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第八章

※ この話に様々な性的志向を否定する意図はございません。

また後々そういったものをほのめかす描写が登場する可能性も大いにあります。しかしそれはあくまで物語上の演出のため、フィクションとしてご理解ください。


誤字確認はしましたが、それでも漏れはたくさんあると思います。ご指摘の程よろしくお願いします。

また、制作の都合上、タテ書きで作った文をそのまま貼り付けてあるので、改行等不自然なところがあるかもしれません。

 同じ週の土曜日。練習もなく、一人部屋で化粧品をためしていると、スマホに着信があったことに気が付いた。その差出主は長峰明日見さんだった。映画の一件でたまにこうしてLINEをくれるようになっていた。

『水瀬さん! 急にごめんね、明後日の月曜日って午後から空いてる?』

 いつものような脈絡もない連絡かと思ったがお誘いだった。

 週明けの月曜日。予定は毎日の緒方くんとの練習しかないし、内容によっては緒方くんとの練習の時間を早めたりして調整はできそうだ。

『うん。空いてるよ。どうかした?』

 この予定の聞き方はズルいなと思いながら続きを促した。別によっぽどのことを言われなければ断るつもりもなかったがやっぱりちょっとズルい。

 しばらくスマホを放置していると、意外と早く返事がきた。

『ほんと⁉ 月曜日渡したいものがあるから遊ばない?』

 渡したいもの? なんか唐突な話だな。

 にしても休日に遊びのお誘いがくるなんていつぶりだろう、少なくとも高校生になってからは初めてだし、中学生のころは色々あって誰とも遊んだりしていなかったし、下手したらものすごい久しぶりかもしれない。

 スマホを机に置いて、クローゼットを開ける。

 何着て行こう……


 〇 〇 〇


 月曜日。十時から始めたいつもの練習が終わった十一時、緒方くんが電車に乗って帰ったのを見てから、ボクは一度家に帰った。簡単に髪を整えて、汗を流してから今度は自転車ではなく歩いてもう一度駅へ向かった。

 

 長峰さんから遊びに誘われた翌日の日曜日の晩、「そう言えば水瀬さんってどこに住んでるの?」と唐突にLINEが届いた。

 何気なく家の最寄り駅を伝えると、文字を見ただけで驚いたことが分かる文面が届いた。

『えっ⁉ でも水瀬さんって自転車通学だよね⁉ 10kmはあるんじゃない⁉』

『うん。あるよ。毎朝漕いでる』

 もう慣れてきたが、改めて文面にするとその異常さが分かる。でも夏休み前なら一人で不貞腐れていたが、今はそれを克服するための練習をしている。成果こそまだまだ希薄だけど何もできないよりはよっぽどましだ。

 少しだけ間を開けてから、長峰さんから返事があった。

『だったら私迎えに行くよ。お母さんに車出してもらう』

『え? いや、悪いよ。自転車でだいたいいけるよ』

 ほんとに悪いと思うし、自転車で行こうとしている身で言うのもなんだが車でもそれなりに時間のかかるなかなか長い距離だ。さすがに来てもらうのは少し気が引けた。

『いいから! 今この時期にそんな距離自転車漕いでたら熱中症になっちゃうでしょ!』

 今まで熱中症になったことはないけれど、いつなってもおかしくはないし、そう言われたら断るに断りずらい。なにか菓子折りでも持っていくべきだろうか?

「ふっ」

 自分が長峰さんとのLINEの文面を見て笑っていることに気が付いたのはこの時だった。

 一瞬でも暇があれば、LINEを開いて長峰さんとのトークを開く。覚えているのに時刻を確認してしまったり、長峰さんの文面を何度も読み返したり、長峰さんとのやり取りを純粋に楽しんでいた。

 こんなに楽に話せるのは久しぶりだった。長峰さんに抱いていた罪悪感はたしかにまだある。もし明日会えたら、たとえ彼女が分かっていたとしても自分の口から言おうかとも思うほどだった。

「…………」

 もうそろそろ寝ようかと思った頃、前回映画で長峰さんと出会った時のことを思いだした。あの時のボクは長峰さんによくしてもらったのに、彼女の気遣いが辛くて逃げてしまった。好意を踏みにじるようなことをしたくせに、明日のことを楽しみにしていた。

 調子に乗ってるんじゃないか? と不安に思えた。

 それまでのお互いが抱いた映画の感想を言い合っている時とか、都合のいい記憶ばかりを思い出して楽しんでいた。ほんと都合のいいことこの上ない。

 でもだからってこの気持ちを押し殺して、辛気臭い顔で彼女に会うのも気が引けた。 

 だからこれは課題にすることにした。

 長峰さんにちゃんと謝って、自分の感情に整理をつけて、明日からはこれまで以上の友達となると。


 なんて昨晩考えて、長峰さんとの約束の時刻15分前に駅に着いた。今日二度目の駅舎に、一度も電車に乗ってないのにやけにお世話になっているなと感慨深い気持ちになる。ちなみに菓子折りは持ってきていない。昨日の今日で準備できるようなものでもなかった。

