第六章
※ この話に様々な性的志向を否定する意図はございません。
また後々そういったものをほのめかす描写が登場する可能性も大いにあります。しかしそれはあくまで物語上の演出のため、フィクションとしてご理解ください。
誤字確認はしましたが、それでも漏れはたくさんあると思います。ご指摘の程よろしくお願いします。
また、制作の都合上、タテ書きで作った文をそのまま貼り付けてあるので、改行等不自然なところがあるかもしれません。
「……持って帰ってきちゃった」
一時間もホームにいたのに、結局電車に乗らず改札を抜けたボクに奇異な目を向ける駅員さんから逃げるように改札を抜けて、日焼け止めを塗った素顔を日に焼かれながら、トボトボと弱々しい足取りで駐輪場へ向かう。
到着した駐輪場で、手にしていたお茶のペットボトルを自転車の前かごにほとんど無意識にポイッと投げたのだが、その時自分が緒方くんに買ってもらったお茶をそのまま持って帰ってきてしまっていることに気が付いた。
緒方くんが買ってくれた何の変哲もないお茶。ボクが口をつけたのだから返すわけにもいかないのだが、料金を返すとかいろいろあったはずなのにずっと手に持ったままだった。どうしよう……
にしても、結局ただ一時間、炎天下でぼーっとしただけだった。
一昨日自分一人でもできなかった時とは違い、罪悪感が湧いてきた。それもこれも分かっていたことなんだけど、実際に体感するとやっぱりどうもやるせない。
自分一人の時も思ったが、何か策はないものかともう一度考える。しかしやはりこうして泥臭く何度も当たるしか方法は思いつかなかった。アレルギーを持つ子が、あえてその製品を口にして徐々に身体をならすように、ボクも電車に乗れるように身体を〝元に戻す〟しかない。
悪者のボクはみんなが決めた普通になろうと身を削っていた。悪者であることをやめれば万事解決なのかもしれないが、それはボクじゃない。ボクは生粋の生まれ持っての悪だった。
初めて物語のヴィランの気持ちが分かった。彼らも、そうしないと生きていけないんだ。
ボクが悪者であることをやめれば生きていけないように。
〇 〇 〇
翌日。水瀬さんはホームで電車を前にして吐いて倒れた。
一時ホームは騒然となったが、俺と駅員さんで吐しゃ物を処理して、水瀬さんはエアコンの効いた駅員室に運ばれた。
俺と若い男性の駅員さんで吐しゃ物を処理し終えて、俺も駅員室に入れてもらうと、そこにはソファーに横になりタオルケットを羽織り、苦しそうに唸っている水瀬さんが見えた。
「その、大変ご迷惑をおかけしました」
「いえ、私たちは大丈夫なのですが」
駅員さんは心配そうな視線を水瀬さんに向ける。
「……君たち、昨日も同じ時間に来てたよね。それで、電車に乗らないで改札出て、何やってるの?」
胸の名札の肩書のところに「駅長」と書かれた中年の駅員さんからそう告げられて、俺はここで始めて認知されていたことに気が付いた。
「あー、えっと……」
俺は端的に水瀬さんが電車内で痴漢に遭って、それがトラウマで電車に乗れなくなってしまって、それを克服しようとしているという旨を伝えた。すると駅長さんは腕を組んで「うーん」と少し唸った。
「そういうことはほんとは他のお客様のご迷惑になるから、控えてほしいんだけど……」
たしかにごもっともだ。他の人も迷惑にならないように注意はしていたつもりだったが、今日みたいにゲロなんて吐いてしまったら大迷惑以外の何ものでもない。
でもだからって、俺たちが折れるわけにもいかない。まだ練習二日目で、今練習の場を失うのはまずい。でも今ここで、駅長さんを言い負かす言い訳も何も思いつかなかった。
「そ、そこを何とかお願いできないでしょうか?」
