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第五章

※ この話に様々な性的志向を否定する意図はございません。

また後々そういったものをほのめかす描写が登場する可能性も大いにあります。しかしそれはあくまで物語上の演出のため、フィクションとしてご理解ください。


誤字確認はしましたが、それでも漏れはたくさんあると思います。ご指摘の程よろしくお願いします。

また、制作の都合上、タテ書きで作った文をそのまま貼り付けてあるので、改行等不自然なところがあるかもしれません。

 三日ほど遡る。その日、俺はとある映画を見る欲と、クソ暑い中わざわざ電車とバスを乗り継ぐ労力を天秤にかけ、後者の映画を見に行くモチベーションが勝ってしまった。それまでの夏休みが始まってからの六日間、宿題と漫画、小説だけで貴重な夏休みを消費していたことに若干の飽きを感じていたのもあるのかもしれない。

 財布とスマホだけ持って、自転車を駅まで走らせて改札を通る前に定期が使えないバスに乗ることを思いだしてスマホを確認すると、残高はまだ640円残っていて、これだけあればモール行のバスに問題なく乗れると、確認してからチャージをせずに改札を通った。

 定刻通りにやってきたエアコンの効いた車両の一番端の席に腰掛けた。別に眠たかったわけではないのだが、なんとなく一番端の壁にもたれたくてイヤホンをしたまま目を瞑った。

 今日降りる駅は今まで降りたことのない駅だったが、毎日車内アナウンスで聞いていた駅名ということもあって、妙にソワソワしていた。

 しばらく電車に揺られ、イヤホンと耳の間を縫っていつも聞き流していた駅名のアナウンスが流れてきた。ゆっくりと瞼を開くと、見慣れた景色が車窓から見えた。

 座席から立ち、扉のとなりの手すりをもって待っていると、扉が開いた。

「は?」

 スマホに落としていた目線をホームに向けたとき、俺の目の前には電車の扉をくぐるわけでもなく、扉の前でキャスケットをかぶった人が地面に座り込んでいた。。

 小さくうずくまり、よく見たら背中も震えている。

「だ、大丈夫ですか?」

 イヤホンを外して俺も前かがみになってその人のほうに手を差し伸べる。

 するとうずくまっていた女性はビクリと身体を振るわせたかと思うと、俺の手を弾いた。

「っ! ……あ、ご、ごめんなさい! ボ、ボク、そんなつもりじゃっ⁉」

俺が手を弾かれたことに驚いていると、手を弾いた女性はとたんに誤ってきた。

その際、キャスケットで見えなかった顔を上げて言葉をまくしたてていたのだが、その真っ青の表情には見覚えがあった。俺が気づくと同時に、彼女も俺のことに気づいたのだろう。

「水瀬さん⁉」

「緒方くん⁉」

 俺、緒方陽彩は水瀬あおいの名を、うずくまっていた女性、水瀬あおいは緒方陽彩の名前をほとんど同時に叫んでいた。


○ 〇 〇


 駅で電車の目の前でうずくまっていたのは水瀬さんだった。どうやら体調不良とかではないらしく、彼女が落ち着いたところで、一度二人で改札を出た。

(あ、俺が乗るはずだったバス)

 なんて思いながら目の前でバスが発進したのを見守った。もちろん、今更映画を見る気なんてなくなってしまったし、全然惜しくなんてないがやっぱりどうしても目で追ってしまう。

「どうかしました?」

「え? いやなんでもない」

「その、何か予定があったんじゃ……」

「え? あー、まぁ大丈夫」

「だ、大丈夫って」

 もう映画の時間には間に合わないし、座席もまだ買っていないので実際大丈夫だ。そうは言っても水瀬さんは気まずいよな。突然出会った同級生があったであろう予定を蹴って自分の隣にいるというのは。

「そんなことより俺は水瀬さんに何があったか訊きたい。何があったの?」

「…………えっと、その」

 俺は変に見繕ったりすることはせず、直球で彼女に尋ねてみた。

 正直、電車に乗れなくなってしまっていた水瀬さんが駅のホームでうずくまっている時点でいい話なわけがないのだが、それならそれでやっぱり気になってしまう。

「その、ボクが電車に乗れなくなっちゃったのは知ってるよね?」

「うん」

 水瀬さんは一度、今の格好で電車に乗っているときに知らない男性に臀部を触れられる痴漢に遭い、それがトラウマになって電車そのものに乗れなくなっている。

「それで、それを克服しようって思って……」

「電車に乗れないことを?」

「はい」

「え、すごいじゃん」

「すごいっ…………いや、すごくないですよ。あのザマですから」

 水瀬さんは吐き捨てるように俺から視線をそらして言った。たしかにホームで膝をついてうずくまっているのは端から見たら不格好かもしれないが、少なくとも水瀬さんのバックボーンを知っている俺はそんな風には思わなかった。

