第三章
※ この話に様々な性的志向を否定する意図はございません。
また後々そういったものをほのめかす描写が登場する可能性も大いにあります。しかしそれはあくまで物語上の演出のため、フィクションとしてご理解ください。
誤字確認はしましたが、それでも漏れはたくさんあると思います。ご指摘の程よろしくお願いします。
また、制作の都合上、タテ書きで作った文をそのまま貼り付けてあるので、改行等不自然なところがあるかもしれません。
ひどい空気の会議が終わり、俺は一人で図書館へ向かった。
いつもの挨拶をする人はカウンターに座っていなくて、一つ足りない違和感を覚えながら俺はいつもの席に腰掛けた。
凝り固まった首をほぐすように天井を見上げ、ため息を吐いた。
ほんと、つらい時間だった。水瀬さんへの明らかな敵対意志のある攻撃を目の当たりにして俺は何もできなかったことで、無力感のようなものがずっと残っていた。
俺が水瀬さんの身体の性別のことを初めて知った時に危惧したことが現実になってしまった。
『いつかここまでできた水瀬さんが他人の感情一つで傷ついてしまうのではないか』
水瀬さんは自分を変える力を持っている。けれど、それが吉村らに通用するかと言われれば多分難しい。水瀬さんがあの姿でありたいように、吉村はあの姿が目障りなんだろう。クラスの雰囲気的には吉村の意見の方が多いようにも思える。一騎打ちなんかじゃなくて、多勢に無勢、ほとんど四面楚歌のような状況といっていいかもしれない。
水瀬さんに肯定的な意見なんて、長峰さんからしか聞いたことがない。その長峰さんも吉村さんらのグループに属している彼女も肩身の狭い思いをしているかもしれない。これからすぐに夏休みだと言えど、夏休みを開けたらすぐにどうなるか、俺には何も分からない。
ただ俺は、できれば水瀬さんにはあのままでいてほしい。
これだけは、揺らぐことの無いことだと思う。
「……クソったれ」
気づけば、ほとんど無意識にそう呟いていた。
一人しかいないのにやらないきゃいけない仕事量が変わらない図書委員の仕事を済ませ、残り時間、図書館で借りた本でも読もうかと文庫本に手を伸ばすも、なかなかページを開く気にはなれなくて、カウンターに出しただけの文庫本を開くことはなかった。
カウンターに頬杖をついていつもより静かな図書館で一人、冷房と時計の音、挙句には本の管理ソフトしか開いていないPCの駆動音にさえ苛立ちを覚えていた。
いつもは閉館時間までいるのだが、今日はもうそんな気分になれなくて帰ってしまおうかと思った時、カランカランと入口のベルが鳴った。誰か来たのかと思い、ドアの方を見るとそこにはとても悲しそうな顔をしている長峰さんが立っていた。
「やっぱりここにいた」
「え?」
長峰さんは俺を見ると館内用のスリッパを鳴らしてこちらへ向かってきた。
「LINE、ちゃんと見てよ」
「え? LINE? あ、ごめん」
スマホを確認すると長峰さんから数件「いまどこにいる?」という旨のLINEが届いていた。
LINEを送って今まで俺のことを探していたと思うと、たまたま出会えたからよかったけどさすがに申し訳なくなってきた。
「いや、ほんとにごめん………それで、何の用……」
わざわざ俺のことをそこまで探してたってことは何か急ぎの用事があったのだろうけど、今俺の目の前でつらそうな顔をしているのを見るとなんとなくその要件はわかってきた。今俺も、そのことでもやもやしてたところだ。
「って、聞かなくてもわかるか」
「まぁ、うん。水瀬さんのこと」
「吉村の奴、なんであんな意地悪なこというんだ? 綱引きのハンデなんて、どうでもいいだろ」
吉村が言いだしたのは体育祭の綱引きでのハンデの話だった。たった数十㎝、試合結果に影響するかと言われればぶっちゃけ怪しい。公正を謳うために仕方なく置いているようなルールだ。
「綱引きのことなんて星名にとってはどうでもいいんだよ。ただ、水瀬さんを困らせるキッカケさえあれば、なんでも」
「はぁ……やっぱりそうかよ、クソ」
同じグループの長峰さんがいうならやっぱりそうなんだろう。
「水瀬さんは? 今日はいないの?」
「今日はもう帰ったから、俺一人」
「そう、やっぱり帰っちゃったか…………」
長峰さんは落胆するように呟いた。
「ほんとは直接謝りたかったんだけどな」
「謝る?」
「うん……まただよ。また、止められなかった」
長峰さんが悔いるように、懺悔するように口を開いた。
また、と言ったがもしかして俺が長峰さんに茶封筒を渡そうとした日のことを言っているのだろうか? 確かにあの日も吉村さんともう一人、えっと、張井さんだったか。その二人の水瀬さんへの罵倒を止められなかったと悔いていた。やっぱり長峰さんにとっても水瀬さんは特別なんだろう。
「水瀬さんもLINE読んでくれないし、明日も学校はあるけど、ちゃんと話せるか……」
明日から三日間、学校こそあれど短縮授業で三者懇願がない人たちは午前中には帰ってしまう。水瀬さんも長峰さんも部活に入ってないので誘う事さえできれば午後は自由ではあるが今の水瀬さんがそれに応じるかと言われれば、正直望み薄だと思う。
「……こんなこと言われたくもないだろうけど」
長峰さんがこんな言葉今求めていないって分かっていながら、俺は心に思ってしまったことを口にした。
「多分、水瀬さんは長峰さんに謝られてもよく分からないと思う。長峰さんが悪くないって、本人が一番分かってると思う」
いつだったか水瀬さんは俺に長峰さんと映画館で出会った旨を話してくれた。色々思う所があったのか嬉々とした様子ではなかったが、長峰さんと関係を築けたことに関してはすごく喜んでいた。
