シチリアへの誘い
第13章
フォスカリ家での正賓の翌日の夕方、突然カテリーナがジュリオの滞在する家にやってきました。
「ジュリオ様、父からの言付けです。明日、午後一番にアルド社との面会の約束がとれましたので、お約束通り私がご案内いたしますわ。明日の正午に拙宅にいらしてくださいますかしら? それでは明日また、ごきげんよう」
来訪して言うことだけ言ってすぐ帰ろうとするカテリーナに、思わずジュリオは引き留めました。
「カテリーナ様、ちょっとお待ちください。そちらの明日のご準備はもう出来ているのですか?」
「え? も、もちろんですわ。父の紹介状も楽譜も用意しておりますし、表紙のデザインも考えております。」
「それはよかった。で、もちろんリュートも持っていかれるのですよね。」
「え?」
「普通の人は楽譜を見ただけで、どんな曲か想像できませんよ。あなたがその場で素晴らしい演奏をしてみせたらいかがででしょうか?」
「あ、なるほど、そうですわね。ええ、確かにそうですわ!」
「私も万全の準備をしてお伺いしますよ。そうそう、アルド社に伺ったあと、お時間をいただけませんか?」
「え?何故でしょうか? 何かお話しする必要がございましたか?」
「もちろん! 今回のお礼をさせてください! こんなに早く貴重な機会をいただけるなんて、感謝してもしきれませんよ。」
「まだ出版できるとは限りませんけれど。」
「お父上の紹介状がありますから! それに私は今回の内容には自信があります。おや、カテリーナ様は心配なのですか?」
「そ、そんなことございませんわ。楽曲集の出版は私の前々からの夢だったので、ちょっと緊張しておりますけれど、私も曲には自信がございます。」
「よかった!では二人で祝杯をあげることができますね。」
翌日、アルド社に向かう二人。カテリーナは硬い表情で言葉少なになっている様子を見て、ジュリオは優しく「よろしかったら、リュートは私がお持ちしましょう」と声をかけました。
そしてリュートを受け取ったとき、カテリーナの手が極度の緊張から震えているのに気がつき、彼女の緊張をほぐそうと、「こちらに来る前のヴァティカンで、ちょっと面白いことがありまして」とヴァティカン宮の隠し部屋の話を始めたのです。
好奇心旺盛なカテリーナは、すぐアルフォンソ神父が残した謎のメッセージについて、いろいろ勝手な妄想を言いだし、ジュリオもわざと面白くカテリーナの妄想話を盛り上げたので、アルド社の前に着いたときには、いつもの快活なカテリーナに戻っていました。
受付で紹介状を手渡し、奥の部屋に通されたカテリーナとジュリオは、早速原稿やら図版、楽譜を目の前の大きなテーブルに並べ始めましたが、カテリーナはジュリオの持ち込んだ大量の資料に驚いていましました。
「え? ジュリオ様、これを全部を一冊の本にするのですか?」
「これは全体のほんの一部ですよ。大学にはこの何倍もの書きかけの資料があるんです。」
そこへ、アルド社の支配人が、部下を連れて部屋に入ってきました。
丁寧な挨拶のあと、早速、医学書の話からお伺いしましょう、と言われ、ジュリオはフォスカリ家での熱弁に、さらに筋道の通ったわかりやすい説明をし、フォスカリ家で確約してもらった支援の話も付け加えたのです。
「ジュリオ・ベレッツァ殿、実に刺激的なお話をありがとう。これだけ大量の図版をどう入れるかという課題もあるが、ぜひこれは我が社から出したいと思っています。実に魅力的な内容ですな。改めて近いうちに、出版までの細かな打ち合わせをお願いしたいと存じます。」
ジュリオのあまりに鮮やかなプレゼンテーションに、正直カタリーナは、この段階で、すっかり気弱になっていまいました。
「今日はもうひとつ、カテリーナ嬢のお話も続けてお聞きください。私の医学書とは全く別の分野の本ですが、いち早く新しいものを取り入れる御社なら、ご興味を覚えるのではないかと思い、勇気を出してここにいらっしゃった次第です。」