今日実際に迷惑をかけて、自分たちがどれだけ迷惑をかけているか分かった。定期を使っているのでお金も落としてないわけだし、駅員さんたちからしたらたまったものじゃないだろう。その駅員さんたちも駅長さんの返事を今か今かと興味津々な様子でこちらを見ていた。
「…………まあ、平日の他のお客様が少ない時間でしたら、目を瞑りましょう。痴漢に関しては我々も防犯が行き届いていなかったと反省するところではありますし」
駅長さんはしばらく考えたのちにそう承諾してくれた。
「ありがとうございます!」
「ただし、そう何度も今日みたいにまた汚されるとまた考え直させていただくこともありますので、そこだけお願いしますよ」
「はい! 本当にご迷惑をおかけします!」
俺は駅長さんに向かって頭を下げた。同じく水瀬さんのことを看てくれている女性の駅員さんにも、一緒に吐しゃ物を処理してくれた駅員さんにも、ここにいる全員に頭を下げた。
本当に感謝しかなかった。
「今日は彼女が元気になるまでもう少しここにいてあげてください。我々は仕事に戻りますので、また彼女が起きて、帰る時に一度声をかけてください」
そうして駅長さんの御厚意でもう少しだけ駅員室にいさせてもらうことになった。水瀬さんが横になっているソファーの隣に丸椅子を借りて水瀬さんが起きるのを待つ。
ちらりと覗いた表情は真っ青で、呼吸も浅かった。まるで悪夢にうなされているようで指先が少しだけ痙攣していた。それほどまでに電車という乗り物は彼女にとって強いトラウマをよみがえらせるものになってしまっているのだ。
今日は昨日とは違い、扉の前で足を踏み入れるまでには成長していた。
俺も心のどこかで、案外ケロッと乗れてしまうのではと楽観視してしまったがそんなに甘いものでもなかった。
「その子、大丈夫?」
ふと、水瀬さんのことを看てくれていた女性の駅員さんが話しかけてきてくれた。
「はい。さっきよりは落ち着きました。ただ、もう少しだけこうしててもいいですか?」
「そりゃもちろん。……でも、大変ね。一度電車に乗るだけでこんなになって」
その女性の駅員さんは心配するように水瀬さんのことを見つめると、同じ視線の高さまでしゃがみこんだ。
「私も痴漢で怖い思いをしたことはあるけど、ここまでなることはなかったな」
まぁ水瀬さんの場合、本当の身体は男な分けでそれがバレてしまう恐怖もあったのだろうが、それを今ここでいうわけにもいかない。
「まぁ感じ方は人それぞれだけど」
「あの、痴漢に遭った時、どうやって克服しましたか?」
そういえば実際にほかに痴漢に遭ったことのある人にこうして話を聞いたことは一度もなかった。何かヒントでも得られればいいと思ったのだがそう簡単にはいかなかった。
「えっと、私はここまで辛い思いはしなかったから」
駅員さんは苦笑いを浮かべた。それはそうだよな。水瀬さんが思い詰めている理由とほかの女性が感じた恐怖は少し違う。彼女の気持ちをわかる人は本当に一握りだと思う。
「でも、今日みたいに何度も乗れるようにトライするんじゃなくて、何か他の方法もありそうだけど」
「ほかの方法……」
「もしトラウマ、ストレスが原因なら電車から距離をとるのが最適解なんだろうけど、でも学生だし、通学にも使うものね」
「はい。だから今彼女、自転車で毎朝10㎞以上走ってますから」
「10㎞……」
女性の駅員さんは「あちゃー」とでも言いたげに頭を抱えていた。まぁそうだよな。そりゃそうなるよな。俺だって水瀬さんがどうすれば電車に乗れるようになるかを考えながら頭を抱えることもある。
「でも、こればっかりはどうしようもないことなんで。彼女が満足するまで、付き合います」
俺がそういうと、女性の駅員さんはどこか安心したように笑みを浮かべた。