だから、そんな相手の長峰さんが必要以上に責任を感じて謝られても、向こうも困るだろうし、落ち込むと思う。
「分かってる……分かってるよそんなこと。でも、そんなの納得できない。このままじゃ、私はあの子の友達にも、助けにもなれないからっ……」
長峰さんはどこか悔しそうな声を漏らした。
長峰さんが水瀬さんにこだわるのは自分も同じく高校に入るために頑張った身だから、その努力を否定することはできないというものだった。そんな長峰さんがあの状況で助け船を出せなかったことを後悔するのはある意味当然か。そう長峰さんの表情を見て思った。
でも、だったら猶更どう行動するのかは大事だろう。
「悪い、俺が間違ってた…………」
「っ…………緒方くんの考えは間違ってない。でも、私がそれじゃ納得できないから」
もうこれは変えられない性格だからと諦めたように笑って言った。
まぁ、この責任感が長峰さんのいいところだから、俺は直さなくてもいいと思うけど。
「それで、緒方くん」
「ん?」
「こういう時って、私にできることってなにがあると思う? 参考までに聞きたい」
「うーん…………」
水瀬さんにとってこの学校で唯一「同性」で「友達」と言える人物だろうし、責任感もある。今のまま接してくれるだけで心強いと思うけど、それじゃ長峰さん本人が納得しないだろう。
俺が悩んでいると、長峰さんも近くにあったパイプ椅子を持ってきて、俺の前で腰を下ろした。右ひじをカウンターにつき、たらんと垂れた髪を器用に耳にかけ、左手で面倒くさそうに片手間にLINEを返していた。
そのこなれた仕草と、鼻に触れたシャンプーかトリートメントの匂いに一瞬ドキッとした自分がいた。
「……なに?」
「いや、別に」
見ていたのがバレて咄嗟に不自然なくらい目をそらしてしまった。
突然それまであまり強く意識したことがなかった同級生の「女の子」の部分を感じて緊張してしまった。ただこうして話すだけなら男女の違いなんてあまり気にしないが、これだけ至近距離でいるとさすがに考えさせられる。
「あっ」
ふと、天啓が降りたように思いついた――――これじゃん。
俺にできなくて、長峰さんにならできること。
「ねぇ、長峰さん、ちょっといいか?」
「ん?」
俺は今思いついたことを長峰にそのまま語って見せた。
「――――――――」
「……」
「ど、どうかな?」
「…………ふふふっ、そういうことなら私に任せなさい!」
「あれ? 自信満々?」
長峰さんが承諾してくれるかは正直分からなかったが、彼女は思ったより高らかに自信ありげな感じだった。むしろどこか楽しそうですらあった。
「なんでこれに気付かなかったんだろ?」
「さ、さあ…………俺に女の距離感は分かんないけど、心のどっかで失礼だとか、遠慮する気持ちがあったんじゃない? 好き嫌いがすごく出る話だし。知らんけど」
「たしかに……でも、そうだね、うん。いいね」
長峰さんは俺の提案に手ごたえを感じたのか嬉しそうな顔をしていた。
「ありがとう緒方くん! ちょっと水瀬さんに提案してみる!」
「おう、がんばれ」
これは俺にはできないことで、長峰さんにしかできないことだ。長峰さんの反応を見る感じ、もしかしたら彼女の得意分野なのかもしれない。もしそうなら、本当に彼女の言うように灯台下暗しもいいところだ。
〇 〇 〇
学校から逃げるように帰ってきてしまった。
慣れたと思っていた自転車での下校がすごく辛くて、家に着いた頃にはクタクタだった。力なく玄関まで歩き、鍵穴に家の鍵を刺して自宅へ入る。もちろん「ただいま」と「おかえりなさい」の挨拶なんてない。
「おかえり」
――――と思っていたが、玄関でそう声を掛けられた。
頭をあげるとそこにはお父さんが立っていた。
「た、ただいま」
「……疲れてるのか? 顔色悪いぞ。シャワーでも浴びたらどうだ?」
「いや、大丈夫……ご飯まで寝る」
「そうか」
静かに首肯するとお父さんはリビングへ向かった。そっか、お父さん、今日は家にいたんだ。昨日も帰りは遅かったらしいし、今朝はボクが家を出る時にはまだ寝てたから全然気づかなかった。
ボクはローファーをきちんと並べて二階の自室へ向かう。扉を閉めて目の前にベッドがあるのに、そこまで行くことなく扉に背を預けながらその場にしゃがみ込んだ。
「………………はぁ」
いつもより重たい、低いため息が出てしまった。
今日の放課後の吉村さんの言葉、あれは明らかにボクへの攻撃だった。
今日まで確証のない陰口だけだったから無視してればよかったけれど、今日のはそういう訳にはいかなかった。初めて感じた本当の敵意、母親以外からの害意に、ボクは何もできなかった。
「ハッキリさせてほしいんだよね」
ハッキリ、どう考えてもボクの「性別」のことだろう。
ボク、水瀬あおいは「男」なのか「女」なのか、ボクの答えを訊こうとしたんだ。
ボクの口から答えることに意味があったその質問に、ボクは答えることができなかった。吉村さんが意地悪に言葉をかぶせてきたからじゃない。まだボクに〝ボクの性別〟を口にする勇気がないからだ。
自分の口で自分の性別を「女」と言ってみんなにバカにされるのが怖かった。
自分の口で自分の性別を「男」と言って自分のことを認めてしまうのが恐ろしかった。
勇気も覚悟もないボクが今部屋で一人セーラー服を着て頭を抱えているのはさぞ滑稽だろう。ボクはいつも身体だけが先行して、心が伴ってない。
生まれた時からそうだ。乖離した心と身体を繋ぎとめるためにとったこの格好をするという行動も、今では逃げなのではないかとさえ思い始めてきた。
「女の子」でありたいと思う心と、「男の子」のまま成長し続ける身体。