ジュリオに促されて、カテリーナは、自分がリュートとチェンバロをチュチーリア音楽院で学んだこと、数年前から自分で作曲も始めたこと、そして『万人のための薬草学』に感銘し、自分の楽曲をぜひこちらの会社から出版したいことを話しました。
部屋での微妙な雰囲気を察したジュリオはすかざす
「そうはいっても、楽譜を見ただけでは、内容をご理解いただくのは難しいですよね。そこで、よろしければここで、実際彼女の演奏を聴いていただけないでしょうか? カテリーナ嬢、お願いできますか?」
ジュリオの優しい声に安心して、カテリーナは落ち着いてリュートを取り出し、心を込めて自分が作曲した楽曲を演奏したのでした。
二人で祝杯をあげる、というより、反省会のような雰囲気になりながらも、アルド社からの帰り、ジュリオとカテリーナはグラスワインを前に、とある宿のサロンに座っていました。
「ごめんなさい。あんなに熱心にアルド社に私の才能を力説してくださったのに。確かに作品数も足りないし、作風も似たような曲が多いわ。私、あなたが描かれた量に比べたら、まだまだだわ。あの薬草学の本も、考えてみれば、驚くほどの知識量が詰まっていて驚きました。こんな薄い内容で出版しようと考えていた自分が恥ずかしい。」
「カテリーナ、あなたの楽曲はひとつひとつは素晴らしいよ。ただ、本として出すには量が足りなかっただけだ。アルド社もあなたの才能は理解しているよ。だから、もっと曲を作ればいいだけだ。」
「でも、どうすれば。何か新しいインスピレーションが湧いてこないと作曲できないの。」
「そうだね、創作意欲を高めるのに、旅行はいい刺激になる。よかったらシチリアに来てみないか?昔からサラセンの文化が融合した街だ。ほかのイタリアの国々とは全く違って、面白いはずだよ。今回の返礼として、ベレッツァ家に招待するよ。フォスカリ家のお嬢様なら、我が家は無条件に歓迎するはずだから。」
ヴェネツィアの外に出たことがなかったカテリーナは、持ち前の好奇心を大いに刺激され、この日から毎日両親にシチリアに行く許可を嘆願し続けたのです。
アルド社での出版の話が本決まりになったので、ジュリオは一旦ナポリに戻り、シチリアに住むベレッツァ家現当主の父に手紙で、偶然の出会いからフォスカリ家に招待され、歓待されたこと、さらに本の出版について出資支援を約束していただいたこと、そのご厚意の返礼に、フォスカリ家の方々を招待したいとの連絡をしたのです。
「ジュリオ、フォスカリ家の方々、ということはご夫婦でいらっしゃるということなの?」
ナポリに帰国早々、手紙を書き出したジュリオにマルガリータは尋ねました。
「それに、ぜひご息女もご招待したいんだ。」
「ご息女? どんな方なの?」
「ええ、とても快活な方で、リュ-トの名手なんだ。ヴェネツィアで有名なチュチーリア音楽院というところで学ばれたとかで、才能豊かな方で、作曲までされるんだよ。それで創作活動の一助にもなるから、一度シチリアに来てみてはどうかとお誘いしたんだ。」
「ジュリオ、そういうことではなくて! 独身でらっしゃるの? おいくつ? 美しい方なのかしら?」
「え?ああ、うん。世間一般的に言えば美しい方だと思うよ。私より5,6歳は年下かな? 彼女も作曲集を出版しようとしているんだけど、ヴェネツィアを出たことがないというから、旅行は創作意欲を刺激するから、とおすすめしたんだよ。」
「ふうん。じゃ、あなたが彼女をシチリア各地にご案内することになるわけね。」
「え? あ、そうか。そうだよね。父も弟も商売で忙しいし。じゃあ、ついでにナポリも案内しようかな。」
ジュリオがそのフォスカリ家のご息女とやらに、どのような感情を抱いているかはかりかねているマルガリータでしたが、ナポリにきたらジュリオのために一肌脱ぐべきかしら、と考えはじめていました。