「あ、水瀬さーん!」

 どんな車で来るのかもわからなかったから、ロータリーに入る車全部を見送っていたのだが、その中の一台、白いアルファードから長峰さんが降りてきた。長峰さんは黒いTシャツに淡いブラウンの長い丈のスカート、靴は紺色のコンバースだった。

「おまたせ、待った?」

 たった数10mなのに、暑さもあってかボクのもとまで駆け寄ってくるだけで少し息が上がっていた。

「ううん。時間ぴったり」

「えへへ、じゃあ行こうか」

「う、うん」

 言われるがまま、彼女の背中を追う。しかしボクは当日になってもこれからどこへ行くのか聞かされていない。会ったら聞こうと思っていたのだが、長峰さんはすぐにアルファードの後部座席のスライドアを開けてしまった。車内で流れているミセスの「ロマンチシズム」と冷房の冷たい風が肌を撫でる。

「ささ、乗って」

 ドアと車内が広いことをいいことに、滑り込むように後部座席に乗り込んだ長峰さんが隣の空いてる席を叩く。

「お、お邪魔します」

「はーい、どうぞぉ」

 ボクがアルファードに乗り込むと、前の運転席からやわらかい声が聞こえる。昨日お母さんに迎えに来てもらうと言っていたから、今運転席に座っているのが長峰さんのお母さんだろう。第一印象、とてつもなく若い。まだ四十代に踏み入ってないように見える。それにめちゃくちゃ綺麗だった。服装は白Tにジーパンと簡単な組み合わせだけど、それがめちゃくちゃ映えて、スラッと伸びた脚に似合ってる。長く伸びた髪はポニーテールでまとめて、後部座席と運転席の距離から見て、全く化粧ムラがない。うー、なんか自分が恥ずかしくなってきた。

 そんな長峰さんのお母さんはボクのことをしばし見つめると、少し微笑んだ。

「……今日はよろしくね」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 なにをよろしくするのだろう? 結局なにをするつもりなのかは全く聞けてなかったが、お母さんは車のハザードランプを切って車を発進させた。

 人んちの車って、なんでこんな特別な感じがするんだろう。つけてる芳香剤もあるだろうし、小さな密室っていうのもあって、その家族の生活が凝縮しているように感じる。匂いや座席の感触、流れている曲にウィンカーの音、その全部が自分の家のものとは違って新鮮というか、大げさに言えば異世界に来てしまったような違和感がある。

「あの、長峰さん、今日ってこれから何するの?」

「ふふん、イイコト」

 キランと効果音が聞こえてきそうな発音とウィンクで長峰さんは楽しそうに言う。その反応にお母さんはため息をついているし、ボクもボクでどう反応したらいいのか分からずあたふたと視線を泳がせるだけだった。

「大丈夫。悪いことはしないし……ちょっとごめんね」

 嗜虐的に微笑んだかと思うと、隣に座っていた長峰さんは少しボクの方に乗り出して、留めてあった前髪に触れる。

「ッ――――⁉」

 突然のことに咄嗟に逃げるようにのけぞってしまった。すると向こうも予想外だったのか、驚いて目を見開いて、点になっている長峰さんと目が合ってしまった。

「ご、ごめん! 確認するべきだったね!」

「ううん! こっちこそ、ごめん。急に避けちゃって」

 さっそく二人の間に気まずい空気が流れてしまう。さっきよりも長峰さんとの距離が開いてしまったように感じた。

「……ううん。じゃあ、改めて、ちょっと髪触ってもいい?」

 しかし長峰さんは何かを振り絞るように提案してきた。

「は、はい。どうぞ」

 ボクは少しだけ長峰さんの方に腰をずらし、目を瞑る。すると何も見えない視界の奥で長峰さんが「そんなにビビらなくてもいいよ」とだけ軽く言って、ボクの前髪に触れた。

「……うん。やっぱりすごく柔らかくて、きめ細かい綺麗な髪……」

 ボクの前髪を指先でつまむように何度か触れた長峰さんは感動したように感想をつぶやく。髪の毛のことは詳しくないから、自分の髪質なんてあまり詳しく考えたこともない。ましてやこうして誰かに触れさせたこともそうない。自分も知らない自分のことを赤裸々にされるようでものすごく恥ずかしい。

 それにしても結構長い時間長峰さんはボクの前髪を触っていた。い、いい加減むず痒くなってきて薄めを開いた。

 すると目の前の視界いっぱいを埋めたのは、身を乗り出して集中した表情でボクの前髪に触れる長峰さんだった。ものすごく至近距離で、彼女の呼吸も肌で感じるほどの距離だった。

「あ、えっ――――」

 声にならない声が漏れ出ると、長峰さんもそれに気づいたのか、ペットボトル一本分の距離しかないほどの至近距離で目が合う。

「うわっ! ご、ごめんなさい!」

 今度は長峰さんがのけぞるように逃げてしまって、開いた二人の距離の間に微妙な空気が流れる。

「……あ、えっと、ごめん」

「ううん、こっちこそ……」

「何いちゃついてんのよ」

 すると運転席から長峰さんのお母さんの辟易した声が聞こえる。その一声で我に返ったか、長峰さんは「い、いちゃついてないし!」と大きな声で否定した。

 長峰さんがお母さんと話している間、ボクは長峰さんが触れた前髪をもう一度自分でも触れてみる。人に髪なんて触られたことないし、自分でも触ったことないし違いなんてよく分からなかったが、ボクの髪はきめ細かくやわらかいらしい。それが固い髪質と具体的に何が違うのかはよく分からないけれど、そう分かっただけで自分の髪がさらに自分のものになったような感覚があった。いい加減伸びてきてどうしたらいいのか分からなかった髪が、少し愛しく思えた。


