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第二章

 

「これ、長峰さんに渡しておいてくれない?」

 とある放課後、俺は半日遅れた課題の提出のために職員室を訪れていた。担任に課題を提出して帰ろうかと思っていたのだが、おつかいを頼まれてしまった。

「長峰さんって、室長の?」

 高校に入ってそろそろ二カ月、クラス全員の名前を憶えていなくても室長の名前くらいは憶えているはずの時期だ。だけど俺自身、クラスの室長である長峰明日見とほとんど話したこともないので若干不安だった。

「そ。連絡先くらい知ってるでしょ?」

「え?」

「え?」

 聞き捨てならない若い担任の言葉に思わず素っ頓狂な声を出してしまったがここで「知らないですけど」と言うのはなんか負けた気がして言えなかった。

 確かに先生、いかにも順風満帆な高校生活と大学生活を送ってきたって感じの雰囲気だ。さぞ同世代の人たちの連絡先も簡単に入手できて、入手すべき人たちもまわりにたくさんいたんだろう。

 いや別に、長峰室長のことを、連絡先を入手すべき人じゃないとは思ってないけどね?

 ただ機会もないし、俺個人で知ってても話すことはないって言うか、別段連絡することなんてないし…………なんか、言ってて寂しくなってきた。そんな話を持ち出すなら、俺が個人で連絡を取るような人なんて、この高校に入ってから一人もいないんだよな。はははっ……はぁ。

 先生から長峰さんに渡す茶封筒を預かり、職員室を後にした。なんか意地で資料を預かってしまったけれど、ここから学校ないで連絡先も素性も知らない人を一人探すのは骨が折れそうだ。

 もし部活に入ってなくて、帰宅してたらそれだけで詰みだけど、とりあえず可能性がありそうなところを当たってみることにした。

 まずは教室。重たい扉を開けると、そこに俺のお目当ての人はいた。

「でね? それでね」

「ははっ、ウケる」

「マジかよ、引くわ」

 いたのはいたのだが、女子三人ほどで談笑の真っ最中だった。

 ついさっきまでみんないて、色んな色ににぎわっていた教室が、今は一色しかない。女の子だけではあるけれど、ピンク色ではない、ちょっと残虐性も含んだ赤色がかった色をしていた。

 いつもならそそくさと我関せずの精神で去ってしまうのだが、今俺の手の中には先生から預かった長峰さん宛の茶封筒があるので勝手に帰るわけにもいかない。しかし、俺がこの談笑の中に声をかけて突っ込んでいく度胸なんてあるわけもなく、板挟み状態だった。

 だったらもう取れる手段は一つしかない。

 俺はそーっと音をたてないように扉を閉めて、何食わぬ顔でそそくさと自席に座り、カバンからこの前の図書委員で借りた文庫本を取り出し、両耳にイヤホンをはめて音楽は流さず、読書をしているふりをして読んだことのあるページを無意味にめくった。

 その際、机には先生から預かった茶封筒を置いておいた。長峰さんがこのことを知っていれば御の字だし、俺のことなんて無視して話を続けていたらそれはそれで俺は今のうちに覚悟を決めて期を窺うだけ。

 時々、チラチラと視線を感じる。長峰さんからのもあるだろうが、それ以外の人たちのもあるだろう。彼女らの視線はなぜ俺がわざわざこんなうるさいところでイヤホンをしてまでも読書を続けているのか疑問視するもの、それか鬱陶しがっているもの、その二つに一つだった。みんな俺と言う異物を疎ましく思ってる。

 まぁそりゃそうだよな。俺だって友達しかいなかった教室に、知らない女子が来たら気まずい。意識せずとも声のボリュームも下げたりしちゃうかもしれない。

 でもどうやら、そうするのは陰キャの俺だけだったらしい。

 俺がいようともいなくとも、彼女らの声のボリュームが下がることはなかった。

 それならそれでよかった。俺の覚悟を決める時間ための時間が多くなるだけだ。

「そういや水瀬さん、戻ってきたね」

「っ……」

「ねぇ、なんか色々あったらしいけど」

 彼女らが水瀬さんの話をしだしたのが聞こえてきた。

 水瀬さんに関して、俺は数日前に実際に彼女の口からカミングアウトを受けて事実を知っているけれど、他の人たちに関してはまだよくわかってない。が、俺の中でも珍しくタイムリーな話題なだけあって文字を追う視線が止まった。