ボクの「願い」と、それを拒むボクに降りかかった「業」を今一度噛みしめる。
吉村さんは悪くない。やり方は汚かったけれど、当然の考えだ。ボクは疎まれても仕方ない。もとよりみんなに理解されようだなんて思ってない。ボクの存在が認められることがないのは分かりきっているし、それを強要しようなんて思わない。ただ、不干渉に徹してほしいから、ボクは不干渉を貫いているだけだ。でも、そう都合よくも行かないよね。ボクのことには触れないでくださいっていうのも立派な拘束で要望だ。疎ましく思われても仕方ない。
あと四日、三日間三者懇談を行うため午前中で終わる短縮授業をして、四日目に終業式と大掃除。それで晴れて夏休みになる。夏休みにさえ入ってしまえばみんなボクのことなんて忘れると思っていたが、逆に言えば吉村さんからすれば後四日で夏休みになっちゃうんだから、それまでに言及しようとするのは何も間違ってないよな。
あと四日、四日間は学校へ、あの教室へ行かなければならない。短縮授業とは言えやっぱり億劫だ。結局、なりたい自分になろうとボクがどれだけ頑張ってなりたい自分になれてもこの生きずらさは変わらないんだ。
思っていたことを頭のなかで言語化すると、ゾワッと身震いするような寒気がした。
両足を手繰り寄せ、膝をない胸に押し当てながら頭を埋め、三角座りでうずくまった。
「うっ……うっ……」
ボクしかいない部屋で、ボクの小さな震える声が響いては誰の耳に届くわけもなく消えていった。
ただボクは、自分が存分に生きていける姿で生きていたいだけなのに…………
〇 〇 〇
吉村さんに言及された次の日、ボクは月曜日でもないのに放課後に図書館で文庫本を手にしていた。もうそろそろ授業が終わって二時間近く経つ。本来なら直帰していたのだが、今日はそういう訳にもいかなかった。今日はボクの三者懇談の日で、これから母親が学校に来る。それまでボクはこの学校にいとかないといけない。
午前中に学校は終わっているので、今日は放課後の図書委員会はない。だからカウンターには誰もいないので、司書さんに一言断って座らせてもらっている。ここにいると隣に誰もいなくても少しだけ安心できた。そういう気分になれた。
「これから三者懇談?」
一人で本を読んでいると、司書さんが声をかけてくれた。
「はい。それまでの時間つぶしに」
「そう。あ、この前の図書館便り、評判よかったよ」
先月、司書さんがボクらに提案してくれた図書館便りの生徒が書くコラム欄の本の紹介に、ボクはとある本の感想を寄稿していた。それが先週発行されて、ボクの手元にもあるし、この学校の全生徒に配られている。
「ちゃんとここにある本選んでくれてうれしかったよ。職員室で先生からわざわざ『よかった』って声も頂いたし、目立つところに置いたらすぐに借りていってくれた人がいたよ」
「そうですか、それはよかったです」
小さなコラムとは言え、はじめて人に見せるように文章を書いたものだから、きちんと読み物としてできているのか不安だったけれど、なんとか大丈夫そうだ。
「これからも『とある図書委員A』さんのコラム、期待してます」
「それは司書さんが付けたPNで……」
ちなみに名前を隠してほしくて、結局いいペンネームも思いつかなかったので司書さんが付けてくれたペンネームを使わせてもらった。今となってはこれはこれで気に入っている。
「水瀬さんは、三者懇談は不安なタイプ?」
「え? と、いいますと?」
「成績不振で親と先生の板挟みになるタイプがどうかって話」
「あー、なるほど」
それでいうとボクの学業面での成績は無問題。英語だけ足を引っ張ってるけど、それでも総合順位は余裕で上から数えた方が早いし、教科によってはクラスでもトップを張り合えるものもある。
「多分、まだ大丈夫だと思います」
「なんかそんな感じする。水瀬さんなら大丈夫そう」
「あははっ」
「私は、お世辞にもいい方じゃなかったから色々言われたな」
「そうなんですか? なんか博学なイメージでしたけど」
「博学だなんて! ただ本が好きだっただけですよ」
なんて司書さんは照れくさそうに、だけど性格に染み付いた温厚さがにじみ出る優しい笑みを浮かべた。
司書さんとこうして話すことはあまりないけれど、何か授業をとっているわけでも、部活の顧問をしてもらっているわけでもないすごく公平な大人で司書さん自身も温厚な性格でとても話しやすかった。
「…………水瀬さん、あのね」
すると、司書さんが改まって口を開いた。司書さんの方を見上げると、念入りに当りを見回してこの図書館に今だれもいないことを確認しているようだった。
「あの、私みたいなこんな司書でも一応毎朝職員室は絶対通るんだ。もちろん、大人だし同じ職場の人達だから普通の先生方とも少し話はする…………それで、時より小耳に挟んでいたし、私も薄々勘付いてたからこの際聞いちゃうけどさ」
その念入りすぎるほどの前置きに、司書さんが何を言いたいのかあらかた分かってきた。
「その、水瀬さんってもしかして、なんか私たちに隠してることある?」
司書さんは眉をハの字にして、心配するようなまなざしをボクに向けてきた。
吉村さんがボクに向けてきた糾弾するような鋭い目線じゃなくて、そのふくよかなお腹から連想するような、ボクを優しく包み込んでくれそうなやわらかい眼だった。
司書さんが何のことを言っているかなんて言わずもがなだが、こうして対面で面と向かって誠心誠意向き合ってくれたのは初めてだった。