「すごいよ。俺もあの場にいたし、今日まで水瀬さんと話して、水瀬さんがどれだけ怖い思いしたのか、少しは分かってるつもりだから」

 あの日の俺は正直心のどこかでなんでこの子は男の人に触られた〝だけ〟でゲロまで吐くほど傷ついてるんだろうと思っていた。もとろん感じ方は人それぞれだし、痴漢がトラウマになってしまうという話も聞いたことはあった。それでも、立てなくなるほど憔悴してゲロまで吐くなんて聞いたことがなかった。もちろん心配ではあったけれど、それが全てだったかと言われれば嘘になる。

 でもその翌週に水瀬さんの方からカミングアウトをうけて、もう一度あの日のことを思いだして、俺は一人で納得した。

 痴漢なんてするクソ野郎に、今自分が触っている尻が男の尻だとバレれば何をされるか分からない。それは多分、俺がどれだけ考えを巡らせようと納得はできても感じ取ることはできないすごく深い恐怖だったと思う。

「だから、水瀬さんの努力を否定なんてしない。ほんとにすごいと思ってるよ」

「ありがとうございます……そう言われると少し楽になった気がします」

 なんて口では言っているけれど、以前水瀬さんの眉はハの字になっていてどこか疲れている様子だった。

 まあそれもそうだよな。トラウマを克服しようと足を運んで、実際はホームで一人ぐったりと倒れ込んで、疲弊してないわけないよな。そういう俺もさっきから炎天下の下を歩き続けてそろそろ嫌になってきた。個人的に今の水瀬さんに言いたいこともあるし、ここは一つ提案することにした。

「水瀬さん、どこかお店に入らない?」


 〇 〇 〇


 二人して近所にあったファミレスに入った。丁度おやつの時間で、お昼ご飯を食べている素振りの人は少なかったが、俺達みたいにだべっている人や勉強をしている人でなかなかにぎわっていた。二人で四人掛けのテーブル席に腰掛け、二人分のドリンクバーと、つまみとしてフライドポテトを注文した。

 注文を終え、対面に腰掛けている二人で少しの沈黙があった。

「……じゃあ、飲み物取りに行きますか」

「そうですね」

 なんて気持ち悪い前振りをして、二人同時に席を立つ。

 氷を入れて、ジンジャエールを注ぐ。原液と炭酸水が交互に入っていくグラスを見ながらふと思い出した。


 俺、女の子とこうして外食するの初めてだな。


 自分で誘っておいてなんだけど、そのことに気付くと途端に恥ずかしくなってきた。

 ほんの数カ月前まで同い年の女の子とほとんど話したこともなかったのに、今では勢いもあったとは言え自分からファミレスに誘うようになってしまっていた。そんな自分を悟られないように、平静を保ちながら席に戻ってコップの中にある注いだジンジャーエ―ルを飲み干した。

「えっ? もう全部飲んじゃったんですか?」

 戻ってきた水瀬さんが驚愕するように俺の空いたコップを見ていた。

「い、入れなおしてくる」

ジュースにがっついていたのがすごく恥ずかしくて、その場から逃げるようにジンジャエールを注ぎなおす。

 しかし誘ってしまったものは仕方ない。これからのことを考えるだけだ。

 席に戻ると、ストローをさしたオレンジジュースを啜る水瀬さんがちょこんと座っていた。

 こういう小さな所作というか、仕草まで多分気を遣っているんだろうなと思うとこの人の覚悟や本気度が伺える。それと同時に、そんな彼女の意思をあの日一人の誰でもない男に踏みにじられて、今もこうしてトラウマを抱えていることがすごく腹立たしく感じる。