 〇 〇 〇


「さ、着いたよ」

 アルファードが慣れた手つきでバック駐車をすると、長峰さんは我慢できないという様子ですぐに車を降りた。

「あの、ありがとうございます」

「いいえ」

 お母さんにお礼を言ってから車を降りる。駐車場というよりはどこか倉庫のような場所で、家の玄関も直接ついていて、少しこじんまりしているような印象を抱いたが、ここに来るまでにここが「裏口」であることは分かっていた。

「お邪魔します」

 玄関を通ると、長い廊下とすぐ隣に階段があり長峰さんは「こっちこっち」と手招きしていた。言われるがまま階段を上ると、そこは住居スペースになっていて生活感であふれていた。

「ここが私の部屋」

「お、お邪魔します」

 部屋はボクの六畳の部屋よりも一回り程大きな部屋で、真ん中に丸いローテーブルと座布団、壁と一体化した大きなクローゼットと部屋のテイストにあいつつも、ボクの家にもある学校指定の教科書が並んで生活感が感じられる白い学習机、大きなぬいぐるみが置かれたベッドと、とても可愛らしい部屋だった。

「ごめんね散らかってて」

 そんな風には思わなかったけれど、長峰さんは何かに気付いたのかローテーブルの上に置かれた茶封筒を咄嗟に机の引き出しにしまった。

「いや気にならないよ……綺麗な部屋」

「えへへ、そうかな」

 これは彼女に言わなかったけど、この部屋はとてもいい匂いがした。

 それはいくら消臭剤を焚こうとも消えない、「女の子が住んでいる部屋」の匂いだった。ルームフレグランスの匂いでもない、何年もいるその人独特の染み付いた匂い。当人は毎日いるから絶対に気付かないけれど、ふと訪れた他人だから分かるその人独特の部屋の匂いは、この部屋は女の子の部屋だと、うるさく主張していた。

 多分長峰さんがボクの部屋に来てもこんな風には感じ取らないんだろうなと、見当違いな想いを巡らす。

「準備があるから、ちょっと待っててね。テキトーに座ってて」

「え? う、うん」

 それだけ言い残して、長峰さんは部屋から出て行ってしまった。

 初めて訪れる女の子の部屋に一人取り残されて、どうすればいいのか分からなくて言われた通り、真ん中に置かれたフワフワの座布団に正座で腰を下ろす。

 つい、座布団の座り心地を確かめるように何度も座りなおしてしまって、正直落ち着かない。

 さっきも言った女の子の匂いだろうか、この空気感の中、一人放置されるとどうしても異物感がぬぐえない。そりゃ、他人の部屋なんだから当たり前なんだけど、なんというかそれ以前の問題な気がした。部屋に招かれるほどの関係のはずなのに、招かれざる別ジャンルの人間だと、部屋から嫌悪されているような気すらする。

 考えすぎなのは分かってる。でも、長峰さんはある種女の子として憧れのような人だからか、そういうのも強く感じ取ってしまう。

 自分の気持ちに整理をつけようとしているはずなのに、よりかき乱されてる感じがする。

(……窓、開けたら怒られるかな……)

「おまたせ!」

 階段をドタドタ駆け上がる音が聞こえて間もなく、長峰さんは部屋に戻ってきた。

「荷物おいて下まで来てもらえる?」

「あ、うん」

 言われるがまま、スマホだけポケットに入れて長峰さんについて行く。

 階段を下りている最中、どこか長峰さんの雰囲気はさっきまでの楽しい雰囲気よりも少し緊張している素振りが見えた。声が妙に高かったり、意味もなく両手をぽきぽきならしてみたり、そう言う仕草が目立った。

 一階に戻り、玄関とは逆の方向に進むとそちらの突き当りにも扉があり、そちらを開く。

 扉を開けた瞬間、うっすらと家中に漂っていた甘い香りの正体が分かった。とても清潔に保たれている〝店内〟には明るすぎない照明が焚かれて、整髪剤の匂いがうっすらと鼻をついていた。

 長峰さんは近くのハンガーにかけられたエプロンを着ると、振り向きざまに言った。


「いらっしゃいませ。Hear salon morgenへ!」


 長峰さんの家は、美容室を経営していた。

「すごい、長峰さんの家って美容室だったんだ……」

 はたから見てもすごく整った白と黒を基調とした建物に車が停まった時になんとなく察しはついていたが、まさか本当に美容室だったとわ……なんか、妙にソワソワしてしまう。

「うん。まだみんなには言ってないんだけど、何も言わなくてもバレちゃうのもそろそろ時間の問題だとは思ってる」

 みんなには言ってないんだ。じゃあ、ボクにはなんで?