「ふふっ、彼女のせめてもの幸運は、いいお友達を持ったことですね」
女性の駅員さんはそう屈託なく言ってのけた。
しかし俺はその言葉がいまいちピンとこなかった。
「お二人とも夏休みですよね? 貴重な夏休みに、わざわざ何もない駅にこうして付き合ってくれる人なんて、なかなかいませんよ」
たしかに、自分でももし部活に入って時間が取れなかったら無理だろうなとは思う。
でもそれは俺が、たまたま時間が空いていただけで俺自身がいい奴かどうかはまた別の問題だと思う。
「どうですかね……」
気が付けば吐き捨てるように言葉を発していた。
「俺なんてただここにいるだけで、結局まだ何の助けにもなれてない」
今はいた言葉は俺の心の弱さだ。水瀬さんがまた目の前で倒れてまだ二日目なのに自分の在り方に疑問を抱いてしまった。水瀬さんが電車に乗れるように自分も手助けをしたいという気持ちだけが先行して今目の前の状況に耐えられなくて心がずっとざわついていた。
「助けになってますよ」
すると、女性の駅員さんは俺の目を真っ直ぐ見つめてそう言った。
「今日は幸い大丈夫でしたけど、もし倒れた時にバランスを崩して線路に落ちてしまったら誰が彼女のことを支えるんですか」
その瞬間を想像して、思わず身の毛がよだった。たしかに今日はその場に膝から崩れ落ちるように倒れたからよかったが、姿勢を崩して線路の方へ倒れてしまう事も可能性としては十分にある。その時、そばに誰かいなければ最悪……
「っ……」
「ごめんなさい。怖い想像させちゃいましたね」
それまでの俺の危惧や考えをすべて吹き飛ばすような圧倒的恐怖が心をえぐるように根を張った。水瀬さんが独りで練習するのは話を聞いた時から怖かったけれど、その奥にあったもっと別の形の、フィクションの中にしかないと思っていた大きすぎる当たり前の概念を目の当たりにして、自分の浅はかさを思い知った。
考えもしなかった種類の恐怖が目の前にあって、それを飲み込むために俺は深呼吸をした。
「……いえ、ありがとうございます…………また明日からも、頑張ります」
「うん。駅長も許可しましたし、私も陰ながら応援してます」
女性の駅員さんはさっきと同じく、屈託のない笑みを浮かべて諭すように俺に言った。
ハットのように左右にも跳ねたつばのついた帽子をかぶり直すと、最後に水瀬さんの方に少し視線をやってから仕事へ戻っていった。
〇 〇 〇
「ご迷惑をおかけしました」
隣で水瀬さんが駅長さんに向かって頭を下げた。
「無理をなさらないでくださいね」
はい、と返事こそしたもののその駅長さんの言葉が水瀬さんの耳に届いたかは正直俺にも分からない。
水瀬さんは、それまで通りはいかないまでも復活すると、足早に駅員室を後にすることにした。駅長さんに挨拶をして、駅員室へ続く扉がしまり、電子ロックがかかる音が聞こえた。
「…………はぁ……」
隣から聞こえたのは深いため息だった。人混みは少ないとはいえ、それなりに往来する人達の喧騒をもってしても聞こえたその低いため息は水瀬さんのものとは思えなかった。項垂れるように目許を手のひらで覆い隠した水瀬さんに、俺は「帰ろう」と提案することしかできなかった。
「うん……」
水瀬さんは今にも泣きそうな顔を振って、鼻をズズッと鳴らしながら顔を上げた。
「じゃあ、また連絡する」
水瀬さんは真っ赤になった眼を俺に向けながら残ったものを振り絞るように微笑みを浮かべて去ろうとした。
「待って――――」
俺の元を去ろうとする水瀬さんを見て、俺は咄嗟に手を伸ばしてしまった。
「ッ⁉」
しかしそれがマズかった。水瀬さんは背後から迫る俺の手を思いっきりはじくと、こちらを振り向き数歩のけぞった。