「おまたせしました」

「いえ」

 改めて向かい合って着席する。

 いつも図書館で二人横並びになって話しているとは言え、こうして面と向かって話した回数はあまりないので、今更少し意識してしまってこの期に及んで目が合わせられない。

 しかしこうしてわざわざ着席して話そうと提案したのは俺なので、俺が切り出さないと始まらない。即席で頭の中で会話デッキを構築する。

「その、ちゃんと話したいことがあって」

「はい」

「水瀬さんって、夏休み毎日電車に乗ろうとしてたの?」

「いえ、毎日ってわけじゃないです。火曜日から始めたので……四日目ですね」

「四日目……」

 今日は金曜日だから月曜は祝日だとしても、平日毎日じゃんか。

「あ、でも始める前は改札をくぐる事さえままならなかったんですけど、最近はくぐれるようになりました…………お恥ずかしい話です、ほんと」

「いやいや……!」

 そっか、改札をくぐる事さえ難しかったのか。俺が思っていたよりも水瀬さんの傷は深いのかもしれない。

「それって、今日みたいに一人でだよね?」

「はい。協力してくれる人なんていませんから」

 もうとっくに諦めてしまっていたような口調で水瀬さんは言う。

「寂しくない?」

「……あまり、考えたことなかったです」

「辛くない?」

「……そりゃ、辛いですけど、電車に乗れない方が何倍もしんどいですから」

今日、水瀬さんは諦めたような笑顔をよくする。それはいい意味でも悪い意味でも、今の状況を理解して納得しているからだと思う。

自分が女の子の格好をしていたから痴漢に遭い、痴漢に遭ったから電車に乗るのが怖くなってしまった。そのプロセスをしっかりと順序だてて咀嚼して、飲み込んでいるからどうしようもないって思っているんだ。

 ほんとはこんなこと言うのはおこがましいって俺も分かっている。分かってはいるが、だからって今日の姿を見せられて何も思わないほど俺は薄情ではないし、何か気の利いたことができるほど器用でもなかった。

「あのさ……提案なんだけど」

「はい」

「その、不躾な申し出になることは分かってる。でも、それでも聞いてほしい」

「はい……」

「えっと……み、水瀬さんが今やってるその、電車のトラウマを克服する練習を、俺にも手伝わせてほしい」

 何度も噛んでしまったが何とか伝えることができた。ただ提案するだけ、向こうが嫌なら断られてそれで終わり、たったそれだけなのになぜか無性に緊張した。それだけ自分でも不躾な提案だって分かっているし、断られそうな未来が見えていたんだ。

「え、えっとぉ…………心配かけちゃいましたね。ごめんなさい。でも、謹んでお断りします」

 水瀬さんは自分が何を言われたのか考える間をとると、ペコリと頭を下げて、優しい笑みを浮かべて丁重に断った。

 わ、分かってはいたことだが、やっぱりそれなりにキツいな。

「そ、そっか……」

 落胆した気持ちを隠そうとしたが、口調にでて感情駄々洩れだった。

「あの、ボクからも聞いていいですか?」

「ん? 何?」

「どうして、緒方くんはそこまでしてくれようとするんですか?」

 たしかにただ断るにしてもこれっじゃ俺が何で突然そんなことを提案してきたか分かんないよな。そう思いながら頭の中にある水瀬さんの練習に手伝いたい理由を言葉にまとめながら、間を埋めるようにポテトを一本食べる。

「心配だからって言ったらそれまでなんだけど…………さっきホームで膝をついてる水瀬さんを見た時なんだけどさ」

「はい」

「……あの日痴漢にあってホームでぐったり倒れた水瀬さんを思い出した」

「っ……」

 電車から降りようとして目の前に膝をついている女性を見つけた瞬間は、かぶっているキャスケットで顔が見えずにまさか水瀬さんだなんて思いもしなかった。でも顔を上げて、キャスケットの下にあるのがあの日によく似た、憔悴した水瀬さんだったものだから、あの日俺も感じた恐怖と不安が一瞬鮮明によみがえった。

 もし今日このまま練習を続けるのなら、もしさっきみたいに倒れたりしても対処できるように一緒にいさせてほしいと思い、提案した。毎日続けているとなると猶更だ。一度あんなの見せられて、俺にもしっかり恐怖を植え付けられた後で、水瀬さんを独りでまたホームに戻すことなんてできなかった。

「水瀬さんほどじゃないけれどあの日は俺も怖かったんだ。倒れ込むほど憔悴して、震えてっ……そんな人初めて見たしそれが仲良くなりかけた同級生で、どうすればいいのか分かんなくなっちゃった。それで……水瀬さんがまた一人であの駅にいるのかと思うと、やっぱり不安っていうか……」

