『万人のための薬草学』
第12章
フォスカリ家での正賓の翌日、ステファンは駐在大使のご厚意でサンマルコ共和国の政府の要人や、各国大使が集まる会に招待され、朝から外出してしまいました。そこでジュリエットは午前中一人で、かつて過ごした、懐かしい孤児修道院を訪問したのです。サンマルコ共和国の公式の記録では、すでに存在しないことになっているジュリエットでしたから、あくまで一篤志家から、ということで寄付を申し出たのでした。
ジュリエットがいた頃から勤めている修道女はまだ何人かいたはずですが、上質な服を身にまとった立派な貴婦人が、かつての孤児ジュリエットだと誰も気づくことはなかったようでした。
「ヴァイツァー様、当修道院へのご助力、心よりお礼申し上げます。いただきましたご寄付は、薬剤師学校の増築のために使わせていただきます。」
「薬剤師学校はうまく行っているようですね。」
「はい、おかげさまで。チュチーリア音楽院と並び、マリア薬師院も、この修道院出身の孤児たちにとって、社会に貢献するための重要な機関として認知されるまでになりました。やはり初代校長が、あの高名なマリアンヌ様ということで、すぐに社会的に高い信頼を得ることができました。」
「それは素晴らしいことですね。そういえば、ローマに以前、そのマリアンヌ様の経営する薬局があったかと記憶していたのですが、今、そこは閉店してしまったのでしょうか?」
「よくご存じですね。確かにローマ市内の職人街の近くにお店がございましたが、今はサンタンジェロ城の近くに引っ越して、あのときより大きな店となりました。薬師院の卒業生が何人も働いております。」
「ああ、そうだったのですね。薬師院で学んだマリアンヌ様のお弟子さんたちが活躍されているのですね。」
「はい。今や薬師院は孤児だけでなく、医学を学ぶ他国の生徒も聴講にくるようになりまして。そのため建物の増築をしているところです。」
マリアンヌ様は、やはり素晴らしい方だったのだ!とジュリエットは自分のことのように誇らしくなりました。
大使の館に戻ると、ジュリエットあてにマリアから手紙が届いていました。
「マリアンヌ様の引っ越しも落ち着いたので、明日の午後にでもお待ちしております。」
マリアンヌが引っ越ししたというブレンダ運河沿い館というのは、ジュリエットが最後にマリアと面会した、あの別荘でした。
「最後にあなたに会えて、もう何も思い残すことはないわ。ジュリエット。そしてあなたがステファンね。ふふ、若い頃のロバートの面影があるわ。」
ベッドに座ってはいるものの、もっとやつれた姿のマリアンヌを想像していたジュリエットでしたが、思いのほか明るいマリアンヌの表情にちょっとほっとしました。
「マリアンヌ様、何をおっしゃっているのですか。昨日、薬師院を訪問してきました。建物を増築中とお伺いしました。まだまだ教えなければならない生徒たちがいるのではありませんか?」
「そうね、でも私は自分の身体のことは自分が一番よく分かっているわ。自分のだいたいの寿命もね。もうね、無理はできないの。でも今の自分の必要な薬や治療のことくらいは何とかできるわ。」
「マリアンヌ様・・」
「それでね、今日はまずこれをあなたにプレゼントしたくて。」
マリアンヌはジュリエットに一冊の本を渡しました。
「『万人のための薬草学』? あ、これがマリアンヌ様の上梓された・・・」
「いままでの知識と経験をこの一冊につぎ込んだの。ここに私の人生が詰まっているわ。」
そのとき、召使いに薬湯を持たせて、マリアが部屋に入ってきましたが、マリアンヌが話しを続けるので、ジュリエットもマリアもステファンもそのまま話しをじっと聞くことにしました。
「この本のきっかけを与えてくれたのは、あなたの産みの母、マリア様なの。あなたの婚約が無事整って、その報告をしたら、『ジュリエットがあなたの後継者でなくなるなら、あなたの知識と経験が伝わらずに途絶えてしまう。私が修道院を出た女性が自活するための技術を身につける学校を開きますから、その指導者になってください。』と私に提案してくださったのよ。
リッカルドが天に召された後、すっかり落ち込んでしまった彼女が、そんな前向きな未来を考えていたなんで、私感動してしまったわ。
それから、学校の教材となるものをいろいろ書き初めて、最後にひとつにまとめたのがこの本よ。
学校も軌道にのって、私の助手として手伝ってくれた人の中から、指導できる人材が何人も育ったし、わたしもそろそろ天国に行って、エレノア様やリッカルドと昔話をしたいわ。それに待っているカルロスの治療もしてあげないとね。」
「カルロス様のことは、本当に残念でした。私がかけつけられれば、治療のお手伝いができたかもしれないのに。あれだけ私を指導してくださったのに、あなたの後継者になれず、ごめんなさい。」
「何言っているの?あなたが幸せになることが私の幸せ。それにエレノア様の遺言を見事に果たしたのだもの。意気揚々と天国にいくことができるわ。」
「マリアンヌ様、ひとつ謝らなければならないことがあって・・・。」
「え?どうしたの?」
「結婚祝にいただいた紅珊瑚のネックレスなのですが・・・。」
そこでジュリエットは、ベレッツァ家の宝剣のこと、ローマでのジュリオの出会いなどを話したのです。
「それで、私には今のところ娘がおりませんし、そもそもあの紅珊瑚はベレッツァ家の宝剣を飾っていたもの。現在の当主のご長男であるジュリオ様にお譲りする、と申し上げてしまいました。エレノア様はじめ多くのかた方の想いが詰まったネックレスだからこそ、ジュリオ・ベレッツァ様が将来のご伴侶にお贈りするのがふさわしいと考えまして。」
「なるほど、あなたの話を聞いて納得しました。そのジュリオ・ベレッツァという青年、なかなか面白そうな方ね。私が若かったら、意気投合するような気がするわ。ぜひエレノア様からあなたまで、あのネックレスに関わる方々に引き継がれた歴史をお話してからお譲りなさい。
ところでステファン、あなたの婚約者のことを教えて頂戴。」