緒方くんにはボクからカミングアウトして、長峰さんは優しい嘘をついてくれて、直接言及してきた人は初めてだった。でも、不思議と緊張こそするものの、それを疎ましいとは微塵も思わなかった。それは司書さんが大人だからか、大人な対応をこんなボクに対してしてくれているからか、想像していたよりも心はずっと楽だった。
ボクは幾分か楽な心地で、少しだけ心の整理をした。
自分で自分のことを口にしなければならない状況は昨日もあったけれど、その時とは全然違う。ちゃんと司書さんはボクが何かを言うまで待ってくれていた。
「その、えっと……」
息を整える。この司書さんに限ってボクのことを知って見限ってくることはないだろう。
ないって分かっているのに、そうじゃない人があまりに多すぎて、それが普通だと固定観念として凝り固まっていた。それを崩していかないと、サビをメッキで隠すんじゃなくて、きちんと剥がして、司書さんに、ボクと向き合ってくれる人と、向き合う――――
「はい……その、ボクは…………今もこんな服着てますけど、身体は、男です……」
ちゃんと言えた。噛みながらではあったけれど、緒方くんにカミングアウトした時とはまた違う心地だった。
あの時は、もう無我夢中だったというか、罪悪感に押しつぶされそうでそれを吐き出したかったような、切羽詰まった心地だった。
だけど今は司書さんって大人がボクのことを優しく促してくれて、手を引いて、一歩先で待ってくれていたような気がした。
「そうか。うん、ありがとう、伝えてくれて」
ありがとう――――司書さんはたしかにそう言った。ボクが自分のことを伝えただけのはずなのに、司書さんから伝えられたその感謝の言葉を聞いた途端、目の奥がじんと震えた気がした。
「いえ……ボクはなにも」
ここで涙を見られるのが恥ずかしくて、ボクはそっぽを向いて当たり障りのない言葉を口にした。
「私が安易に同情しても水瀬さんはつらいだけだし、何も言わないけど…………私はずっとここにいるから。先生や友達にも言えないことがあったら、いつでも力になるから」
「……っ!」
司書さんの言葉にはものすごい安心感があった。
司書さんの周りにはすごく温かく、穏やかな空気が流れている。見た目か声色か、図書館という静かで落ち着く場所にいる人だからか、それらすべてを持ち合わせている司書さんからのボクのことを考えてくれた言葉はほかの誰がくれた言葉よりも今のボクに染みた。
「ありがとう、ございます……」
口からでたのはか弱い感謝の言葉。声が震えて止まらなかった。
「このこと、他の誰かに話したことは?」
「……っ、ボクの口から言ったのは緒方くんと司書さんだけです」
「クラスの子達とはうまくいってるの?」
「いや、むずかしいですね」
とくに深く考えずに素直に答えてしまった。それを言う事で司書さんが心配するかもしれないと言った後に気付いたけれど、それももう遅い。
「ボクが、隠したのも悪いのかもしれないです」
ボクは自分の考えを口にしようとした時、ふと司書さんの方を見上げると、司書さんは目で「いいよ」と言ってくれた。
「……女の子として生きたくて、男として接してほしくなかったから誰にも身体の性別のことを言わないでおいたんです。メイクはもちろん、仕草だったり声だったり、色々勉強して形にはなりました。現に、最初クラスの誰からも怪しまれる素振りはありませんでした。多分。でも、今思えばそれがダメだったんだと思います。はじめからきちんと言えば、もしかしたら「そういう人もいるか」って、認めてくれたかもしれない。嫌でも多様性を考えさせられる昨今ですから………………でも、ボクが隠し通せるなんて驕ってしまったからいざみんなが知った時に、だましてた、嘘をついてた、って悪いレッテルが貼られてるんだと思います」
ボクがこの格好をすることが、誠実か不誠実かはまた別の話だが、ボクの場合「嘘をついていた」という行為がダメだったと今なら思う。なぜならクラスの人たちがボクのことを知った時に、まず彼らが思う事は「水瀬あおいは自分たちに嘘をついて、性別を偽って学校に来ていた」というどうしようもない事実だからだ。その事実が何より先にみんなの頭によぎって、すぐにボクに悪いレッテルを貼ってしまう。一度誰かがそのレッテルを貼ると、誰かの悪感情はすぐに伝播して、次第に誰の感情かもわからなくなって、それが「総意」になる。
それがついに限界を迎えたのが昨日のことだ。
もしかしたらボクにはじめて悪いレッテルを貼ったのは吉村さんかもしれないし、違うかもしれない。どちらにせよ、彼女が昨日行動に出た。これでまた、みんなの意見、総意が揺れ動く。あとはドミノ倒しのようにみんなの総意がボクを襲う。
そこまで自分で口にしておいて、今更ながら滑稽に思えてしまい「はっ」と乾いた冷たい笑いがこぼれた。
「情けないですよね。全部が全部自業自得だし、親が生んでくれた身体にこんなことまでして、悪いレッテルがどうとか…………悪いことしたのには、変わりないのに」
何が悪いレッテルだ。嘘偽りで身を包み、あまつさえ学校と言う社会にそのまま入り込んで、自分が排他される状況を語って分かった気になって、それでも一向に自分を変えようとしないただの肥えたワガママだ。
「それは、ちょっと違うんじゃないかな……?」
「えっ?」
司書さんはいつも緒方くんがすわっているパイプ椅子に腰をかけて、目をじっと落としていった。
「そりゃクラスのみんなに言わないでいたのは悪いことかもしれない。でも、水瀬さんが今その恰好をすることは悪いことなの?」
「それは……そう、なんじゃないですか?」
「ほんとに? ちゃんと学校指定の制服で、今年の一年生がつける水色のリボンをつけてるってことは、校長先生の許可を得てるってことだよね?」
「は、はい」