 自分で言っていてもお節介にも程があると呆れてくる。結局は水瀬さんに何ができるのかすらも考えずに進言しているただの自己満足だ。

「気持ちは、うれしい」

 俺が言い終えたと思い、水瀬さんも今の気持ちを教えてくれた。

「でも、これ以上迷惑はかけられない」

「そんなこと気にしなくてもいいのに」

俺は自分の気持ちが絶妙に水瀬さんに届かないことに歯がゆさを感じていた。

「目の前にいるのは悔しくも夏休みの予定なんて皆無な陰キャなんだけどな……? 夏休みいつ練習するってなってもいつでも駆り出てやる。迷惑に感じる日なんて一日もないぜ」

 感じた不甲斐なさや緊張、不安を隠すように変なテンションを見繕ってしまった。

 自分で言ってて恥ずかしくなる。予定がないのはマジなんだ。マジで今のところ予定らしい予定が皆無なんだ。こういう時緩い部活にでも入っておけばよかったかななんて思う。

 なんて悲しい事実をあえてあっけらかんと口にしてみた。頼むから笑っていてくれ。真に受けられたら恥ずかしくて死んでしまう。

「……そうなんですね」

 まっずいなこれ。水瀬さん、めちゃくちゃ真顔だ。

「ボクもです」

「…………え?」

 しかし次の瞬間には表情を柔らかくして、クスッと笑った。

「ボクも同じです。夏休み、びっくりするくらい何も予定がないんです」

「そ、そう」

 なるほど予定がないことを他人から言われた時ってこんなにどうしたらいいのか分からない気分になるんだな。勉強になった。二度と言わない。

「そうです。一緒ですね」

 若干不名誉に感じながらも、ポテトに手を伸ばした。

「緒方くんは、今寂しいですか?」

「え?」

 伸ばした手がポテトを掴むことはなくピクリと止まった。唐突な質問の意味が分かりかねて、俺の両目が水瀬さんの方を向いて離れなかった。

「緒方くんがボクにしたのと同じ質問です」

「あっ……」

 水瀬さんは考えたことないと言ったが、俺もそんなこと考えたこともなかった。そもそも俺は今の自分の夏休みの過ごし方を悪いとも勿体ないともそれほど思っていない。それなりに楽しんでるつもりだし、実際気楽なものだ。起きたい時間に起きて、寝たい時間に寝る。怠惰と言えばそうだが、そうしただらけた惰眠を謳歌できるのもこの学生の間だけ。過ごし方として間違っているとは思えない。だから寂しいなんて思ったこともそんなに……

「…………寂しい、のかも」

 寂しくなんかないと思っていたけれど、衝いて口から出た言葉は真逆の言葉だった。

 確かにそんなこと考えたことはなかった。考えることもないほど、俺にとって不満はない夏休みなんだと思っていた。でも、今こうして水瀬さんと話をして、この時間が楽しく思えてもう少し続けばいいなって思っていた。それは水瀬さんを思う気持ちももちろんあるが、大半は俺自身の願いだった。

「いやごめん! 俺もよくわかんない! いや、どうだろう……えっと」

 女の子にそんなこというのがすごく恥ずかしく感じて、必死に撤回しようとしてなんと言えばいいのか分からず、挙動不審になるだけだった。

 しかしそんな俺を見て水瀬さんはふふっと不敵に笑った。

「一緒ですね」

 水瀬さんは微笑みながらさっきと同じ言葉を口にした。その意味が分からなくて戸惑っていると、目線を少し下げて照れくさそうに水瀬さんは続けた。

「あの、やっぱりさっきの言葉撤回させてください」

「え? どれ?」

「『丁重にお断りさせてもらいます』ってやつです」

「えっと……つまり?」

 言わずもがな、水瀬さんがそんな言葉を口にしたのは一度しかない。それを撤回するということはつまり――――

「一緒に練習に付き合ってもらっていいですか?」

 一度拒否されて落ち込んだ手前、何が起こったのか分からない驚きがあった。一体どういう風の吹きまわしなのか、戸惑った頭では理解できなかった。しかし、俺が今するべき返事は決まっている。

「う、うん! もちろん!」

 これを断る理由など存在せず、俺は首肯した。

「ありがとう」

「いやいや、こっちの台詞」

「いやいや、ボクの台詞だよ」

「え?」

「え?」

 俺は一度拒否された手前、俺の提案を水瀬さんが受け入れてくれたことがうれしくて感謝の気持ちがあったが、水瀬さんからも感謝されてさらに戸惑った。さっきから同じような言葉をオウム返しのように使っているのに水瀬さんの考えはうまいこと読むことが出来なかった。

