ヴァティカン宮
第10章
さて、そのころヴァティカン内では、いよいよ法王の健康問題が頻繁に取りざたされるようになっていました。半年前から公式行事のとき以外は、ずっと臥せっているらしいという噂が広まっていましたが、とうとう公式行事にも代理の枢機卿をたてるようになっていたのです。各国大使は、毎日にように病状の噂や予測を本国に書き送り、本国からの見舞い品を献上したりして、様子を探っていました。
副秘書官長となっていたフィリップは、各国大使とのやりとりと、念のためということで取り掛かった次のコンクラーベの準備で忙殺され、フランソワへの通信やマリアエレナへの手紙も滞りがちになってしまっていました。フィリップは、昨日届いたマリアエレナからの手紙を読む閑すらなく、朝からヴァティカン内を走り回っていたのですが、これはある意味、エドモンの引き伸ばし作戦には好都合な状態といえたでしょう。教会軍総司令官を依頼した法王自身が倒れてしまっては、本当にこの話はうやむやになってしまう可能性が高かったからです。
そんなある日、ヴェネツイア大使が「東方の貴重な薬を献上にあがりました。」と秘書官長に面会を申し込んできました。現法王とヴェネツイアとはよい関係にあり、というよりは相互不干渉という状態ですが、それでもお互いにとっては有効ではありました。
このとき時期法王の有力候補には、3名の枢機卿の名がいくつかあがっていたましたが、最有力と噂されていたのは、そのうち3名。最も高齢のナポリの枢機卿、メディチ家が後援しているという噂の枢機卿と、そして現法王の甥であり、彼は現法王の路線を継ぐものと見られていました。しかし、まだ歳若く、老齢のものが選ばれやすいコンクラーベでは、いまのところ負けるだろうという下馬評で、ヴェネツイアとしては、なんとか現法王の健康を回復し、いましばらく続けてほしいというのが本音と見られていました。このような思惑が錯綜する中、秘書官長はフィリップに代理でヴェネツィア大使と面会し、状況を探るように命じたのです。
フィリップが面会の間に入ると、そこにはヴェネツィア大使と、見知らぬ女が控えていました。
「ただいま秘書官長は多忙のため、私が代理で伺います。法王へのお見舞い、心より感謝いたします。」
「元首はじめ、サンマルコ共和国市民一同、心よりお見舞い申し上げます。ところで、つい先日帰還しましたガレー船に、非常の薬効の高いと評判の品がございましたので、持ってまいりました。ほんの少量を口にするだけで、気力を回復するとのことです。」
「それはそれは。しかし、それだけ難しい薬なのでは?」毒薬ではないにしろ、得体の知れないものなど、とても法王にお勧めは出来ない。
「ええ、服用する量を間違えれば、逆にお体に触る可能性は否定いたしません。そこで、この女を連れてまいりしました。処方と調合に覚えのある者で、毒見役もおおせつかります。」
大使の紹介の言葉に、女は伏目がちに一礼しただけでした。
「恐れ入ります。実は、この女は話すことができないのです。ご挨拶できないことをお許しください。目は見えますし、耳は聞こえますが。」
そして、かすかに微笑みを口の端に浮かべながらヴェネツィア大使は続けて、
「法王のおそばにお仕えするのに、これほど好都合な者もないかと存じますが。」
この女が、法王の様態を大使に伝えたくても、彼女は口がきけないし、もちろん字も書けないだろう。外部に漏れる心配はない。フィリップは願ってもない話だと思い、さっそく秘書官長にこの話を伝えました。
フィリップは実際にマリアンヌを見たことがなかったのです。
一方、カルロスの屋敷では、ソフィーへの見舞いの件で、エレノアはうれしい驚きに包まれていました。
「私も、ご一緒させていただけるのですか? カルロス殿」
「もちろんです。エレノア殿。あなたはジャンカルロ殿の母上なのですから。ここだけの話ですが、皇帝陛下もいらっしゃるかもしれません。私もマリアエレナも、それにエドモン殿も一緒ですよ。彼は護衛の役目も仰せつかっていますから。」
「では、フランソワも?」
「それはジャンカルロ殿が決めることですね。ソフィー殿の父上は、早くに戦死しておりますから、ジャンカルロ殿の父上がいなくても、あまり気にすることはありません。それにあなたとしては、お気がすすまないでしょう?」
ジャンカルロとしては、エレノアへの気遣いよりも、今やソフィーへの気遣いから、フランソワを招待することはしませんでした。もちろん表向きには、エレノアのために、ということでしたが。
エレノアは、最近では、周りのみんなが、自分がエドモンと一緒になることを望んでいるのではないかと思うことさえありました。法王か、高位聖職者の私生児ということを公表すれば、そもそも婚姻が成立しなかったということでフランソワと正式離婚できるが、同時にエドモンと正式に結婚することもできなくなる。公表しないままでは、フランソワと離婚することは難しいが、彼の愛人の存在がこれだけ世間に知られて、同情されているのなら、エドモンと暮らしはじめることを許されるかもしれない。領主夫人でもなく、母でもなく、恋する女として、エレノアは一人あれこれと考えていた。それに皇帝が、そう陛下が認めてくだされば、堂々とエドモンと暮らすことができる。エドモンも招待されているということは、もしかして、お願いするチャンスなのではないかしら?
このとき、エレノアは、自分の預かり知らぬところで、運命の糸が、また複雑に絡みつつあるのことを知るよしもなかったのです。