制服だけは学校側が売ってくれないとどうしても手に入らない。お母さんは反対して協力してくれなかったけれど、お父さんがそこは協力してくれた。一人じゃできないことや、校長先生も交えた話し合いにも同席してくれた。
そこで学校側が折れてくれてボクに女子制服を購入させてくれた。
ちなみに着るつもりはないが、一応男子用の学ランも購入している。そういう約束なのだ。
「つまり、学校側は君がその恰好で女性として学校生活を送ることを容認しているってことだ。それを否定する権利は誰にもない」
司書さんの言葉はすごく大人なものだった。学校が許して、ボクが許されたのだからボクにはこの格好ですごす権利があり、それは誰にも侵害することはできないと、司書さんはそういうのだ。
「たしかにそうですね」
司書さんが言っていることは何も間違えてない。約束にのっとった正しいことだと思う。
「だからね、君は、悪くない」
「っ……ありがとうございます」
その言葉だけでボクの心がどれだけ軽くなったか、この人に分かるだろうか。
ボクが思っていたよりもずっと重たくて、ずっと胸でくすぶっていた罪悪感と、クラスの人たちに奇怪な眼を向けられ続けて感じていた不安もその全部が軽くなったように感じた。
ボクは悪くない。この格好をすること自体に何も悪いことは無いと、そんなことを言ってくれた人は初めてだった。
「別に、誰かを傷付けたわけでもお金を盗ったわけじゃないんでしょ? だったら一つ嘘をついただけそこまで卑下することもない。胸を張っていいんだよ」
ああ、心地いいな。ずっとここにいたい。この人と話を続けていたい。
しかしどんなことにも終わりの時間はやってくる。
――ブブブ。
スマホが振動して、画面が灯る。通知欄にはお母さんから「着いた」と淡白な一言だけのLINEが届いていた。時刻を見ればもうすぐ三者懇談の時間だった。
「あ、そっか三者懇談だったね」
「はい……いってきます」
ボクは本を片付けてカバンを抱えて立ち上がった。
「あの、ほんとにありがとうございます。心がだいぶ楽になりました」
「こっちこそ、これくらいしか言えなくてごめんなさい。夏休みも私はここにいるから、いつでもおいで。三者懇談がんばってね」
そっか、学生は夏休みだが大人たちは普通に仕事があるんだ。だから司書さんも職場であるこの図書館にやってくるし、自習などに使うように解放もするだろう。つまり夏休みもいつでも来れるんだ。あの家にいたくはないし、エアコンも効いていてここにくるのもありかもしれない。
「はい。また来ます」
それだけ言ってボクは踵を返して図書館を後にした。
「あ、そういや司書さんのお名前聞いたことなかったですね」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
ボクがコクリとうなずくと、司書さんはボクと目を合わせて言った。
「田邊。田邊正昭です」
〇 〇 〇
安住の地を後にしてボクが向かうのはボクのことを認めてくれない母親のところだ。本当はお父さんの方が気は楽だったのだが、仕事だから仕方ない。ものすごく億劫だ。虫歯の治療に歯医者さんに向かい、院内の消毒の匂いを嗅いだ時に気が滅入る感覚に近いものがあった。
「はぁ……」
むしろよく来てくれた方だ。ボクのことが嫌いで、もう見限っている身で三者懇談なんてもう来ないものかと思っていた。
到着したという昇降口に向かうとお母さんを見つけた。
「お母さん」
ボクが声をかけるとお母さんもこちらを向いた。
「…………ほんとに、その格好でいるのね」
開口一番、ボクの格好を見てそんなこと口にした。
「今更何を」
呆れてため息をついてしまった。もうこの格好で学校に通い始めて三カ月が経つというのに、今更お母さんはボクの制服を呆れた顔で見てくるのだ。ほんと、ボクのことなんてどうでもいいんだなこの人。
「何よ、今更って。本来こんなことありえないのよ!」
するとお母さんはヒステリックに叫び出した。眉間に皺を寄せながら、キリキリと痛い視線をボクに向けてくる。
「……はぁ、私はてっきりあんたが学校にそんな恰好で行って、周りの空気に充てられてすぐにやめると思ってたのに」
「え?」
それは母が漏らした本音。女子のセーラー服を着て登校することになった時、お母さんは最後まで認めなかったけれど、ある日からパタンと何も言ってこなくなった。その時にてっきり諦めてくれたのかと思っていた。
でも本当は、あえてボクを泳がせて、周りの人達にボクのことを陥れてもらって、ボクが自主的にやめることをずっと待っていたらしい。
それを聞いた時、思わず絶句してしまった。
たしかに絶対に折れない人を諦め刺す方法としては非道ながらもありなのかもしれない。でもそれが、母親が自身の子供にする仕打ちとは到底思えなかった。ほんと、この人には何度失望させられればいいのか分からない。
「ほら、早く行くわよ」
「……うん」
それだけどうしてもボクの行動を止めたいのだろうと、言葉にするだけなら簡単だが実際に仕打ちとして身に受けるとやっぱり堪えるものがあった。
トボトボと一歩だけお母さんの先を歩き、教室まで案内する。教室の前には椅子が二つ用意されており、要はここで座って待ってろってことだろう。
お母さんはその席に腰掛けると、少し咳き込み、それまで細めていた鬱陶しそうな目から一変、丸々とした綺麗な眼になり、姿勢もそれまで以上に正し、薄く施した化粧も相まってとても上品な人に見えた。
それはもうほとんど憑依だった。