 その様子はやはりシュールで、二人してクスクスと笑った。

 学校があった時、図書委員の際によく二人で話はしたが、こうして笑いあった回数は数えるほどしかない。ここが静かな図書館ではなく、賑やかなファミレスということも手伝っているのだろうが今日だけで二人の距離がグッと近づいたように感じた。

「でも、またどうして突然?」

 やっぱり一度断られたこともあって、手のひら返しが起こった理由は聞いておきたかった。

 俺の質問に、またしても水瀬さんはどこか照れながら「あー」と漏らしてから間を開けて口を開いた。

「……その、緒方くんに『寂しい?』って聞かれて、自分じゃ考えたこともなかったけど、案外そんな風に思ってたんじゃないかって気づいたんです。それに気づいた時に、たまたま奇跡的に一緒に手伝ってくれるって提案してくれてる人がいたってだけです」

「ははっ、なるほど」

 たまたま奇跡的に同じく夏休み何もなくて暇と寂しい気持ちをどこかに抱いて、水瀬さんのことも思う人がいたと。なかなか珍しいこともあるものだ。

 なんて冗談はほどほどに、水瀬さんってこんな風に話す人だったんだ、と少し意外に感じだ。普段よりも明るくて、今を楽しんでいるような雰囲気だった。もちろんそっちの方がいいのだが、さっきまで倒れるほど憔悴していたのもあって、俺自身もうれしさよりも意外さが勝っていた。

「あ、でもせっかくの夏休みなんだし、何か用事があったらそっち優先してね。今までも一人でやって来てたんだし」

「待って待って、一人でやっちゃ意味ないじゃん。また倒れたらどうするの?」

「で、でも……」

 俺は水瀬さんが今日みたいにあの日のトラウマで倒れられたら困る。でも、水瀬さんは俺がずっと自分につきっきりなのは申し訳ない、というより鬱陶しいのだろう。さすがに毎日は疲れるし、俺たちは家族でも何でもないし毎日会うような間柄でもない。

「ルールを決めよう。この電車に乗る練習のルール」

 そうして俺たちは自分らの希望を擦り合わせて厳密なルールを決めることにした。

 なんか仰々しくなってきたけれど、俺の気持ちとしては遊びの約束を取り決めているような感覚に近かった。だから水瀬さんには少し申し訳ないけれど、少し楽しかった。

 それから二人でルールを決めて、以下のルールが決まった。


・練習するのは午前十時からの数時間。土日祝休みの完全週休二日制。

・何をするかは当日決める。

・何か他に予定がある時は当日でもいいので必ず連絡をする。

・水瀬は緒方がいないときは絶対に一人で練習をしない。


「――――こんなところか?」

 たった四項しかない簡単なルールだけど、こうして事前に取り決めておかないといけない気がした。

 時間が少し早い気もしたが、平日はこの時間が一番電車の本数が少なかった。水瀬さんの最寄り駅は快速電車も全て止まるような大きな駅であるため、時間によっては5分単位で電車がやってくる。そんなに頻繁に電車が来る必要もなく、一番少ない昼前の時間になった。

「最後のは……?」

「ごめん、これだけは絶対に外せない」

 そもそも俺が水瀬さんに手伝いたいなんて言い出したのはこれを防ぐためだ。今日みたいに一人で無理されたら元も子もないし、やっぱり俺も心配で気が気でなくなってしまう。

「もちろん、随時変えていけばいい。できるようになったら俺も抜けていくからさ」

「うん。分かった」

「じゃあ、早速明日から」

「そうだね」

 二人でもう一度目を合わせる。

 若気の至りで勢い任せに取り決めてしまった節は確かにある。面倒だと思う気持ちが一切ないかと言われれば返事に間が出来てしまうかもしれない。でもその気持ちよりも水瀬さんがこれから一人であんな風に電車に乗る練習をするのが怖かった。

 それを解消できるだけで、今は胸のシコリが一つなくなるような気がした。

「じゃあ、えっと、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 二人してそう律儀に頭を下げて、二人で電車に乗る日々が始まった。