「や、やめっ……あっ」
やめて、と水瀬さんの苦しそうな声。こちらを振り向いた時に見せた逼迫した余裕のない表情と両目から流れた涙を見てその意味を理解した。
「……ごめん」
俺は今日はもう飽きるほど味わった後悔と自分の愚かさをおかわりして水瀬さんに向けた手をひっこめた。
「っっ…………‼」
そして、水瀬さんは何も言わずに両目から涙をこぼしながら走って駅舎を後にした。
〇 〇 〇
「ああぁぁ…………‼‼」
今日のボクはダメだ。これまで何度も感じたはずの自分の不甲斐なさにまた身を焼いた。
自室で一人、ドアの背を預けながら伸びた前髪をむしるように掴み、せっかく練習した声色を台無しにするように喉をつぶしながら叫んだ。
男か女か、はたまたそのどちらでもない何かが六畳の部屋でのたうち回って唸っていた。つぶれそうな喉は、それまでの発声の練習がたたってか上手く叫べなかった。勝手にセーフティみたいなのがかかって腹の内に溜まった邪念すら外に出すことができなかった。
それから小一時間、夏なのにしっかり冷たいフローリングに頬をつけながら、涙も枯れきった目は部屋の何もないところをジッと見つめて止まっていた。
果てしない自分への嫌悪感と虚無感、緒方くんをはじめとするボクに関わってくれた人たちへの罪悪感、さらには結局電車には乗れずに失敗したという漠然とした結果がずっとボクの胸の内で渦を巻くように回っていた。
そばの実を引く石臼のように、じりじりとボクの心では負の感情が各々回り続けて確実にボクの心をすり減らしていた。
少し油断すると今日起こったことが頭の中で勝手にリフレインしてくる。
朝、いつものように起きて、駅へ向かった。
誰かと一緒にするってだけで心が軽かったのを覚えている。
昨日何もできなかったから今日はもう少し挑戦したいと告げると、彼は少し不安そうな顔をしてたっけ?
電車が到着して、扉の前に立ってみた。動悸が激しくなったけれど、まだ頑張れそうと自分の状況を見誤ってしまった。
気づいた時にはダメだった。あの日と同じような電車内の匂いにやられたか、夏場特有の蒸された空気がダメだったか、気づいた時には胃酸が逆流していた。
次の瞬間には冷房の効いた部屋で目が覚めて、緒方くんから説明を受けてただでさえ精神的に参っていた心が、他人に迷惑をかけたという事実に耐えられなくて、さらに締め付けられた。
そして極めつけは、そんなボクを心配してくれてた人の手があの日の臀部に触れてきた手に思えて、払いのけてッ――――
そこまで思い出して、身体のどこかに残っていた力を振り絞ってトイレまで駆けた。
「うっ……おえぇっ…………」
びちゃびちゃとほとんど水みたいな中身のない吐しゃ物が喉を逆流してくる。
喉が熱くて、胃がキリキリと痛い。本来しない動きをしているんだから当然か。全身に不快感が充満して口から垂れる唾液も拭わず、トイレで一人力なくよろける。
「……ははっ……あーあぁ…………」
精神的にも肉体的にももうとっくに限界で、立ち上がることもできないままいわゆる女の子座りみたいな状態で頭だけ壁に打ち付けた。ゴンという鈍い衝撃が頭の中で反復する。
緒方くんと練習を共にするようになったのはまだ二日目だが、それ以前に緒方くんと出会ってしまった日を合わせて四日、合計六日こんな当たっては砕ける反復作業をしている。どれだけ強いトラウマとストレスだろうと、もう六日、向き合っているんだ。いい加減いいだろうと、どこか楽観的に考えてしまっていた節もあったのだろう。
確実に積み上げていた六日という日数も、自分がではない。
ボクは終始中途半端な人間だ。遭った痴漢による傷も、何もかも舐め切っていた。別に自分に自信があったわけ