「それと、もう一つ」

「なに?」

「ちょっと早いけど、お誕生日おめでとう」

「あっ……」

 今日は七月三十一日の月曜日。ボクの誕生日である八月二日まではあと二日あるが、確かにもうすぐ誕生日だ。教えたつもりはなかったし、そんな祝われるなんて思いもしなかったから思わず茫然とした声が出てしまった。

「あ、ありがと。驚いた」

「じゃ、ということでこちらにどうぞ」

 そうして彼女が手招く方を見ると、そこはシャンプーをするための半個室になっているブースだった。

「ん? どういうこと?」

「美容室に来てすることなんて一つでしょ?」

 長峰さんはニコニコしながら当然のように言ってのける。たしかに一つしか思いつかないけれど……え? じゃあボクは今から……


 〇 〇 〇


「お顔失礼しますねー」

「は、はいっ」

 椅子のお尻の部分が上がり、背もたれが倒れて視線が天井に向く。すると水道から出る水の温度を確かめるためにお湯を出している長峰さんと目が合う。それに長峰さんも気づいたのか、「えへへ」と笑った。たしかにお互い知り合いの表情をこんな角度で窺う事は初めてだったろう。長峰さんがタオルをボクの顔にかけて、視界が全体的に真っ白になる。布の奥にうっすらと照明が見える状況でゆっくりと眼を瞑る。

「あ、前髪留めてるヘアピンとっちゃうね」

「う、うん。お願い」

 垂れた前髪を留めていたヘアピンを長峰さんに外してもらう。

 頭にお湯がかかったかと思うと、長峰さんが手でボクの髪をとかしてくれた。いつもは触られるのも嫌なのに、今は全くそんな感じしなくて、ただただ気持ちよかった。

「湯加減大丈夫ですか?」

「あ、はい。大丈夫です」

 ほんとはもっと温かくてもいいんだけど、反射的にそう答えてしまう。こういう時、NOってなかなか言えないよな。

 しばらく長峰さんはまるで自分の髪のように大事に、丁寧にボクの髪を解きほぐしてくれた。

 長峰さんはシャンプーのついた手でボクの髪を洗い始めた。長峰さんは時より力を込めながらボクの髪、頭皮を洗ってくれて、ものすごく気持ちよかったのもあるが、それよりも仲のいい友達にもなかなか触れさせない頭をこんな風に洗ってもらえて、なんか妙な気分もあった。フケとか大丈夫かな? シャンプーで洗ってるし、分からないか。

「うぅ……///」

「お痒い所ございませんか?」

「だ、だいじょうぶです」

 これ逆にあった時なんて説明するんだろう?

「…………今日はね、謝りたかったの」

 すると、突然手が止まったかと思うと長峰さんは脈絡もなくそう言った。

「えっ?」

 何も意味が分からなくて、ボクは目許にかかったタオル越しに目を開けることしかできなかった。

「……夏休みが始まる少し前にさ、体育祭の種目決めで星名っ……吉村が水瀬さんにひどいこと言ったじゃん」

「……あ」

 体育祭の種目決めで、男女で差が出るところがあるからそこでボクみたいな奴がいると不正になるからハッキリさせろと、吉村さんが言っていたことだろう。たしかにあれはキツかったけど、あれは、いつかああなるとは思ってたし、むしろ長く耐えた方だとはおもってるから、今更何も……

「それで、私は止められる立場だったのに、何も言えなかった」

「……っ」

 長峰さんが弱々しい声でそう言ったのを聞いて、ボクは言わなきゃいけないことがあったはずなのに、何も言えなかった。

「ごめん、こんな時にこんな話して」

 無理やりあっけらかんとした軽い口調を装った長峰さんが蛇口をひねり、もう一つ別の洗髪料をつけて頭を洗ってくれた。その間、タオルで何も見えなかったが、声音から長峰さんが泣きそうな表情をしているであろうことは分かった。

「今もね、水瀬さんの目が見えないからこんな話できてるんだ。目を見て話す勇気がないから……」

「…………」

 ボクだってそうだ。長峰さんにはたくさん言わなきゃいけないことがあるはずなのに、それをこの期に及んでまだ言えないでいる。今のボクに彼女をとやかく言える権利はない。

 時よりズズッと鼻をすする音が聞こえてきたが、長峰さんは必死に勉強したであろうやり方で誠心誠意ボクの髪を洗ってくれていて、今この瞬間にボクは何も言えなかった。

 二度目のシャンプーが終わり、長峰さんがお湯で髪をすすいでくれているのが分かる。

「はい! 終わり! ドライヤーするから背もたれ上げるね」

 しばらくすると、髪を拭いてくれた長峰さんが明るくそう言った。もう鼻もすすっていない。

 しかし、少し待っても背もたれが上がる様子もなければ、顔のタオルを取ってくれる素振りもなかった。あ、タオルは自分で取る感じなのかな? さすがにタオルまで取ってもらうのは厚かましすぎるか。