「結局あの子、何がしたいの? いい加減鬱陶しいんだけど」

「あれみんな気づいてないと思ってるのかね? だとしたら自意識過剰すぎだよね」

 少し彼女らの会話に耳を傾けて後悔した。その内容は水瀬さんへの罵倒だった。

 クラスでの水瀬さんの立ち位置が悪いのはなんとなく雰囲気を感じてたら分かった。でも、それをこうして肌で感じるのは初めてだった。ピリピリと肌の外で炭酸がはじけているように痛い。

「そ、そうかな……?」

「あれ? 明日見どうでもいいかんじ?」

「ど、どうでもいいっていうか、うーん……ごめん、まだよくわかんないや」

 他の二人がはっきりと水瀬さんに難癖をつけている中、長峰さんだけは曖昧な返事にとどめていた。どうでもいいと軽んじているわけではなく、そのうっすらと浮かべる笑みからはとりあえずこの水瀬さんの話題からそれたいという意思が垣間見えた。

「あれ、みんなが気遣ってるの分かってんのかな? もうみんなとっくに知ってるよね」」

「てか! この前あいつの同中のやつが配ってたあいつの中学の頃の写真見た?」

「ああ! あれね見た見た! ほんとにどこにでもいるただの陰キャだったな」

「あ……えっと」

 しかし長峰さんの意思は虚しく、他の二人はケラケラ下卑た笑い声を挙げながら水瀬さんのことを罵倒する話が続いた。

 クラスみんなの水瀬さんへの意見があまりいい方向に向いていないことはなんとなく雰囲気で分かっていたけれど、やっぱりそんな意見を生で聞いてると、耳の奥が気持ち悪くなってしかたない。

 罵倒こそされているけれど、どれも中身がなくてただ叩いても問題ないサンドバッグくらいにしか思っていないのだろう。仲間内の会話で、お互いの嗜虐心を満たすためだけに祀り上げているって感じだ。ほんと、気味が悪いったらありゃしない。

 ノイキャンなんて機能がない安いイヤホンで、中身のないつまらない会話を耐えるように聞き続けること十数分。俺の肩をつつく人がいた。

「緒方くん」

 イヤホンを外して見上げると長峰明日見が少し申し訳なさそうな顔で俺の前に立っていた。教室を見回すも、もうそこには誰もいなくて、今教室には俺と長峰さんしかいなかった。

「えっと、その……その茶封筒、もしかして私の?」

「ああ、先生から預かった」

 俺は机に置きっぱなしだった茶封筒を長峰さんに渡す。やはり彼女なりに心当たりはあったんだろう。

「ありがとう」

 長峰さんが茶封筒を受取ったのを見て、俺は本を閉じて立ち上がった。

「じゃあ、俺は帰る」

 これで任務完了。これでやっと帰れるとため息をついた。まぁ、帰ったところでこの悶々とした気分が晴れるわけではないが。

「あの、待って、ください……」

 しかし背後から声で制止されて振り返ると、長峰さんが茶封筒を胸の前で抱きながら俺のことを呼んでいた。

「その、さっきはごめんなさい……汚い話して……」

 汚い話。水瀬さんへの罵倒のことだろうか。確かにきれいではないし、聞いていていい気分になる話ではなかった。しかし、それを彼女が俺に謝る理由は何一つない。

「いいよ。俺がここにいただけだし」

「でも、それはこれを私に渡すためですよね? だったら」

「だとしても。長峰さんに声もかけないで居座ってた俺の自業自得だ」

 それに、長峰さんはあの会話を止めようとしていた。自ら積極的に参加することはなく、時折話を逸らすように誘導しながら、だけど逸れなかったらつまらなそうな愛想笑いを浮かべていた。長峰さんが水瀬さんの悪口を言っていないのは知ってるし、長峰さんから謝られるいわれは一つもない。