その様変わりにボクが驚いている間に、お母さんは空いた席をポンポンと二度叩いた。「お前も座れ」と言う事だろう。その有無を言わさない仕草はお母さんの威厳からなるものか、営業の仕事で培った揺るがない姿勢か、不気味にも従うしかない気持ちにさせられる。
しばらく座って待っていると、教室の扉がガラッと開いた。クラスメイトが一人、その母親、そして先生が出てきた。挨拶を交わして解散の流れとなっていた。
「…………」
「…………」
その時、面談を受けていたクラスメイトとは一度も話したことがない人だった。
いつもだったらお互い無視で終わるのだが、昨日吉村さんに咎められての今日だ。それまで話したことがない人でも気にはなるのだろう、不本意だが、少しだけ目が合ってしまった。
「こんにちは」
するとお母さんが突然挨拶をした。
「こんにちは」
向こうの母親も挨拶を返す。そこにあったのは何の変哲もない普通の挨拶を交わすだけのやり取り。だけど、つい数分前のヒステリックに叫ぶこの人を見ているし、ボクと一緒にいてその様子を他人とは言え、人に見られているのもお母さんは嫌でイラついてるはずだ。なのに、今ではニコニコと怖いくらい愛想を振りまいて、不自然にならないようにむしろこちら側から挨拶をする始末だ。ほんと、怖い。
「水瀬さん、お待たせしました」
すると、担任の先生がボクらを見て言った。
「はい、よろしくお願いします」
お母さんが大人しい笑顔で先生に対応する。なんならボクより先に立ち上がっていた。ただ早く終わらせたいのか、それともさっきみたいに子供のためを思う母親を演じるための処世術か、どちらにしてもやっぱり怖い。
椅子と机が四つだけ真ん中で固められている教室に入った。まず先生が座り、先生の正面にはお母さんが、その隣にボクが腰掛けた。
「はい。では、改めてよろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします」
先生がクリアファイルを取り出しながら挨拶をして、三者懇談が始まった。
「まず、こちらがあおいさんの成績です」
そういって先生はクリアファイルからペラ紙を一枚取り出して、ボクらに見せるように渡してきた。それはボクの今学期の成績表で、全教科五段階で点数が振り分けられていた。「5」が最高で、「1」が最低なのだが、ボクの今学期の成績は苦手な英語が「3」で、それ以外は全て「4」以上だった。ちなみに、全ての授業を見学して、レポートと授業準備をしている体育も「4」だった。これには体育の先生に感謝しかない。
「正直、ほとんど問題はありません。英語が他に比べて唯一「3」とありますが、それもまだまだ巻き返せますし、ほかの教科に至ってはすべて上から数えた方が早くお子さんの名前が出てきます」
「そうですか! それはよかったです」
お母さんはパッと安心したような笑顔を見せる。
はたからみたらそれはただ子供の成績に安堵する母親に過ぎないのだろう。だが――――
「がんばったじゃない」
「…………」
となりに座るボクのことを見下ろすように言ったその労いの言葉には、全くといっていいほど温度がこもっておらず、不気味でたまらなかった。
「え、えっと、出席に関しましても、少し欠席こそあれどまだ問題はありません」
その冷気のようなものは先生も感じたのか、話題をそらすように次の話題をふってきた。
「はい。その出席に関しましても、家の方でもまたしつけますので」
しつけ、だなんて高校生の三者懇談で聞く言葉じゃないだろう。しかもそれを何の思う所もないように口にするのだからこの母親は本当に自分が気に入らないものには容赦がない。先生も引いている。
それからはほとんど二者面談だった。先生がボクの成績については問題ないと続けて、今後の大雑把な計画、さらに一年生の間にある行事や模試などの説明が行われた。その中で、大学進学か専門学校、はたまた就職かなど高校卒業後の進路の展望を尋ねられたが、まだ高校に頑張って入学してから三カ月しかなく、あと三十三カ月も高校生活が残っていて、上手に答えられなかった。
「――――では、これで私からお伝えすることは以上になります。何か聞きたいことなどありますか?」
二者面談が十分ほど続き、先生がそう締めた。ボクからは何もないしお母さんが余計なことを言わなければそれで終わりなのだが、お母さんは「そうですね」と口を開いた。
「その、こんな〝愚息〟で大変お恥ずかしいのですが、他の生徒さんたちにご迷惑などかけてないでしょうか?」
「っ!」
愚息、愚かな息子。今目の前にいる担任の先生は無論ボクの身体のことは知っている。知っていながらボクを女子生徒として扱ってくれている。それはもちろんこの親がいる三者懇談の場でもだ。そんな先生に対して、家族であるお母さんが悪びれる様子もなく自然なトーンで愚息という言葉を言うのはさすがに先生も面喰らっていた。
「ちょっと」
「いえ、そんなことは一切ありません。たしかにあおいさんは静かで、目立つようなタイプではありませんし、誰も迷惑なんて思っていませんよ」
しかし先生はすぐに表情を戻して柔和な表情で微笑みながら告げた。
先生だって、昨日今日とクラスの空気がいつもと違うことはなんとなく分かっているはずだ。それを分かった上で、お母さんに嘘をついてくれている。
「そうですか。それはよかったです。何せ〝変わった子〟ですから」
変わった子、か。やっぱりお母さんわざとだよね。わざとボクが辱めを受けるような言葉選びをしてる。鬱陶しくて、苦しいけれど何も間違ってないから必死に我慢した。お母さんにとっても、もしかしたらみんなにとっても。
「すみませんそれともう一つ。この子に誰か特別仲良くしてくださってる方とかいらっしゃるのでしょうか? 何分、学校が楽しそうですので」
