ルカの想い
第22章
カテリーナたちの帰国とほぼ同時期に、ヴェネツィアにもオスマン軍によるウィーン包囲の噂は街中に広まっていました。
イスラムによる侵攻という点では、ヴェネツィアの人々にとっては半世紀以上前のコンスタンチノープルの陥落のときのほか衝撃が大きい事件だったのですが、当時のことを思い出し、不安を口にする人も多かったのです。
すでに元老院議員となっていたカテリーナの父は、トルコ帝国内での兆候は察知していたのですが、まさかこんなにも早く大胆な軍事行動に出るとは考えておらず、妻と娘のザルツブルグ行きを許可していたのでした。
無事帰国できるようにエスコートしてくれたジュリオに対し、カテリーナの父も母も、感謝の言葉とともに彼の人望を褒め称え、預かることになったコンスタンツァについては、カテリーナが、その人柄と友人としての素晴らしさについて熱弁を振るい、コンスタンツァは恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にしてしまいました。
コンスタンツァ、ジュリオ、ルカも交えた、その晩のフォスカリ家の夕餉は、家庭的な雰囲気で進み、その晩遅くまで、カテリーナの両親は、娘の嫁ぎ先について二人で密かに話し合っていたのでした。
カテリーナはザルツブルグを出る前に、早馬の手紙でコンスタンツァのことを父に知らせていたので、彼女の部屋もちゃんと用意され、支度も完了していました。カテリーナは帰国の翌朝早々にコンスタンツァを尋ね、彼女が余計なことを考えないように、召使いと一緒に荷ほどきを始めようとしましたが
「お嬢様がた、まだお疲れでしょう。私たちでやりますので、どうぞ居間で休まれてください。」
といわれて、それでは、とリュートを聞かせることにしたのです。
ところがカテリーナがリュートを奏でると、あの華やかだった婚礼の祝宴を思い出したのか、コンスタンツァが涙ぐんでしまったので、慌てて別の話題に切り替えようと、
「コンスタンツァ、二人で見つけた楽譜を見てみませんか?どこに入れてくださったのかしら?」
と言って、二人であの楽譜をじっくりと眺めることにしたのです。
「とても古い楽譜みたいですね。」
「ええ、貴重なものだと思うわ。ザルツブルグ大司教様が譲ってくださったなんて、本当にコンスタンツァに感謝だわ。」
「そんな、祝宴で素晴らしい演奏を披露してくださったお礼です。それはチェンバロの曲なのですか? グレゴリオ聖歌か何かでしょうか?」
「いろいろなものが混じっているみたい。昔、あの館に住人で、チェンバロを演奏される方がいらっしゃったのね。」
二人で雑多にまとめられたいくつもの楽譜を手に取ってみていたとき、コンスタンツァが
「あら?これは?」
と楽譜の隅に何か走り書きのようなものを見つけたのです。
その頃、ジュリオはルカの部屋にいました。
「ルカ、私は明後日には大学に戻らないといけない。フォスカリ家の方々とコンスタンツァ嬢と仲良く過ごしてくれ。」
「わかりました。兄上も気をつけて。」
「どう? 会計学の勉強は進んでいるのかい?」
「まだ始めたばかりで。なかなか難しいですが。」
「大丈夫、ルカは計算にも強いし、物事を客観的に判断できる素晴らしい能力があるよ。父の片腕になれるはずだ。」
「そんな、兄さんほどではないですよ。」
普通に会話を交わすジュリオとルカでしたが、実は少し前から、ルカはジュリオに対して嫉妬と不満を抱き始めていたのです。
なぜ兄のジュリオは好きな道に進めて、自分は家のために商売の修行をしなければならないのか。 なぜみんなジュリオばかりを褒めるのか。なぜ自分の努力を周りは認めてくれないのか。みな兄の表面上の陽気さや愛想に良さに欺されているのではないか。
そして同時に、ルカはシチリアでの初対面のときからカテリーナの美しさに一目惚れしていたのでした。そもそも兄の招待でカテリーナとその父をベレッツァ家で歓待するという状況で、最初は兄が婚約者を連れてきたのだと思っていたのでしたが、まだ婚約者ではないことを知り、密かに恋心を抱いていたのです。
しかし兄のような愛想のよさもなく、社交的な性格でもないルカは、その思いを内に秘めていました。ところが話の流れから、突然自分がフォスカリ家に滞在して商売を学ぶということになり、一緒に家で過ごせばもしかして心が通じ合う機会があるのではないかと期待していたのです。
しかし現実は、フォスカリ家では自分だけが商売の修行を行い、兄は楽しそうに彼女と一緒にザルツブルグへと向かってしまいました。
もんもんとした想いを抱えていたルカでしたが、このとき、兄が帰国早々にナポリに戻るという事実を前に、自分にもカテリーナと親しくなるチャンスが来たのではないかと考え始めたのです。
しかし、ルカは知らなかったのでした。ヴェネツィアを去る前に、ジュリオはカテリーナと密かに将来の約束を交わしていたのでした。