「だから謝らなくていい」

「…………」

 だけど長峰さんは俺の返事に納得していない様子だった。俺からすればなぜ彼女がそこまで申し訳なく思っているかの方が謎だった。

「でも……私は止められなかった」

「ん?」

 長峰さんはボソッと独り言のように吐き捨てた。

 全く状況がつかめない。長峰さんがなぜそこまで思いつめているのか、それを俺に吐露しているのか、今目の前で起こっていること全てが分からなかった。

「……緒方くん。これから時間ありますか?」

「え? なんで?」

 一応次の電車まで時間はあるし、用事もないし一本遅らせるくらいなら問題ない。

「えっと、ちょっと話したいことが」

「なに?」

「水瀬あおいさんのこと」

「……なんで、水瀬さんのことを俺と話したい」

長峰さんがなんで俺にそんなことを提案してくるのか全然その意味が分からなかった。

「緒方くんなら、水瀬さんにあんなこと言わないと思って」

 あんなこととは、先ほどまで言いふらしていた罵倒などの罵詈雑言のことだろう。

「そりゃ、絶対言わないけど…………」

「だよね。意外とそう言う人、クラスにいないんだよ」

「え」

 長峰さんは疲れた表情でため息をついたかと思うと、手に持っていた茶封筒を机に置いておもむろに椅子に座った。それはつまり、腰を据えて話そうということだろう。なんかうまいこと話しの流れに流されてしまったような気もするが、仕方ない。俺は彼女の前の席に座り、椅子を反転させて彼女の正面に向かった。

「クラスのみんなは、水瀬さんのことを「きもちわるい」って思ってるよ」

「……はぁ?」

「みんな水瀬さんのこときらいみたい。

『男のくせに女の格好するなんて気持ち悪い』

『それを言わずに隠し通そうとしてるのが傲慢だ』

『時代の流れが生んだバケモノ』

 すくなくとも、私はそんな言葉は聞いてきたよ」

「…………何が言いたいの?」

 はっきり言ってすごく不快だった。突然聞きたくもない言葉をつらつら並べだして、長峰さんの目的が曖昧な今、俺はただただ不快でならなかった。

「私は、そんな現状をどうにかしたい」

「……どうにかって……」

 長峰さんが語るどうしようもなく正しい嘆きに、俺はどこか辟易としていた。

 たしかに今のクラスの空気が最悪なのは長峰さんの言葉を聞かずとも分かる。その台風の目には水瀬さんが佇んでいることも知ってる。だけど、だからってそれをどうにかしようと行動することは難しい。思うだけなら勝手だ。だけど、目の前にいる長峰明日見はそれだけじゃ満足しないようなきがした。

「何かするのか? これ以上クラスをかき回したら、まだ一学期なのに色々崩壊するかもしれないぞ」

 もしかしたら標的がさらに増えるかもしれない。たしかに長峰さんにはカリスマ性的なものはあると思う。鶴の一声とは言わずとも、彼女が司会をするHRは驚くほどテキパキと進むし、先生からの評判もいい。

 だけどそれまでだ。彼女がすごいように、俺を含めたクラスの有象無象にだって同じ十代なりの可能性と、意志がある。人並みに目立った行動は嫌悪するし、人並みに鬱陶しいと感じる。そんな感情をみんなが持っているからこそみんな水瀬さんへの当りが強くて今のような状況になっている。もし今長峰さんが何か行動を起こせば、みんな当りが長峰さんにも向くだけのような気がする。

 そうなれば、長峰さんと水瀬さん、二人ともが圧力を受けて、次第にみんな、サンドバッグのように二人のことを思うかもしれない。それじゃあ、何の意味もない。

「今は、まだ何もしない」

 しかし長峰さんはキッパリとそう言い切った。

「今は?」

「うん。まず、土台をつくらないと――――まず、一番初めにすること。水瀬さんと、友達にならないと」

「…………」

「友達にならないで、赤の他人に何かされても困惑するだろうし、もしかしたら何も気づかないかもしれない。それに、私はもっと水瀬さんのことを知りたい。友達にもなりたい」

 純粋だった。策略も打算もあるだろうが、それを踏まえても、彼女の根本にあるのは仲良くなりたい、友達になりたいという純粋な感情だった。

「それを踏まえて一つ、緒方くんに聞きたいことがあるの」

「何?」

「緒方くんは、どうやって水瀬さんと仲良くなったの?」

 長峰さんが俺に声をかけてきた理由は俺が水瀬のこと悪く言わないからというのはたしかにあっただろうが、それだけじゃわざわざ口外する理由にはならない、何かあるんだろうなとは思っていたけれどそんなことか。しかし、その前に前提のすり合わせをしないといけない部分があった。