「え?」
お母さんがボクの友人関係を気にするなんて思わなかった。
「お友達ですかね? そうですね、同じ委員会の子で仲良くしてる子はいますね」
「やはりそうなんですね! その、もしよかったらその方のお名前を聞いてもいいですか?」
「ちょ、ちょっとお母さんッ」
「ちょっと黙ってなさいね」
「っ――!」
お母さんに緒方くんのことを知られるのになぜか無性に嫌で止めようとしたのだが、お母さんは静かにそれを制した。ただ一言、言葉選びこそキツいが声音はとても優しいものだった。でも今は、それが何よりも怖い。何も怒り叫び散らかすのだけが怖いんじゃない。ただ静かにだけどメラメラと燃えている激情がお母さんの声色と表情から感じ取れた。
「…………っ」
お母さんの言う通り、ボクは押し黙り先生が「え、えっと」と気まずそうに口角を釣り上げた。
「ごめんなさいね。それで、その方のお名前を」
「そうでしたね」
そこで先生は一度ボクの方に視線をよこした。「言ってもいいか?」という確認だったのだろうが、今のボクにNOという権利はなく、諦めたように首を縦に小さく振った。
「よく一緒にいるのは緒方陽彩くんって生徒ですね。彼も日頃は無口なのですが、同じ委員会というのもあってかやはりあおいさんのことを気にしてる素振りは見えますね」
「緒方、陽彩さん……」
お母さんは緒方くんの名前をたしかめるように口の中で転がした。お母さんのことを怖いと認識しているからか、お母さんの口から緒方くんの名前が出てくるのがすごく気持ち悪くてこれから何かよからぬことが起こりそうな根拠のない恐怖がしきりに湧いてきた。
「緒方さん、とてもいい人なんですね?」
「そうですね。彼も根は真面目ですので」
先生がまた当り障りのない言葉を返していた。今はとにかくお母さんの逆鱗に触れないように慎重に言葉を選んでいるのが分かった。
「てっきりうちの〝息子〟はこんな子ですし、教室では一人でいるかと思っていたのですが……よかったわね」
子供が独り寂しくしていないことを安堵するような言葉を口にして、残念がっていたお母さんは視線だけしっかりとボクに向けていた。母親が自分の子供が孤独でないことを残念がるなんて聞いたことがない。さすがに先生もその反応には思う所があるのか、先生の顔がそれまでにないくらい引きつっていた。時より眉がピクリと動いて、口元ポカンと開いてしまっていた。
「ほ、他に気になることなどありますか?」
「すみません、最後に一つだけ――――皆さんのことをバカにするつもりはないのですが、クラスの皆さんは息子の身体について知っているのでしょうか?」
これまた確信に迫る質問だったが、先生も慣れてきたのか、諦めたように「そうですね」と続けた。
「ハッキリ申し上げますと、大部分の生徒は勘付いてますし、確信に近い証拠をもっている子もいます。現に先日とある生徒から隠し事があると糾弾されたこともありました」
「そうなんですね、それは大変ご迷惑をおかけしました」
お母さんは口では謝罪の意を示しているが、その声色はボクが窮地に立たされていることが少しうれしく思っているようにも聞こえた。
すると、お母さんがボクのことをちらりと見て言った。
「あんた、クラスの子に糾弾されてなんて言ったのさ」
そんなこと家に帰ってからでもいいだろうとも思ったが、あえて自分の教室で、担任の先生を目の前にして言わせてくることに、お母さんからの悪意を感じた。もちろんつい昨日のことなのでわざわざ思い出すまでもなく鮮明に覚えている。あの時のボクはなさけなくもどちらを口にするのも怖くて、結局何も言えなかった。だから素直に「…………何も、言ってません」と小さな声で告げた。
するとお母さんはどこか呆れるようにため息をついた。
「自分の口で言えないなんて、ほんと情けない。自分がしてることも説明できないなんて、愚の骨頂よ」
「っ…………」
そんなこと、ボク自身が一番分かってるさ。なんでそんなことをこの人に言われなきゃいけないんだよ。どう憤っても事実が変わるわけでもお母さんが撤回するわけでもなく、ただただ自分が惨めになるだけだった。
もういい加減終わってくれと願いながら視線を誰もいない左下に落としながら、先生の改めての締めの言葉を待っていると、先生は予想外なことを言いだした。
「……あのっ、お母さん」
なんと先生の方からうちのお母さんに尋ねだしたのだ。
「なんでしょう?」
「その、これはあおいさんの担任教師として三カ月あおいさんのことを見てきて思ったことなのですが」
と先生は前置きをして、踏み込みすぎであると自覚しながらも言わなきゃいけないという使命感に目を輝かせながら踏み込んできた。
「あおいさんは並々ならぬ想いを抱きながら今を必死に生きています。お母様の考えを否定するつもりはありませんが、しかし何卒、〝彼女〟に向き合い、寄り添ってあげてはくれませんか?」
先生はボクのお母さんに向かって、ボクと向き合い、寄り添えとたしかにそう言った。
今日この三者懇談で先生はボクら家族の歪さに気が付いたのだろう。その根本的な原因はボクにあると分かっていながらも、その片鱗がお母さんにもあると思い至ったのだろう。それは大人としての正義感か、教師としての矜持か、正しいと信じるものに付き従った行動って感じがした。
かっこよかった。まさに人の先を生きる、先生という職業にあっていると思った。ボクも自分が思う自分の在り方をこんな風に突き進めればよかったのだが、行き当たりばったりで足踏みばかりしてしまう。
「…………えぇ、そうですね」