身体と性別のことは言わずもがな。さらに最近では、お母さんとの三者懇談の日を境に自分の存在そのものが悪いように思えてならなかった。小さいころから、悪は栄えないもので、みんなから疎まれて石を投げられるものだと信じ込んでいたから、今自分がその立場に立って、自分以外の人たちが立っている「普通」という立場を切望してしまった。
結果を焦りすぎた結果がこれだっただけだ。
我ながら傲慢だと思うのは、そう願いながらも自分の根源的なところは何も変えていないところだ。
もし仮に、今自分の願いを断ち切って、男として普通に戻ったら、もしかしたら電車にも案外コロッと乗れてしまうかもしれないし、クラスのみんなから少しの間奇異な目で見られた後、女の子として生きていた自分のことを自虐すればみんな笑ってくれるかもしれない。
そうじゃん、今は夏休みなんだ。肌を真っ黒に焼いてきたり、彼女彼氏を作ってくるような人たちがわんさかいるこの期間に、何か考えに進展があっても何ら不思議ではない。むしろボクの場合は正常ですらあるのか。
――――なんてことまで考えて、また悲しくなった。
洗面台で顔を洗い、自分の悲惨な顔を目の前の鏡で目の当たりにした。
どれだけ自分にメッキを貼り付けようが、やっぱりその奥にいるのは男の顔そのものでそんな顔をした自分が憎く疎ましかったけれど、今はそれ以前に憐みのようなものを抱いていた。
ただただ情けなくて、男として生きられず、女として生きていきたいという願いを抱いている自分が本当に情けなかった。
自室のベッドにもぐり、目を瞑った。
本当はスイッチを切るみたいに眠りたかったけれど、ずっと胸の内を回っている鬱々とした感情は叫べども吐こうとも消えてくれず、ずっとずっと、ずぅっと、頭の中でも煙のように漂い続けた。
それから眠りにたどり着けたのはさらに二時間後。それが最後に覚えている短針と長針の角度だった。
起きた時にはもうとっくに日は沈んでしまっていた。下の階からはテレビの音が漏れ聞こえている。多分、お父さんもお母さんも帰ってきたのだろう。そんなことにも気づかないほど熟睡できていたのかと思ったが、今まで自分がしていたものは、熟睡なのかはたまた気絶なのか分からないことに気が付いた。
どちらにせよ、吐き出すだけ吐き出して何も摂取してなかったので喉の渇きを覚えて部屋の扉をあけた。
すると、扉が何かにこつんと当たった感触があった。扉の裏に目をやると、そこには白いビニール袋が置かれていた。中を開いてみると、中には近所のお弁当屋さんのお弁当と、お茶が入っていた。
「えっ……」
誰が置いてくれたのか分からなかったし、冷めてしまってはいるが、温度ではない何かぬくもりのようなものは確かに感じた。ボクは一度自室へ戻ってそのお弁当を置いた。ペットボトルのお茶を開けて一口飲んで喉を潤してから、スマホに手を伸ばし、LINEを開いてお父さんにお礼の連絡をいれた。
ちなみに、時刻はもう二十時を回ろうとしていた。
『お弁当ありがとうございます。心配かけてごめんなさい』
そう連絡を送ると、すぐに既読が付いて返事がきた。
『いいえ。ただ、それは私じゃなくてお母さんがやってくれたことです。お母さんにもお礼をしておくように』
「えっ?」
書いてある文言の意味が分からず、返事を打つ手が止まってしまった。
確かにお母さんは子供に絶食を強いるような親ではないし、ご飯も作ってくれる。でも、わざわざ返事のないボクのために新しくお弁当屋さんまで行くような人だとは思えなかった。
「っ――――」
お父さんのLINEを何度も読み返しているととてもいたたまれない気持ちになったと同時に、こういうお母さんが行う「正しい」行動の一つひとつに心臓がキュッと締め付けられるのを感じていた。