「待て、俺と水瀬が仲良し?」

「え? 違うの?」

「違うって言うか……そもそも水瀬さんとは図書委員以外でほとんど話さないぞ」

「ああ……やっぱりそうか……」

 長峰さんは俺から期待していたものが聞けなくて落胆――――はしなかった。と言うより元からあまり期待していなかったって感じだ。

「でも、緒方くんくらいなんだよね。水瀬さんと誰かが話しているのを見たの」

「……俺でも教室では話さないけどな」

「そうなんだよね。水瀬さん、全然しゃべってくれないんだよね…………緒方くんは水瀬さんが何か興味ありそうなこと知らない?」

「何も知らん。水瀬さん、ほんとに自分のこと話そうとしない」

 そもそもまだ出会って一か月くらいしか経ったないし、それも毎週の図書委員でしか話さない仲で、水瀬さん相手ならこれ以上仲睦まじい方が不思議なくらいだ。

「ガード硬いな……」

 長峰さんは困り果てたように頬杖を突いて俺から視線をそらして考えるような素振りを取った。

「…………ねぇ、もし答えたくなかったら答えなくてもいいんだけどさ」

 しばらく考えてから、長峰さんは慎重に俺にたずねてきた。

「うん」

「その、噂の発端になった……ち、痴漢の話って、あれほんとなの?」

「…………」

 なるほど、その話か。水瀬さんが痴漢にあったなんて話はまだクラス内では知られていないと思っていた。俺は一度先生から事情聴取に呼ばれて、先生や大人の前で話したが、好んで誰かに言うようなことはしなかった。事情聴取に携わった先生もさすがに個人情報だし、センシティブな話題でもあるから慎重に扱っていた話題だ。なのに、長峰さんは知っていた。先生から聞いたとは思えないし、もしかしたらあの電車内に同じ学校の生徒がいたのかもしれない。そう思うと、あの日の悪感情と一緒に、気持ち悪さが腹の奥からドッと沸いてきた。

「ほんとだよ」

 今この場で嘘をついても意味がないと思ったのでここは素直に答えた。

 俺と長峰さんしかいない教室がさらに静まり返った。

「……そう、なんだ……私は徒歩通学だから、経験はないけど……うん。めちゃくちゃ怖かっただろうな…………えっと、それで、緒方くんはなにを?」

「俺は水瀬さんと一緒に車外に逃げた」

「じゃあ、緒方くんが助けたんだ」

「……そうするしかなかったから……」

「ははっ、ヒーローじゃん」

「…………」

 ヒーロー、か。たしかに結果だけみたら助けたことになるのかもしれない。

 長峰さんは優しい笑みを浮かべながら結果論を述べた。「ヒーロー」なんて言われて、そんな大層なものじゃないと思う反面、やはりどこか照れくさい気持ちもあった。結果だけ見れば、たしかにそう捉えることもできるから。

「うーん……その言葉は、ありがたく受け取っておく」

「うん。そうしておきなさい」

 長峰さんはなぜか誇らしげにフンとない胸を張った。

「そう言えば、俺からも一つ質問いい?」

「なに?」

「なんでそんなに水瀬さんにこだわる。クラスの空気が悪いだけ、じゃないだろ? なんでそこまでして友達になりたいなんて思う?」

「……」

 確かに水瀬さんを中心としてクラスの空気は悪いのは事実だが、長峰さんがあまりにも興味を示すものだから、それだけじゃない気がしていた。

「私が水瀬さんに拘る理由か……緒方くんには答えてもらったし、私も答えないと筋が通らないか」

 そう言うと長峰さんはポケットからスマホを取り出して画面を操作しだした。

「私たちの話、どこまで聞いてたか知らないけど、私は水瀬さんの中学のころの写真を別のクラスの子に見せてもらった。それで身体は男の子だって知ったんだけど、つまり彼女がセーラー服を着はじめたのは高校からでしょ? つまり高校デビューって言えなくもないわけだ」