お母さんは意外にも素直に聞き入れた。てっきり反発するものかと思っていたが、さすがに赤の他人相手にそれは失礼だと分かっているのだろう。
「ですが」
なんて安心したのも束の間、お母さんはキリッと通る声で冷たく吐き出した。
一瞬気を抜いてしまっていた先生が気を引き締めるのが分かった。二人ともほとんど臨戦態勢だ。
「私は、この子のワガママを認める気は毛ほどもございません」
「「っ……」」
それはただただ冷酷で、太い筋が一本通った清々しいほどの宣誓だった。
真っ黒な瞳で、先生のことを射貫くその姿勢はたとえ担任の教師が相手であろうと一歩も引くことはないと冷たく突き放した。
先生が正しいと思ったことを突き詰めてお母さんに物申したように、お母さんも先生に対して自分の考えを改める気はないとはっきりと告げた。それは勇気を振り絞ったであろう先生への敬意にも思えた。
「そうですか……すみません、出過ぎたこと言ってしまいました」
「いえ、先生がどう思おうとも勝手です。三カ月も教師という立場で寄り添えば安い情の一つや二つ沸くでしょう」
淡々と解説しているように聞こえるが言葉の節々にはしっかりと毒が含まれていた。いくらボクのことが嫌いだろうと、他人からの眼を気にしないような母親じゃない。まして担任教師ともなるとこれから一年お世話になる人だ。関係を簡単に無下にするとは思えない。
「ですが先生。私は人に常識を逸脱した理解を強いてまで貫き通すワガママに正当性などないと思っています。今この子が推し進めているのはまさにそれです」
お母さんはボクの背に手を触れた。
「ッ……⁉」
寒気とも違う、恐怖のようなものが触れられた部分から背骨を通じて登ってくる。
もっと冷静に話し合いを進めると思っていたのだが、ボクにも先生にも効く毒を含んだその言葉はお母さんが本気で怒っている何よりの証拠だった。
「この子のワガママは人に不快感を与え続けます。そんなのを認める理由はどこにもありません」
お母さんは姿勢を正して、それが心からの本意であると語気だけでなく姿勢でも伝えていた。
「それに――――こんな生き方、茨の道ですし、その先に実っている薔薇も他人からは理解されない独りよがりな造花にすぎません。この子の思想は植えてはならない〝ケシの花〟のようなものなんです」
ケシの花、綺麗な花弁こそ見せるが麻薬成分が含まれ、植えることが禁止されている花だ。
咲いたケシの花を美しいと思う人はいるかと思うけれど、その実態は麻薬の原料になり得、人を傷つけ、狂わせる花。ボクもそれと同じだと、この母親は言うのだ。
それを聞いた時に思いだしたのは吉村さんの表情だった。
氷のように冷たく、その感情の元は心からのボクへの軽蔑だと分かるような鋭い眼に、粘っこく鼓膜に残るような抑揚のある声。もとから万人に認められるつもりなんてないし、認められたいとも思わない。なんてボクが思っていても相手側のボクへの悪感情は変わらない。どれだけ認めてくれる人が増えようと、周りの意見が変わろうとボクを無理な人は絶対に何があっても生理的に無理であることは変わらない。そんな道を歩ませたくないのだろう。
でもでも、でも…………そう考えるお母さんの気持ちは分かる。分かるけれど、それはあくまで一般論として分かるだけだ。親が子の将来を案ずる、それは当然のことだと思う。でも、それだけじゃボクのこの生きづらさと気持ち悪さを覆い隠せない。
「は、はい……」
ほとんどお母さんから先生へのお説教になっていた。お母さんの強い視線と語気を正面から受けて先生はとっくに委縮してしまっている。
今この場でどちらがボクのことを思ってくれているかと言えば、多分二人ともだ。
先生は今のボクを。お母さんは将来も含めたボクの全てを。二人ともそれぞれボクのことを思ってくれているから口にしてくれている。だからボクはどちらも助けられない。どちらかを助ければ、どちらかの敵になるから。
だからボクにできることはあの日みたいにお母さんがヒートアップしないように、早い段階で止めることだけだった。
「お、お母さん、もういいっ――――」
お母さんにもうやめてもらおうと、お母さんに手を伸ばした瞬間、反射的にお母さんはボクの手をはじいた。
「ッ!」
パチンッ! と勢いよくはじかれた音がした。
一瞬何が起こったのか分からなかったが、手のひらに感じる痛みとボクの手を弾いたお母さんの手を見て何が起こったのか分かった。
「…………」
「…………」
先生も今の反射的で迷いのない手をはじく行為には険しい顔をしていた。
お母さんがボクに手を上げることはあまりない。そんなことをしても意味がないともうどこか諦めているからだ。だけど、そんな母親でも、担任教師、それも自分の正義には従順な教師を前に自分の子供に手を上げてしまったことはマズいと思ったのだろう。静かな静寂が教室を包んだ。
「……お話も済んだことですし、そろそろお暇しましょうか」
「え、あ、はい。わかりました」
お母さんが怖いくらいのにこやかな微笑みを浮かべながら先生にそう告げると、先生も片づけを初め、席を立った。
「本日はご足労いただきありがとうございました」
「いえ、こちらこそこのような機会を設けていただきありがとうございました」
「これから一年ほど、よろしくお願いいたします」
「はい。こちらこそ」
それは端から見ればただの常套句にすぎないかもしれないが、先ほどの会話を聞いた後ではお互い宣戦布告しているように見えた。
「あおいさんも、改めてよろしくね」
突然先生に話しかけられて咄嗟に先生の方を見上げた。
先生はボクに向けてとても優しい微笑みを向けていた。それは疲弊した笑顔にも、ボクに向けての安心させるための笑顔にも見えた。