 なんて思ってタオルを自分で取ろうとした瞬間、タオル越しにコツンとおでこに何かが当たったのを感じた。


「……ごめんなさい」


 誠心誠意、心のこもった謝罪が聞こえてきた。

「あの時、助けられなくて、ごめんなさい」

 彼女なりに後悔していたのだろう。その気持ちがひしひしと伝わってくる。

 吉村さんがボクを糾弾したとき、教室の空気もすごく重たかったし、ボクだけじゃなくて彼女もすごく怖かったはずだ。そんな長峰さんの気持ちを直に感じられて、ボクは少しうれしかった。

 結果はどうであれ、彼女がボクのことを思ってくれていたのは変わらない。

 彼女がそう思ってくれていたのが今はただうれしかった。

「ううん。気にしないで」

 顔にかかっていたタオルを少し下げて目を見開いた。

 すごく不安そうな顔をした長峰さんが視界に飛び込んできた。ボクは彼女から目線をそらさずしっかりと彼女と目を合わせて思っていることを口にした。

「ボクはだいじょうぶだから。長峰さんも、そんなに思いつめないで」

「……でも」

「こんなこと言っても気休めにもならないだろうけど、後悔してくれているだけでボクはうれしいんだ。……緒方くんもだけど、〝こうなってから〟今までお父さん以外に親身にされなかったから、ボクのことを思ってくれるだけでうれしいんだ。ほんとだよ?」

「それだけじゃ、私が納得できない」

「……じゃあ、お願いがある」

 ボクは満を持して、今ひしひしと感じている気持ちを口にする。


「長峰さんが美容師になれたら、ボクの髪を切ってください」


「っ……⁉」

 長峰さんの手つき、到底素人のそれじゃなかった。長峰さんが努力して上手になっていることは彼女の技術と使い込まれたエプロンを見ればすぐに分かった。彼女が、母親の背中を追っていることも。

 だから、もし彼女が将来免許を取ったら、その時はボクの髪も切ってほしい。今日みたいにシャンプーだけじゃなくて、女の命とも言われている髪を、彼女に託したいと思った。

「だからそれまでは……こんなボクですけど、これまで通り仲良くしてくれると、うれしい、です」

 この夏休み、彼女は時より連絡をくれた。何かおもしろい動画を見つけた時とか、面白い漫画を見つけただとか、そんなことをたまに連絡してきてくれた。夏休み、緒方くん以外誰とも話せない生活が続いていた中で、長峰さんからの着信があるとやはりうれしかった。長峰さんがボクのことを認めて、思ってくれていることは知っていたから、それもうれしくて彼女とはもっと仲良くなれたらいいなと、常々思っていた。

 そういう思いを込めて言った言葉だったが、それを聞いて長峰さんはまるで花が咲いたように嬉しそうに笑うと、少し潤んだ両目を手の甲で雑に拭うと、「うん、うんっ!」と二度肯定した。

「じゃあ、私が上手になるまで、一緒にいよう――――あおいちゃん」

「うん。こちらこそ――――明日見ちゃん」

 なんてお互いの気持ちを確かめるように名前を呼びあったりなんかしてしまった。

なんか自分でも不器用すぎて、すごくむず痒い。将来思いだして恥ずかしさに顔を覆いながら笑っている自分が想像できる。

 ただ、今までもそういういわゆる「黒歴史」になると後悔したことはあれど、それを思いだしているときの自分の隣に、誰かがいることを想像できるのはこの時が初めてだった。


 〇 〇 〇


 美容師として髪を切るのには国家資格が必要だ。そしてそれを高校生で取得するのはもちろん不可能。だから明日見ちゃんができるのは髪を洗って、ドライヤーをかけるところまで。ここからは彼女のお母さんと交代だ。

「お母さん! ほんと頼むよ!」

「わかってるわよ、あんたあたしのこと誰だと思ってんのさ!」

 なんて話が鏡越しの背後から聞こえてくるが、すでに椅子に腰かけて散髪ケープを羽織っている自分にできることはなく、目のやり場に困りながら店の内装を観察していると、明日見ちゃんのお母さんがこちらにやってきた。

「じゃあ、はじめましょうか」

「よ、よろしくお願いします」

 明日見ちゃんのお母さんはエプロンから櫛を取り出して、ボクの髪の毛をときながら「何かしたい髪型とかある?」とフランクに尋ねてくれた。

「いや、あまりこだわりは……でも、短すぎなのは、嫌です」

「なるほど、OK」

 長峰さんのお母さんは五指で頭の形をみたりしてから、あらかた決まったのか、鏡越しにボクのことを見て言った。

「髪はこれからも伸ばしたい感じ?」

「あ、はい」

「……了解。でも、毛先がよく見たらガタガタだから整えさせてもらうね。あと、前髪はどうしよう?」

「えっと、目にかかるようになってきたので、切ってもらってもいいですか?」

「わかった。若干整える感じでいくね」

「はい。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしく」

 そういうとエプロンからハサミを取り出して、チョキチョキと本格的にハサミを入れ始めた。

 髪はずっと切りたかった。とくに前髪は結構伸びてきて鬱陶しかったし、夏場で汗ばむし頭がずっしり重たく感じることもあった。だけど、美容師さんにボクのことをなんと説明すればいいのか分からなくてずっと躊躇してしまっていた。