「お、おう……」

 まぁ、そうなるのかな? たしかにイメージはがらりと変わっているはずだ。

「もちろん、一緒にするわけじゃないよ? だけど、高校デビューって点なら、私も同じだから」

 そう言って長峰さんが差し出してきたスマホには一人の女性の写真が写っていた。その女性はメガネをかけていて、腰まで届きそうな長髪な大人しそうな女性だった。

「ん? 誰?」

「私」

「えぇっ⁉」

 写真の女性と長峰さんをがっつくように何度も交互に見返す。

 写真の女性はメガネをかけているが、長峰さんはかけてないし、長峰さんの髪は本当に今風なウルフカット、ここまで長髪じゃない。そして極めつけは写真の女性からはどちらかというと俺に似た陰の雰囲気を感じるが、今の長峰さんからは微塵も感じない。正真正銘リア充の空気が彼女の周りには漂っている。

「そ、そんなにみられると恥ずかしい」

「いや、悪い……しかし……すげぇな」

「えへへ、がんばった」

 長峰さんはわざとらしく胸の前で両手を握りガッツポーズをとる。

 どこかあどけなさを感じる、いつも端から見ているだけでは感じられない長峰さんの姿に一瞬だがドギマギしてしまった。

「そっか、高校デビューか」

「うん。もちろん、水瀬さんの方が何倍も苦労してるだろうから、同じだなんて思わないけど、それでも、同じ努力をしてきた人が、何も知らない人にこうして迫害されてるのは、私は絶対に許したくない」

 そう語る長峰さんからはすごく強い意思のようなものを感じた。理由を実際に口にしたからか、その言葉にも説得力があった。彼女なりの決意のようなものだろう。

「だから、緒方くんも協力してね!」

「はい? きょ、協力?」

「うん! もし水瀬さんに何かあったら、また助けてあげてね。ヒーロー!」

「…………っ」

 長峰さんは恥ずかしげもなく、屈託のない笑顔でそう俺に言った。

 いやぁ、参ったな。水瀬さんのことが気にならないとなれば嘘になるが、でもそれだけだった。週一回の図書委員で会うメンバー、一度修羅場を抜けてきただけの被害者、ただそれだけ。

 でも、さっきまでの長峰さん達の下賤な話を聞いて、長峰さんの決意を聞いて、もう少し関わっていたいなと思ったのも事実だった。

「…………まぁ、うん。ほどほどに」

 ここで大見得切って恥ずかしい思いはしたくなかったし、責任も取れる気がしなかったので曖昧に答えを濁しておいた。長峰さんはガッカリしたようにも納得しているようにも見える表情で「うん」とだけ言って、次にへへへと笑った。


 〇 〇 〇


 朝七時半。もうほとんど夏の色をしている空気を、ファンデーションを塗った頬で感じながら、ボク、水瀬あおいは自転車に跨る。

「あおい」

 すると玄関から刺すような勢いを含んだ母の声が聞こえた。

「あんた今日何時に帰ってくんの?」

「え? とくに何もないからいつもどおり」

「そ」

 淡白な返事を最後に母さんは玄関の扉を勢いよく閉めた。

 「いってきます」「いってらっしゃい」の簡単な挨拶すらない冷めきったこの関係は本来おかしいのかもしれない。でも、そんな関係にももう慣れた。ふさぎ込むようにイヤホンをして、逃げるようにペダルに体重を乗せた。

 本当なら自転車に乗って駅へ向かうのだが、ボクは駅とは反対側にハンドルを切った。

 ここから学校までざっと10㎞以上ある。だから電車通学を選択したつもりだったが、ボクのスマホが駅のICカードリーダーに触れることはほとんどなくなってしまった。

 ボクが帰り道に痴漢に遭った日、あの日からボクは電車に乗ることができなくなってしまった。駅を前にすると足がすくんで、何とか改札をくぐれたとしても電車のドアをくぐることはついぞできなかった。母さんも父さんも仕事があるからボクを送っていくことができなくて、ボクは片道10㎞の道を自転車で往復するしかなかった。足は痛くなるし、雨の日なんてカッパを着ても制服のどこかは必ず濡れていてただでさえ憂鬱な登校という行為がさらに辛いものになる。

