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ヴェネチア大使と唖の女

第12章

 翌朝、エレノアは迎えの馬に乗って、夜半すぎに、4ヶ月ぶりにフランソワの屋敷に戻ってきました。フランソワはいやに丁寧な挨拶で彼女を迎えます。

 「お疲れになられたでしょう。夜食を用意させておきましたが、気がすすまなければ、すぐお休みなさい。明日お話しましょう。」

 エレノアは明日から、恋する女でなく、娘や孫とともに心からくつろいで過ごす幸せな母親でもなく、領主夫人として個人的感情を押し隠して振舞わなければならない生活に、自分がどれだけの間耐えられるかと、一人ため息をつくのでした。


 そのころ、ヴァティカンでは、フィリップもやっと長い一日を終えたところでした。疲れてはいましたが、エレノアとは違い、明日への明るい兆しに喜びを感じてもいました。法王様の様態が、劇的に持ち直してきたのです。ヴェネツィア大使が献上した東方の薬と、唖の女の献身的な看護で、いまや部屋の中を歩き回れるほどに回復していました。この調子なら、今度の聖金曜日のミサにもご参列できるかもしれないと考えながら自室に向かっていました。

 「それにしても、ここ二週間は目が回るほどの忙しさだった。マリアエレナの手紙すら、開封していない。明日読んで、さっそく返事を書こう。」

 しかし、フィリップは翌日もマリアエレナからの手紙を開封することができませんでした。忙しかったからではありません。机においてあったはずの、その手紙が、なくなってしまったからです。


 一晩中手紙を探した翌日のこと、フィリップはヴェネチア大使からの訪問を受けました。

 「大使、このたびは御礼を申し上げます。法王様は、回復途上にございます。あなたにまずお知らせしたくて、お呼び立てした次第です。本日午後には各国大使にも正式に公表いたしますが。」

 「お心遣い感謝いたします。副秘書官長。大変喜ばしいことです。もちろん今回のことは内密にしたしますから、ご安心を。それより、今度は、あなた様のお体が心配です。こんなことを申し上げては失礼かもしれませんが、大変お疲れのようにお見受けいたします。ここのところ、ほとんどお休みになっていらっしゃらないのでは?」

 「お気遣いいただき、恐縮です。私も安心しましたので、少し疲れが出ただけでしょう。」

 フィリップは、各国大使のなかでも、このヴェネツイア大使と、もとから気が合うことが多いように感じていました。少しエドモンに似た面差しに好印象を覚えたからかもしれませんが、美辞麗句を並べ立てず、率直に簡潔に本題に入り、前向きに問題解決に取り組もうとする態度を、とても好ましく感じていたのです。つい話し込むと、お互いの名前で呼び合う仲にまでになっていました。


 「どうか、あなたまで倒れないでください。私たち官吏は、つねに主人にお仕えする立場ですから、わたしもあなたの職務への誇りも、重責も、苦労も、よくわかっております。しかし病に倒れてしまっては、かえってご迷惑がかかってしまうのですよ。ぜひ本日はお休みください。フィリップ殿。私は公式発表のときまで一切口外いたしませんから。」

 「ありがとう、リッカルド殿。お言葉に甘えて、そうしていただければ。個人的な用事も片付けたいと思っていたところです。」

 「何かご実家で気になることでも?」

 「いえ、特には」

 「フィリップ殿、差し出がましいようだが、これは大使としての意見ではなく、私個人の意見として聞いてほしい。あなたの父上が、先日皇帝の親族と縁組したことで、あなたが難しい立場になりつつあることは、承知している。ここ、ヴァティカンは、法王のもとに各国勢力の寄り合い所帯のようなところだ。枢機卿はじめ、職員全員がヴァティカン外部で生まれ育った人間だ。法王ですら。聖職者は皆、独身ということだから、そもそもヴァティカン生まれ、ヴァティカン育ちという人間はいないわけだ。ここにいる人間は、みな、つねに出身国とのパイプランを強固に維持している。あなたも、気をつけないと、あなた自身の身の安全は保てない。」

「リッカルド殿、それは、私の命が狙われているという情報が、君の耳に入ったということでしょうか?」

「いや、一般論を言ったまで。ただ、つねにあなたの行動は見張られているということだ。ヴァティカン内の誰も信用しないほうがいいかと。とくに利害関係が見えにくい相手は。つねに君の情報を探っているだろう。」