 そんな時に長峰さんに誘われて、何事かと思ったけれどまさか髪を切ってもらえるなんて思ってもみなかった。

「あの、今日はありがとうございます。月曜日ですし、お休みですよね?」

「そうだね。定休日だけど、だから明日見も今日にしたんだと思う。他のお客さんもいないし、私の手も空いてるし。それに、シャンプーも自分でやりたかったんでしょ? まだまだ見習いなのに」

「そうなんですか……」

「でも、明日見がわざわざそこまでするのは驚いたな。こんなの初めてだよ」

 なんてお母さんは迷惑がるような口調で、だけどどこか嬉しそうにも聞こえてほころんだ表情がとても印象的だった。

 しかし、そこでハサミを使う手が止まったのが見えた。

「……あのね、気を悪くしたらごめんなさいなんだけど」

「はい」

「意味わかんないかもしれないけど……あおいさんって、もしかして、男の子だよね?」

「ッ……⁉」

 お母さんからの突然の質問に、思わず肩が震えた。ちゃんと質問する前にハサミは頭から離していてなんともなかったけれど、一瞬だったのにも関わらず心臓をギュッと握られたような衝撃があった。

「ごめんなさい、悪気があったわけじゃないの。ただ、そこの認識はすり合わせておかないとダメな気がして……ほら、一応髪の毛を扱ってるわけだし」

「そう、ですよね……」

 ぐうの音も出ない正論に思わず乾いた笑みがこぼれる。

 今日は明日見ちゃんにもちゃんと自分の口で伝えるつもりだったし、今更躊躇するのもおかしな話だと思い、小さく呼吸を整えて鏡越しにではあるけれどお母さんの方を見た。

「はい。身体の性別は、男性です」

「そうなのね。うん、わかった」

「ごめんなさい、騙すつもりはなかったんです」

「わかってるよ。こんな友達の母親でしかないおばさん騙してもいいことないしね」

 なんてケラケラ笑っているとけれど、その冗談、こっちはなんて返せばいいのかほんとに分からないからやめてほしい。そんな風に邪見にした傍ら、明日見ちゃんのたまに返しに困る文言はこの人譲りだったのかと腑に落ちたところもあった。

「でも、その方がやりがいはあるね」

「えっ?」

「かわいくなりたいんでしょ?」

「っ……」

「私にできることは、お客さんのことをかっこよくなりたかったり、かわいくなりたいひとの手伝いをすることだけ。どれだけ髪を繕っても、その気がない人はそれなりにしかなれないけど……あおいさんは、そうじゃないでしょ? 今のあおいさんは、誰よりもかわいくなりたいと思ってる。ちがう?」

「そ、それはもちろん! ちがわないです」

 かわいくなりたいかという質問にNOと答える理由はなかった。

 ボクが少し大きな声で返事してしまったからか、明日見ちゃんのお母さんは満足そうに微笑んで続けた。

「だったらね? 私はあおいさんがどんなふうにかわいくなるのか見てみたい。そして、そのお手伝いをさせてほしい。いい?」

「も、もちろん。むしろボクの方からも、お願いします」

「よし来た。まかせて」

 ボクの返事を聞いて、明日見ちゃんのお母さんのハサミはさらに軽快になった。自信と経験からなるそのハサミの動きはすごく気持ちよかった。

 わざわざそんな風に聞いてくる人は初めてだった。ボクのことを見て勘繰る人はいてもセンシティブな話だし、踏み込んでくる人は初めてだった。もちろん言った通りボクの髪を扱っているんだし、意志のすり合わせは確かに大事だったと思う。むしろボクの方から言わなかったのも、今髪を切ってくれている一人のプロに失礼だったとすら思う。

 ボクのことを確認してくれた上で、自身の境遇も交えた本心の誘導はとても鮮やかだった。

「ねぇねぇねぇ、ちょっと聞きたいんだけどさ、明日見って学校じゃどんな感じなの?」

 しかし今度は打って変わって、まるで他校の友達の様子を聞く女子高生みたいに、ワクワクした期待に満ちた声音でそう尋ねてきた。このお母さん、見た目もすごく若々しいけれど、言動まですごく若々しい。というか、多分実際若い。

「どんな感じって言われましても……うーん……クラスの中心って感じですかね?」

「中心?」

「室長とかやってくれてますし、クラスでも明るい子達のグループにいますし、他クラスの子達とも積極的に交流を図ろうとしてる、真面目な子って感じですかね」

「へぇ、なんか家とはずいぶん印象が違うな」

 明日見ちゃんのお母さんは決してハサミこそ止めなかったが、声色から本当に驚き、動揺すらしているのがなんとなく分かった。家と学校での印象が違うことなんてよくある事だと思うが、お母さんにはそれが引っかかったのか、あまりいいようにとらえていないようだった。

「あおいさんからみてさ、その明日見はどう? 楽しそう?」

「ボクから見て、ですか?」

 その質問は少し消極的な、自分の不安を解消させるための質問のように感じた。

 改めて学校での明日見ちゃんの様子を思い出してみる。

「楽しそうですよ。あ、でもたまに……ちょっとしんどそうです」

 ほんとはそんなことをわざわざ言うべきだったか悩んだが、さっきの髪を洗ってくれた時に謝ってくれた明日見ちゃんはやっぱり何か胸の内に色々抱えていて、すごく苦しそうだった。だからこそボクにきちんと吐き出せて安心していた。