 さらに言えばここ最近は、そんな辛い思いをしてついた先の学校も辛い。

 ボクは一度も明言していないのだが、クラスのみんながボクの身体のことについてほとんど確信を持ち始めた。いつ勘付かれたことをしたかと思ったが、一番可能性があるのはこれまた痴漢に遭って部屋で寝込んでいた時だろう。あの間にボクと同じ中学のほとんど話したこともない連中が色々言いふらしたのだろう。


『たかが痴漢一度で寝込むなんて弱すぎるだろ』

――――と思われそうだが、ボクにとってあの行為はボク自身の存在を否定されることに等しかった。色んな人に無理を通してもらってなったこの姿も、やっとの思いで手に入った胸を張れる自分の尊厳も、その全てをプクプク肥えた男一人の性欲を満たすだけのおもちゃにされて、あの一瞬で自分を見失ってしまった。

 自分が安心して生きていける形なんてこの世にないんじゃないか、今日までの自分がすべて無駄だったんじゃないかって、耐えがたい絶望が、触れられた臀部から全身に伝って行った。

 さらにもっと表面的な話をすれば、もしボクに痴漢をしていた男が、ボクが男だということに気づいたら何をしてくるかわからない恐怖もあった。前例なんて聞いたこともないし、どんなことが起こるのか想像もできずに、騒ぐこともできず、助けを呼ぶこともできなかった。

 あの日、もし仮に緒方くんが車外へ連れていってくれなくて、自分が降りる駅まであの仕打ちを受けていたとしたら、ボクはまだ抜け殻のように部屋で一人引きこもって、何か大事なものがすっぽりと抜け落ちた、吐き出せなかった汚物が溜まって身体の内側から腐っていたかもしれない。

 そんな経験をして、電車に乗ることができなくなってしまった。どうしてもあの日のことを思い出して、足が動かなくなってしまうんだ。だから仕方なく、今日も今日とてこうして自転車を漕いで行きたくもない学校へ向かう。



 憂鬱な毎日の中、週に一度、月曜日だけはほんの少しだけ学校へ向かう足が軽かった。

 前日までの土日の二日間、ボクを邪険にするお母さんと顔を合わせ続けて家にいたくないという気持ちが募って、家にいるよりはましと消去法のように学校に足が向くというのは大きいと思う。さらに、男女の違いが如実に出て毎回見学するたびに嫌な気分になる体育もないというのもなかなかうれしい点だ。

 それと、放課後にある図書委員の仕事を心のどこかで待っている自分がいた。

 ただ同じ図書委員の男の子と二人で黙って本を読んで、たまになんてことない会話を交わすだけの時間なんだけど、そんな時間だけが、ボクが唯一誰かと一緒にいられる時間だった。

 そして今週も、月曜日の放課後がやってくる。

「こんにちは」

 図書館のカウンターで待っていると、その人、緒方陽彩くんは毎度のごとくボクに声をかけてきた。

「こんにちは」

 ボクも同じように返して、ほとんど無意識に座り方を直した。

 毎週月曜日、それはボクと緒方くんが図書委員の仕事で一緒に図書室を訪れる時間だった。緒方くんにだけは自分でボクの身体のことを言ったし、彼もそれを理解してくれた。そんな人ほとんどいないので、どうも彼といると他の人とは違う緊張をしてしまう。

「そういや、来週からテスト期間だな」

「え、うん」

 今はまだ6月の頭だが、もう来週にはテスト発表があって、部活委員会ともに無くなってしまい、本格的にテスト週間が始まる。

「俺どうしても歴史がな……ちょっとキツい」

「ボクは英語。あれなんなのマジで。高校入ってから覚える単語量おかしいよ」

 今のボクのカバンの奥には一回り小さい英単語帳が入っているが、本の消耗とボクの頭への吸収率が見合ってなさすぎる。

「そもそも日本語だって長い時間かけてここまで習得したのに、突然外国語を頭に詰め込むなんてどうかしてるよ」

「ははっ、ごもっともだ」

 緒方くんは鼻で笑いながらも共感してくれた。

 今日も今日とて図書館内に人はまばらで、先週よりペンを握ってる人が少し多いかどうか微妙なくらいだった。そんなどこかうっすらと嵐の前の静けさのような雰囲気を感じていると、いつもはほとんど声をかけてこない、図書館の司書さんが声をかけてきた。

