししないといけない。そうしないと、君に正式に告白できないからね。」
「え?」
ジュリオはじっとカテリーナを見つめたあと、上着の内側から美しい紅珊瑚のネックレスを取り出し、カテリーナの細い首に首にかけながら、
「この本の出版に関して、教授との約束があるんだ。パドヴァ大学での教鞭職の推薦。実現すれば、パドヴァに家を構え、これで生活も安定する。私はあなたと真の友人であるとともに、将来君とともにずっと一緒に生きたいと考えている。」
と、真剣で鋭いまなざしで、そう告げたのでした。
そのネックレスはジュリエットから託されたあのネックレスでした。華やかな七宝がほどこされた、とても優美で洗練されたデザインにリメイクされたもので、カテリーナにとても良く似合っていました。
突然の真剣な告白に、カテリーナは心臓の鼓動が激しくなり、上手く答えられなくなってしまいました。
「あ、ジュリオ、もちろん私も・・・でも、わ、私はまだ自分の作品集が出来ていないのよ。」
「それが返事? 友人のまま? 一緒になりたくないの?」
カテリーナの首にかけられたネックレスを指先で遊びながら、いつもの陽気な口調に戻ったジュリオに、カテリーナは耳まで赤くなりながら
「私もあなたと一緒になりたいけど、私、まだ、あなたと交換する約束の・・・そう、作品集を出版できたら、そのときはあなたの妻になります!」
とはっきりと応えたのです。
「ああ、よかった!。 パドヴァ大学で教鞭をとることになったら、正式に婚約をお願いしに、君のご両親にご挨拶に伺うよ。それまで待っていてくれ。」
「作品集が出来るまで、待ってくださるの?」
「もちろん。でなければ納得できないでしょ。」
「ジュリオ・・・」
「それからひとつ、お願いがあるんだ。弟のこと、気に掛けてやってくれないか。私と違って、なかなか人の輪の中に溶け込めない性格なんだ。フォスカリ家で上手くやっていけるのか、ちょっと心配している。できるなら君のほうから、もっと気安くルカに話変えてくれないか?」
「わかったわ。ジュリオ、あなたが望むことなら、私ができることなら、何でも協力するわ!」
このときの一言が、結果的にルカの誤解を生むきっかけになるとは、ジュリオもカテリーナも想像もしていませんでした。
ジュリオを見送ったあと、家に戻ったカテリーナはまだ正式なプロポーズではなかったので両親には秘密にしていたものの、我慢できずにコンスタンツァにだけはジュリオと将来の約束をしたことを打ち明けたのでした。自分のことのように喜び祝福するコンスタンツァ。
「あなたがステファンと別れ別れになって辛いときにごめんなさい。でもどうしてもあなたにだけは秘密にしておけなくて。」
「教えてくれて、嬉しいわ、カテリーナ。実はジュリエット様がおっしゃっていたのだけど、初対面のときからお二人はいい感じだったって、ステファンとよく話題にしていたそうよ。」
「え?そうだったの? でもまだ正式なプロポーズというわけではないから、ヴァイツァー家の皆様はもちろん、私の家族にはまだ内緒にしておいてね。」