 〇 〇 〇


 ファミレスで話し合った翌日に戻る。ついさっき一本電車を見送った。俺が自販機で買ったお茶を膝に置きながら、水瀬さんは蒸し暑い風を浴びるようにベンチに腰かけていた。

「すみません……」

「一回目で出来たら苦労しないよ。気長にやろう」

 そうは言ってみるが、水瀬さんの顔は晴れない。

 分かってはいたが俺にできることは何もなかった。ただ隣にいるだけで、彼女を鼓舞することは元より、手を差し伸べることさえできなかった。

 昨日は「手伝う」と言ったのだし、何か手伝いが出来ればいいと思っていたのだがいざ同じところに立ってみると何をするのも余計なお世話に思えてしまった。そもそも俺の存在が余計なお世話なのだからそうなるのも仕方ない。それを解消する何か策を考えてこなかった俺が悪い。

「どうする? 次の電車、後10分後には来るけど」

「……このままもう一度待ってみます」

「無理してない?」

「大丈夫です」

「わかった……がんばって」

 それ以上俺が突っかかるわけにもいかず、素直に言うことを聞くことにした。

 せめて今の電車を待っている間に、何か気の利いた話でもできればよかったのだが、そんな会話デッキを俺が持ち合わせているわけもなく、自分の事前準備の乏しさを恨んだ。

「……そういや、なんで今になって克服しようと思ったの?」

「……?」

 水瀬さんは目線だけで俺の方を向いて「どういうこと?」と尋ねた。

「質問が悪かったかも。昨日あんな風に倒れるまでやったのに、なんでまだ諦めないでいられるの?」

 確かに電車に乗れるに越したことはない。でも昨日ホームで独り倒れこんで、あの日のトラウマを胸に抱えていて。嫌だな、もうやめてしまおうかな、って思う事はないんだろうかと疑問に思った。一体何が、それらを凌駕して水瀬さんを突き動かしているのか気になった。

「……それは……」

 水瀬さんは目線を電車のない線路の方へ向けて、少しだけ考える素振りを盗った。

「そうしないといけない気がしたの」

 曖昧な回答が返ってきた。彼女の言い方的に、自分で克服したいと思ったようには思えなかった。そりゃ、克服したいという気持ちもあるだろうが、それ以外のどこか義務的な意味が強いように思えた。

「もちろん自転車で学校に行くのもそろそろしんどいってのもあるよ。でもそれより、普通のことができないって、思ったよりも苦しかったから……」

「普通のこと……ね」

 電車に乗れることは言わずもがな普通のことだと思うけれど、水瀬さんがそんなものに囚われているのは意外だった。彼女は自分を変える強さは持っている。だからその力を理想の自分になるために使い、今の彼女ができたのだと思う。しかし今はそれをみんなに合わせるために使っているように思えた。理想の自分じゃなくて、普通の自分になるために。

 彼女がこだわる「普通」という言葉が、俺には少し胡散臭く、もっと下世話なものに聞こえてしまった。

 結局その日は十数本の電車を見送り、乗車することは叶わなかった。

 解散予定時刻の十三時。俺はそのまま向いのホームに来る電車に乗って家に戻るため、ホームの内側で解散することになった。

「……ほんとにごめんなさい」

 去り際になって、水瀬さんはまたつぶやいた。

「いいよ。俺はいつまででも付き合うから」

「……ありがとう、ございます」

「帰ったら休みなよ」

 水瀬さんの顔はここに到着したときは緊張した面持ちだったけれど、今はとても疲れたやつれた表情に変わっていた。それは一試合終えたスポーツ選手のようにも、深夜に残業を終えたサラリーマンのようにも見えた。

 コクリと水瀬さんがうなずくと、駅内に俺が乗る予定だった電車がやってくる胸のアナウンスが流れた。

「じゃあまた明日」

「うん。気を付けて」

 気を付けて。ただ電車に乗って最寄りへ向かい、1㎞自転車を漕ぐだけなのに彼女は心配するようにそういうのだ。ここに来るときも思ったがやはりこの言葉が今の水瀬さんに染み付いているトラウマがにじみ出てしまっている。

 俺は走って向いのホームへ向かい、到着した電車のドアをくぐる。

 こんなことすら、今日一日叶わなかった。

 いや、初日で出来たら世話ないのだが。

 明日もこの練習が続く。もちろん苦ではないが、もう少し工夫が必要だとはひしひしと感じた。でも、俺はゲロ吐くほどのトラウマを抱いたことはないし、それらしいものを克服した経験もない。

 別に水瀬さんが電車に乗れるようになるために秘策なんかじゃなくてもいい。ただこの一時間を少しでも楽に慣れるような、そんな他愛ないものでいい。今日みた水瀬さんの憔悴した表情を少しでも緩和できるような、そう言う何かを。



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