 「それは、たとえば、私の日記とか、私への手紙とか。」

 「十分気をつけたまえ。君はすでに、単なる一官吏から、重要人物、しかも要注意人物に格上げされているのですよ。」


 午後は休ませて欲しいと秘書官長に伝えると、快く許されたので、フィリップは自室に戻り、まず、マリアエレナあての手紙を書きました。そのあと、エドモンあてに詳しい状況報告を、そしてフランソワあてに噂ばかりの当たり障りのない情報を。ただし、3つの手紙に1つだけ共通することを書いたのです。ヴァティカン内で手紙の盗難事件が起きているので、状況がわかるまでのしばらくの間、こちらに手紙を送るのは控えてほしい、と。マリアエレナには、さらに詳しく、前回の手紙が実は盗まれてしまったらしいと伝えました。

 「だが心配しないでほしい。身の危険が迫っているというわけではないから。母上にも、そう伝えてほしい。君と母上が、カルロスのもとにいるかぎり、私は安心だから。」


 この手紙を受け取ったマリアエレナは、迷った末、夫のカルロスに、フィリップとのいままでの手紙のやりとりを全て告白し、ひざまずいて、内緒にしていたことをお許しください、と嘆願したのです。

 「フィリップは知らないのです。ジャンカルロがエドモンの子であることも、母がフランソワのもとに帰っていったことも。知らせることもできません。どうすればよいのでしょう! たった一人で、周りは敵だらけというのに!」

 「フィリップは、もう一人前の男だ。自分の頭で考え、自分の身は自分で守れる。それより、フィリップの最後の手紙で気になったのは、ヴェネツイア大使のことだな。そこだけもう一度読んで聞かせてくれるかな。」

 「ヴェネツイア?」

 「法王への薬を献上したのも、今回の忠告もヴェネツイア大使だ。フィリップはすっかり信用しているようだな。このリッカルドとかいう男を。私もエドモンも、一度会っておいたほうがよさそうだ。かなりの情報を握っているようだな、君と同じようにね、マリアエレナ。」


 聖金曜日のミサに法王が参列するだけでなく、自ら司祭としてミサ執り行ったことで、コンクラーベの準備は白紙に戻りました。しかし改めて自分の体制固めの必要性を感じた法王は、矢継ぎ早に体制の改造策を発表しました。

まず、教会軍の再編成と、総司令官としてエドモンの就任発表。当然のごとく、皇帝は、これを受けてエドモンの領地を没収すると発表することになったのですが。フィリップは、とうとうエドモンの計画が実質的に始まったと、かすかな震えを抑えられませんでした。さらに新枢機卿の3名の任命。1名は法王のいとこであり、衆知予想できるところでした。ヴェネツイア派1名は、おそらく今回のヴェネツイアへの御礼ということだろう、とフィリップは読んでいたのですが。一番周囲が驚いたのが、フィリップの枢機卿任命で、まだ歳若いことはもちろん、最近皇帝と姻戚関係を結んだフランソワの息子ということで、いろいろな憶測が飛んだのですが、「おそらくヴェネツィア側を牽制したいということで、バランス上、そういうことになったのだろう」という推測を、各国大使は本国に書き送ったのでした。


 ここまでは、フィリップが予測していた通りの動きでした。早くエドモンに会いたいところでしたが、まだローマ到着はまだ何日か先ということらしく、何も情報が入ってこないまま、枢機卿の任命式に出席した後、各国大使からの祝辞の席で、リッカルドに、こうささやかれたのです。

 「近々、あなたの近親に関することで、驚くような発表がありますよ。覚悟しておいてください。」

驚くような発表? エドモンの教会軍総司令官就任はもう発表されたではないか。父か母のことか? ジャンカルロか? なぜリッカルドが知っているのだ?


 翌日、リッカルドを捕まえて、詳しく聞こうと思っていた矢先、フィリップは、いまや法王づきの侍女となった唖の女から、法王からのメモを渡されました。明後日、次の声明をヴェネツイア元首と共同で発表するから、ヴェネツイア大使と準備をするように、という指示書でした。声明とは、教会軍総司令官エドモンとヴェネツイア元首の末娘マリアとの結婚の発表だったのです。

 エドモンが母を見捨てたというのか! こんなこと、エドモンは何も言っていなかったではないか! それともこれも計画の一部なのか? ああ、これを知ったら、母はどんなに悲しむだろう? いったい、ヴァティカンの外で、何が起こっているのだ!