「あの、二人とも、ちょっといいかな?」

「なんですか?」

 少し太った、丸眼鏡をかけた温厚な男性の先生で、どうも彼の周りでは時間がゆっくりに進んでこちらもリラックスできるような気がする。そんな先生だが、あまり向こうから声をかけてくることは無くて、いつもどこか俯瞰しているような人だった。

「二人は家でも本読むの?」

 確認するように司書さんが尋ねてきた。確かに今日は開いていないけれど、普段は文庫本を開いていることが多いし、何よりここで借りて帰ることがほとんだ。

「俺は家だとあんまり読まないですね。主にここか、授業の休憩時間ですかね」

「ボ、ボクは家でもたまに……や、やることないので」

 ほとんど癖のように自虐を入れてしまった。ほんとに悪い癖だ。人とあまり話さなくなって中学生のころからある自分の悪癖を忘れてしまっていた。

「そっか。じゃあそれを踏まえて二人に提案するんだけど、二人とも図書館便りのコラム書いてみない?」

「コラム?」

 先に返事したのはボクだった。緒方くんの顔はどこかもうすでに面倒くさそうな顔になっていた。

「うん。コラム。毎月図書館から、図書館便りってのを発行してて、その一角に生徒の誰かが読んだ本について書いてもらうコーナーがあるんだよ。それで、二人どうかなって思って」

 図書館便りの存在は知っている。今月入った新刊とかが載ってた気がする。だけど、そのコラムというのは初耳だ。

 こういう中学生の頃には考えにくい少し踏み込んだ作業があるのが高校生らしいなと少しだけ思った。それに、ただやることがなくて消去法的に行なっていた読書趣味にインプットするだけでなくアウトプットする場が設けられるのはとても興味深かった。

「俺は遠慮しておきます。ここに来るまでロクに本とか読んでこなかったので、何かを書けるほど読んでるとは言えないです」

「そんな読書量なんて気にしなくていいのに。ただ読んで、よかった本について書いてもらえれば」

「でも……遠慮しておきます」

 緒方くんは司書さんの説得虚しく断っていた。ただ、司書さんが緒方くんにした説得はボクにも響いた。少しだけ軽くなった気がした。

「水瀬さんは、どうかな?」

「ボクは…………せ、せっかくならやらせてもらおうかな」

「え?」

「ほんと! ありがとう!」

 ボクが承諾すると、緒方くんは驚いた様子を、司書さんはどこかホッと歓喜するような様子を見せた。

「ただ、一つだけいいですか?」

「ん?」

 仕事を引き受けるのはいいが、一つだけ気になる部分というか、一つ提案したいことがあった。

「その、PNとかでもいいので、誰が書いたのか分からなくしてほしいんです」

 ボクは高校をそつなく卒業したい。しかしもうボクの知らないところでは種火はできてしまっていて、ボクが何か目立った行動を取ればすぐに周りに燃え移ってしまうかもしれない。クラスの乾燥しきった空気はよく火が燃えそうで、些細なキッカケで命取りになってしまいそうだった。だから、せめてボクだけのなかで完結させるために、緒方くんと司書さん意外にボクが書いているというのは知られたくなかったのだ。

「それは、えっと『とある図書委員A』みたいな感じがいいってこと?」

 司書さんの例えに、声こそ出さなかったが緒方くんは目をそらして笑っていた。

「まぁ、はい。そんな感じで」

「そういう事なら全然OKだよ! 今私が言ったのでもいいし、なんなら毎回PN変えてもらっても大丈夫だから! また決まったら言って」

「はい。ありがとうございます」

 ボクがそれを承諾して、二人の間で契約のようなものが締結された。

 それから司書さんは何枚か、去年まで書いてた先輩のバックナンバーをくれた。「本」と一口に言っても、小説やエッセイ、なんなら漫画まであったし、ガッツリネタバレをしてるものもあった。そこまでの過程が面白い作品だったり、あまりに有名でほとんど周知の事実だったりするものだけだったけど、人への勧める方法だけでも色々あるんだなと、漠然と思った。

