フィリップの最後
第8章
「おかしいわ。確かこあたりにあったはずなのに・・・」
ヴァティカンに行く前に、もしかして何かの役に立つかとジュリエットは喘息の症状を和らげるような薬剤を購入しようとマリアンヌの店に立ち寄ることにしました。しかし店が見つかりません。かつてヴァティカンに勤めていたときに通った場所で間違えるはずはないのに、と探し回りましたが、「もうすぐ面会時間ですよ」というステファンの声に促されてやっとヴァティカンに向かいました。
出迎えた新しい秘書館長の案内で、フィリップの私室に入ったジュリエットとステファン。フィリップは寝台に半身を起こした姿で二人を出迎えてくれました。
「おお、ジュリエット。待っていたよ。」
「猊下・・・」
「そして隣にいるのは、ステファンだね。」
事情を知る秘書館長は、三人だけにするために、そこで部屋を退出しました。
「お会いできて光栄でございます、猊下。」
「母上から、事情は聞いているのだね。」
「はい。こちらに参ります途中で、すべて伺いました。」
「ではステファン、猊下はやめてくれ。ジュリエットも。よく顔を見せておくれ。」
「お父様・・・」
「ジュリエット、幸せそうで良かった。いつもそなたのことを祈っていたよ。」
予想以上に弱った声と姿に衝撃を受けたジュリエットでしたが、いま父にかけるべき言葉は目先の慰めではなく、自分たちの幸福な姿を見せて安心させることだと悟ったのでした。その気持ちをステファンが以心伝心で感じたのか、落ち着いた明るい声でステファンがゆっくりと語りかけたのです。
「おじいさま、このたび私の婚約が整いました。ジャンカルロ様のご子息であるフレデリック様のご息女です。幼い頃からのお互いをよく知る間柄でもあり、皇帝陛下も喜んでくださいました。」
「それは、良かった。本当によかった。おめでとう。心から神の祝福を。そうか。ジャンカルロの孫娘と。私も年を取ったはずだ。さすがにそなたの結婚式を執り行って欲しいというのは勘弁して欲しいな。」
「私は母のようにわがままは申しません。ご安心ください。」
「まあ、ステファンったら!」
「おじいさま、その祝福のお言葉だけで私はもう胸がいっぱいでございます。」
「ステファン、いくつになられたのかな?」
「18になります」
「そうか、私もそなたぐらいの年頃は、母エレノアの身を守ろうと必死だった。これからの人生、いろいろな試練があるかもしれないが、そなたの母ジュリエットをはじめ、家族を信じ、協力して困難に打ち勝つよう歩みなさい。悪意はあらゆるところに潜んでいて、そなたが傲慢になっているときや弱っているときを狙って、襲いかかってくるだろう。しかし信ずる者たちがいれば、必ず乗り越えることができる。そなたの人生が実り多きものであるよう、これからも祈っているよ。」
そこまで一気に語りかけたフィリップは、少し疲れたのか、
「ジュリエット。ありがとう。おまえのおかげで私の人生は豊かなものになったよ。さて、少し休んでよいだろうか?」
「はい。あの頃よく施術させていただいた、お疲れをとるマッサージを少しいかがでしょうか?」
「おお、それはありがたい。何年ぶりだろうか。では少しお願いしようかな。」
ジュリエットは涙をこらえて、驚くほど痩せ細ったフィリップの身体をそっと優しくマッサージをすると、いつしかフィリップは穏やかな寝息をたてはじめました。
これが、フィリップとジュリエットの最後の会話となってしまいました。
フィリップの葬式が行われたあとのヴァティカン内はコンクラーベ一色となり、親切にしてくれた秘書館長もジュリエットたちの対応する余裕がなく、これ以上滞在を延ばしても迷惑がかかるだけだと考えたジュリエットは、ステファンとともに今度はマリアンヌのお見舞いのため、ヴェネツィアに行く事にしました。
母から頼まれてジュリオにヴェネツィアへの出立準備を依頼するために、ステファンがジュリオの滞在する宿に向かうと、フィリップがステファンの祖父であることを知らないジュリオは、いたずらっこ目をしながらステファンにある提案を持ちかけました。
「法王猊下のご逝去の前に、実は秘書館長にあるお願いをしていたのですが、すっかりヴァティカンはコンクラーベ一色で、そのお願いの実行ができないまま立つのが残念で。いつまたローマに来られるかもわからず。ひとつ、ステファン殿から、その実行を念押ししていただけないだろうか? それさえ済めば、すぐにでもヴェネツィアに向かいますので。」
「どのような依頼をなさっていたのですか?」
「あの宝剣が見つかった場所、つまり我らがご先祖、アルフォンソ神父のご遺体が発見された場所で、彼を弔いたいというお願いです。」