混乱した気持ちのまま、越してきたばかりの新しい自室に座っていると、下僕がヴェネツイア大使の到着を告げました。

 「あなたがほのめかしたのは、このことだったのですね、大使。」

 「枢機卿殿、私も本国からの連絡を受けたのは、あなたの任命式の直前でした。噂は耳に入っておりましたが、私自身も、ありえないだろうと思っておりましたので。」

 「あなたはエドモンとご面識がおありで?」

 「いえ、残念ながら、まだ。しかしまもなくここにお着きになると伺っています。お会いできるのが、楽しみです。」

 「では、あなたは、ご存知なのでしょう?」

 「何をですか?」

 「私とエドモンの関係です。」

 「もちろん、あなたの叔父様でいらっしゃる。だから法王もあなたにこの件をお任せになったんでしょう?」

 フィリップは、一瞬、ヴェネチィア大使の目を覗き込みましたが、そのままそれ以上何も言わず、話題を変えました。

 「そうですね。それではまず、式の日取りから検討すべきかと存じます。エドモンの到着までに時間がないようですから」

実務的な打ち合わせは、その日の夕べの祈りの時間まで続きました。


 残りは明日、ということで、大使と別れたあと、とりあえず現状報告を法王行うために、私室を訪れたフィリップを、法王は上機嫌で迎えました。部屋には、あの唖の女が、いつものように伏目がちに、そばに控えています。

 「驚いたかね、フィリップ。叔父上の結婚話には。いやお父様の結婚話というべきかな。」

 「お声が高うございます。どうか、そのお話は、ここでは。」

唖の女が気にかかって、フィリップは声をひそめました。

 「ただいまヴェネツイア大使と詳細を詰めておりますが、明日には、声明文の骨子が出来上がるかと存じますので、一度お目通しをお願い申し上げます。」

 「それはちょうどよかった。明日の午後にはエドモン殿が到着するとのことだ。私と大使とエドモン殿と君の四人で、食事をしながらでも話し合えばよい。」

 「承知いたしました。そのように取り計らいましょう。」

そう答えながら、何とかエドモンと二人きりで話す時間はないものか、とフィリップは考えていたのです。

  

 翌日の昼すぎ、エドモンの一行が法王宮の中に到着しました。法王の代理として、枢機卿の代表として出迎えたフィリップは、一行のなかに、変装はしているものの知った顔が混じっているので、驚きましたが、エドモンが目配せしたので、黙っていました。

 「ようこそ、総司令官殿。お待ちしておりました。法王様に替わり、ご挨拶申し上げます。ヴェネツイア大使も含めた会食の席をご用意しておりますので、どうぞこちらに。」

 「ありがとう枢機卿殿。すぐに参上いたしましょう。そう、その前に私の腹心を紹介しておきたいと存じます。こちらに滞在中は、彼が部下たちを統率しますので、何かあれば、彼にご指示ください。」

 「枢機卿殿、お目もじを。ジャンマリアと申します。」そう自己紹介する、変装したカルロスの姿を見て、フィリップは驚きの表情を隠すのに精一杯だったのです。


 会食は、密談中の密談ということで、4人のほか、召使も侍らなくてもよいという異例のものでした。あの唖の女も控えなかったので、フィリップが何かと立ち働きすることになりましたが、会食はなごやかな雰囲気の中、すすんでいきました。昨日からの法王の上機嫌は続いていて、リッカルドとエドモンとの品性の高い、教養のある会話を楽しみながら、回復後間もないというのに、お気に入りの白ワインを何杯も飲み干していたのです。

 とくに大きな要求の食い違いもなく、結婚式は3週間後ということで合意がなされ、総司令官在任中は、教皇領の一地方に、エドモンが兵隊とともに移り住むことになり、同時に、元首の別荘のあるパドヴァ近郊にも、新妻との新居を構えるという折衷案に落ち着きました。

 「総司令官殿、私の別荘もパドヴァとヴェネツイアをつなぐ運河沿いにございます。舟遊びもお楽しみいただけますよ。私の妻は、マリア殿の姉にあたります。ともに、親しくお付き合いさせていただければ、光栄に存じます。」

 「うれしいお言葉、ありがとうございます。大使。マリア殿は、まだお若い方ですから、近くに姉上様がいらっしゃると心強いでしょう。私は、どうしても不在がちになってしまうでしょうから。」

 フィリップは、事務的なこと以外は、ほとんど会話に参加せず、エドモンの真意を推し量っていました。今日話せなくとも、3週間もあれば、エドモンと話しあう機会が十分あるはずだ、安心していたのです。

 しかし、この会席のあと結婚式まで、実際は2週間しかないことになってしまいました。

法王の容態が、また悪くなってしまったのです。

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