「そうだろうね。でも、あの子が自分でやったことなんでしょ?」

「室長は自分で立候補してました」

「そ。じゃあ、応援してあげるだけだね」

 応援、か。明日見ちゃんのお母さんの言う応援は明日見ちゃんの学校生活のこともだろうが多分彼女が目指す美容師という道のことも含まれているように聞こえた。

 彼女が願う将来と、ボクの願いを同じにするわけではないけれど、こうして家族に応援されるのがどれだけ頼もしいか、ボクは羨む気持ちを抱きながら思いをはせた。

「そうですね」

「まぁでも腕はまだまだだけどね!」

 空気がしんみりしてきたのを感じ取ったか、大きな声でその湿っぽい空気を吹き飛ばした。

 そういう気遣いじゃないけれど、周りの空気の舵を握っているのは明日見さんっぽい雰囲気を感じた。それから明日見ちゃんのお母さんは極力暗い話題にならないように、ボクが今この一瞬だけは本当に女の子でいられるように意識してくれていたのか華が咲くような煌びやかな話題が続いて、ただただ心地よかった。


 〇 〇 〇


 ケープをとって、少し服についた毛を小箒ではらいのけると、お母さんは「はい、おしまい」とまるで読み聞かせていた絵本をたたむように優しく言った。

 ボクは立ち上がらず、さっき確認させてもらったのにも関わらず椅子から乗り出して鏡でもう一度自分の髪を確認する。

「……ありがとうございます。ほんと、ほんとに……」

「ああ、泣かないで泣かないで。それに、感謝ならあたしじゃなくて明日見に言ってあげて。そっちのほうが喜ぶから。あたしはかわいくなったあおいさんが見れて満足だから」

「っ……!」

 その言葉でより涙腺が刺激されてしまった。

 鏡に映る自分がほんとにボクなのか、疑心暗鬼になるほどの変わりように感涙も禁じ得ない今、その感涙を必死に堪え、精一杯お母さんに感謝を伝えた。明日見ちゃんのお母さんは満足そうに笑うと、「ほら、明日見に見せてあげな」と笑いながら言ってくれた。

 最後にもう一度頭を下げて感謝を伝えると、ボクは裏口の方へ向かい、階段を上り明日見ちゃんがいるであろう部屋の前に立った。

 今この部屋の奥にいるのは、ボクにこうなる機会を与えてくれた人。あまつさえお金まで自分のバイト代をはたいて払ってくれた人で、どう感謝を伝えればいいのかまだ分からなかったけれど、今はそれよりも、早く今のボクを彼女に見てほしかった。

 部屋の扉を二度ノックして、「明日見ちゃん?」と扉に向かって確かめるように問いかける。

 すると部屋の奥からすぐに「はーい!」と大きな声で返事があった。

「あ、開けるね?」

 そう言ってからドアノブを捻り、扉を開ける。

 ヒンヤリと冷房で冷えた部屋で、明日見ちゃんは部屋の真ん中のローテーブルでさっきまで読んでいたのだろう雑誌を広げているが、部屋に入る直前には目線があった。

「ど、どうかn」

「えええぇぇぇ!! めっちゃかわいいいいぃい!!!」

 明日見ちゃんはほとんど奇声に近いような絶叫するような声音で叫ぶと、飛ぶようにボクの方に駆け寄り、お互いの息遣いが分かるような距離間で、ボクの毛先を指で触れた。

「すごい! ちょっと巻いてもらったんだ⁉ たしかに毛先整えるだけじゃ味気ないもんね、遊ばせてもいいかも! 前髪も綺麗になってるし……」

 興奮冷めやらぬ明日見ちゃんがボクの前髪に触れたところで明日見ちゃんは二人の顔の近さに気付いたのかピタリと動きを止めると、交通事故のように視線同士が至近距離でぶつかり、今度はお互い同じ極の磁石のように反発して距離を取った。

「ごめんごめんごめん! ちょっと興奮して!」

「いいや、こっちこそ! 驚きすぎた……」

「それはこっちもだよ、っていうかほんとにかわいくなったね」

 落ち着いたであろう明日見ちゃんだけど、口にする言葉はそれまでと同じだった。

 ボクの肩口まで無造作に伸びていた髪は毛先を中心に整えられて、毛先が肩口につくことはなくなったが、その代わりに毛先が今は踊っていた。お母さんが嬉々とした様子でヘアアイロンを取り出した時は何が起こるのかと不安ではあったが、それは杞憂に終わった。カールのかかった毛先はまるでそれまで潜めていたなりをここにきて存分にさらけ出すように楽しそうに踊っていた。今でも触れるたびにふわふわと、自分の髪とは思えない感触が手のひらに優しく乗っている。