ダメだ、今日は何もかもを強く感じ取ってしまう。
ボクが悪だと思っていたお母さんは実はどうしようもなく正しい人で、その正しい行動は今のボクのすり減った心には十分以上のダメージがあった。それは三者懇談の時からずっとボクの中にある自分が「悪者」であるという不安を確実に煽ってくる。
やらなきゃいけない事は分かってる。今これをできないのはボクの弱さにつながる。
ボクは深呼吸をしてから今度こそ自室を後にした。
もう十六年近く住んでいる一軒家の階段を下りて、テレビの音と人がそこにいる雰囲気に引き寄せられるようにリビングへ向かう。
引き戸をあけると、お父さんとお母さんは二人でささやかな晩酌を執り行っていた。二人ともビールを開けて、面白くもないテレビを流しながら何か話をしているようだった。
「あ、お母さん……」
ボクが言うと、お母さんはこちらを振り向く。
「あの、お弁当ありが」
「はぁ……ほんと迷惑。今日は二人とも仕事で遅いから外食だって、朝ちゃんと言ったわよね?」
「あ、ごめん……」
そう言えばそんな話してた気がする。でもそう言われるまで全く思い出せなかった。
よく見れば、キッチンの方にボクが食べたお弁当と同じ容器が散乱している。もしかして、二人ともせっかくの外食取りやめてお弁当屋さんで三人分のお弁当買ってきてくれたのか?
「あんた今日何してたの」
「え? 今日……?」
お母さんは鋭い声音でそう聞いてくる。嘘をつくことも、誤魔化すこともできない強さのようなものがあって思わずなんと言えばいいのか迷った。
「えっと、その、で、電車……乗ろうって」
「はぁ?」
「電車に……! 乗る練習を、してました……」
ボクが電車に乗れないのはお母さんもお父さんも知っている。だから、二人とも驚いた顔をしているけれど、どちらかと言うとお母さんは怪訝な顔をして、お父さんは心配するような顔をしていた。
「……で? 迷惑とかかけてないでしょうね?」
「…………」
お母さんからの質問にボクは目を合わせることができなかった。そんな言葉以上の返事を見て、お母さんは大きなため息をついて、眉間を抑えるように指でつまんだ。
「もういい。あんた、お風呂は?」
「あ、後で入るからお湯だけ抜かないで」
「ん」
そう言うとお母さんは増えたストレスをかき消すように缶に残っていたビールをタンブラーに移さずそのまま飲み干した。
「あおい、大丈夫か?」
するとお父さんがボクに心配する眼差しを向けながらそう聞いてきた。
「うん。だいじょうぶ」
実際昼間に比べれば今は落ち着いているし、大丈夫っちゃだいじょうぶだとは思う。
でもそれは今日の中では比較的ってだけで、やっぱり今日は起きているだけで厄日だ。
と言っても、自分で招いた厄日なのだが。
「じゃあ、お弁当ありがと」
ボクは逃げるようにそれだけ言い残すとお母さんのため息を耳にしながら、自室へ戻った。
扉を閉めて、今日一日換気もしていない部屋の空気を肺一杯に吸い込んで、目一杯吐き出した。
大丈夫。ちゃんと面と向かってお礼はできた。これでだいじょうぶだと思う。
そう自分に言い聞かせることで精一杯で、ボクはドアに背中を預けてしゃがみ込んだ。
「…………」
もう何も考えたくなくて、両足を自分の方に引き寄せて三角座りになって膝に顔を埋める。
結局今日は何もできなかったな。痴態をさらして終わってしまった。また明日から、頑張れるかな……こんな無様なボクだ。せめてがんばらないと……がんばって、がんばって、がんばって……
「…………」
さっき飲んだお茶が全部涙になっちゃったんじゃないかと思うほど目が潤んできた。
それを必死に堪えるようにもう膝をさらに強く寄せて、深く頭を埋めた。