 前髪も目許までかかってしまっていたが、失敗例が多すぎて自分じゃ切る勇気がなくて、ヘアピンで止めていたが、今ではそれまで以上に綺麗に整えられてカットされていた。

 素人のボクからしてもすごく上手に切ってもらったことは分かる。

 ただ、ボクがそう思うのは今の髪型がすごくかわいくて、すごく気に入っているからだけど明日見ちゃんの場合は違う。かわいいことは当然としてもっと技術的なところで感心しているように見えた。

「いや、ほんとにかわいい……素材がいいからかな?」

「え? あ、いやぁ、えっと……」

 彼女の言う素材という言葉の意味はさすがに分かる。分かるからこそ何も言えずに視線だけ泳がせてしまう。

「はははっ、一々反応までかわいいんだから」

「うぅ……」

 恥ずかしさから逃げるように頬を赤らめながらうつむいてしまったのが逆に悪かったみたいだ。明日見ちゃんはそんなボクを見て、クスクスとご満悦そうに笑って、ローテーブルに添えられた座布団を二度優しくたたいた。

 彼女が座ったのを見て、ボクもたたかれた座布団に腰を下ろした。

「今日はほんとに何から何まで、ありがとう……ほんとにうれしかった」

 ボクは明日見ちゃんの方を見てちゃんとお礼を口にした。

「まさか誕生日にこんないいものもらえるなんて思わなかった……ほんと、なんて言えばいいのかっ……」

 髪を切ってもらった直後もそうだったけれど、また自然と両目に涙が溜まってきて、それに合わせて鼻もぐずついて声も小さくなっていった。

「ああぁ、泣かないで泣かないで! こっちまで悲しくなるから!」

「違うの」

 ボクは思わず顔を左右に大きく振って否定してしまった。

「明日見ちゃんに言わないといけないことがある」

「え?」


「明日見ちゃんは知ってるかどうかわかんないけど、ボク、こんな格好してるけど、男なんだ」


 今にも泣きそうな言葉を必死につなぎとめて、やっと彼女の前で言えた。

 それを聞いて、明日見ちゃんはボクが男であること以前に、それを口にしたことに驚いていた。

「ごめん……騙してた」

 お母さんには騙してないと言ったが、どうしても明日見ちゃんにはそう言えなかった。結果的に騙していたとかそういうことじゃなくて、ボクの心に一瞬でも騙してしまったと罪悪感を抱いてしまった時点で、それはもう騙していたこととなんら変わらない。

 だからあえてそう言うと、明日見ちゃんはまた首をぶんぶん左右に振った。

「違う。騙されたなんて思ってない」

 明日見ちゃんのはっきりとした否定に、ボクはすごく心が軽くなった。今日この瞬間まで抱えていた罪悪感が一気になくなった気がした。

「ありがとう……そう言ってもらえるだけで、すごくうれしい」

 これでやっと言えた。もう明日見ちゃんに嘘をつくことはない。

 だけど、ボクが今言いたかったのはそのことじゃない。

 もう一つ、あまりいい思い出じゃないから、口にしたくなかったことを口にした。

「ボクね、一回この格好で…………痴漢に遭ったんだ」

「ッ……⁉ それはっ」

「その時ね、怖かったのはもちろんだけど、それまで受けたどんな言葉や仕打ちよりも、ボクのことを否定しているように思えて、ほんとに嫌だった。知らない人に自分がしていることを全部否定されるって、こんなに辛いって知らなくて、もうぐちゃぐちゃに壊れちゃって」

「分かった、分かってるから、もう何も言わないで」

 しかし今度は明日見ちゃんの方が泣きそうになっていた。なにも友達の泣き顔が見たくてこんな話をしているわけじゃないのだが、そう引き下がるわけにもいかないんだ。

「ボクのこの姿での生活は否定され続けっぱなしだった。だけど明日見ちゃんや緒方くんみたいに肯定してくれる人がいて、それだけでも贅沢だって思ってた。でも、今日のプレゼントはその気持ちをちゃんと……形にしてくれたものだと思ってる……」

 そう、ボクはなんども形が崩れないように綿のように軽い自慢の髪を触りながら明日見ちゃんと話す。

 痴漢に遭ったあの日、あの日傷付けられた女の子としての形が、今日初めて第三者の手によって形としてボクの身体が女の子に近づいたのは初めてだった。しかもそれはボクが何か言ったからではなく、第三者……いや、長峰明日見ちゃん個人の意思で、行われたサプライズによるものでこの行為がどれだけうれしかったか、多分明日見ちゃんは分からない。

 ボクにとって痴漢がどれだけ怖かったか誰も分からないように、明日見ちゃんのサプライズがどれだけうれしかったかもわからないんだ。

 でもそれはやっぱり悲しかった。だから精一杯、ボクにできるだけの手段で、気持ちを伝えたかった。


「だからなんどでも言う――――ありがとう、明日見ちゃん。ボクなんかのことを、想ってくれて――――それと、ごめんなさい。今日までだましてて」


 ボクがそう言うと、明日見ちゃんもガマンしていたのか、両目が少し潤んでいた。

 だけど彼女は自分の目元を必死に拭い、鼻を鳴らしながらこちらを見て、

「うん、うんっ! だいじょうぶだよ」

 と、ボクのことを励ますように言った。


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