「ちなみに、まだ誰にも書いてもらってない今月号が明後日発行なんだけど、もう書きたい本決まってたりする?」

「いや……さすがにまだ」

「だよね。ううん全然大丈夫。毎月頭に発行するから、基本的に前月末か、上旬中には出してほしいかな。ネタバレも理由があったらOKだし、公序良俗に反してなかったら大体OKにしてるよ」

「なるほど…………ふっ」

 バックナンバーに目を戻した緒方くんは時より読み進めながら小さく笑っていた。そんな笑える文章が書けるとは思えないけれど、書けたらいいな、なんて楽観的に思った。

「とはいっても二人とも来週期末発表だよね? 基本はそっちに集中してね」

「はい……」

 ちょっとたのしそうなことがあってもすぐこれだ。まぁこればっかりは仕方ない。

 来週から始まる期末テスト期間のことを脳裏の片隅に置きながら、いつもの図書委員の仕事をテキパキと済ませる。最近、図書館についてすぐに本を出すよりも、終わる直前に出して、その放課後に帰ってきた本もまとめて書架に戻した方が効率がいいことに気付いて、ボクと緒方くんが担当の月曜日はそうするようにしている。

 それにしてももう期末テストで、それが終わったらすぐに夏休みか。なんとか一学期は事を荒立てずに済みそうだ。この格好で学校に通うことに不安は数えきれないほどたくさんあったし、実際被害にもあったけれど、想像していた最悪からは少しだけ距離があった。体育以外の出席は足りてるし、今のところ問題はない。もうみんなとっくにグループは出来上がっているし、夏休みを経て凝り固まればどのグループにも属さないボクみたいな部外者への興味も去るだろう。だからボクはかわらない。これからもボクがボクであること以外に事を荒立てずに、穏便に過ごす。

 単行本の背表紙を人差し指で押し込み、書架に戻した。

「よしっ」

  ボクがカウンターに戻ると、緒方くんは律儀に待ってくれていた。

「じゃあ帰るか」

「うん」

 なんで彼が待ってくれていたのかは分からないけれど、理由はないが少しそれがうれしかった。

 図書館から昇降口まで歩き、下駄箱に入れたローファーに履き替える。さすがに汚れが出てきたローファー、靴は多少汚れていた方が味があると言うが、それをひしひしと実感していた。今まで履いたこともなかったローファーという靴が、確実にボクの足に合って、ボクのものになっていく感覚がたまらなくうれしかった。

 つま先を地面でトントンとついて、しっかり履く。

「じゃあ、また明日」

 何気なくそう緒方くんに伝え、駐輪場の方へ去ろうとした瞬間、違和感があった。

「え? 駅じゃないの?」

 しまった。忘れてた。

久しぶりの委員会で油断した。ボクが電車に乗れなくなって、毎朝10㎞以上も自転車で通っているということを、まだ緒方くんに伝えていなかった。

「いや、その、今日は親が迎えに来てくれてるから」

「そうか……ならいいんだけど」

 咄嗟についた嘘だったけど、まぁ現実的なところだとこれくらいだろう。これだったら彼も詮索せずに帰ってくれるだろう。

「じゃあ、ここ一か月、登下校の電車で水瀬さんのことを見かけないのも、毎日ご両親に送ってもらってるからか?」

「ッ⁉」

「水瀬さん、お前があの日俺と同じ電車に乗ったってことは、家は俺と同じ方向で、しかもあの日二人で降りた駅まで乗ってたってことはあの駅よりも向こうの駅が最寄り駅なんだろ? でもあの日以来、毎朝学校の最寄り駅へ降りる同じ制服の中に水瀬さんの姿を見た日は一度もない。時間を変えたのかとも考えたけど、早い電車にも姿はなかった。なんなら教室に入る時間は俺とほとんど変わんないだろ? なぁ、どうやって学校に来てる? 本当に毎朝親に送ってもらってるのか?」

 本当はすぐに緒方くんに言う選択肢もあった。だけどボクがそうしなかったのは彼に無駄な心配をかけると思ったからだ。だけど、今それが逆に仇となったと自覚した。不審に思っていた緒方くんは自ら動いてもうボクが後に引けない状況を作っていた。

 さっきみたいに嘘をついてもいい。「毎朝送ってもらってる」と言ってもいいだろう。

 だけどそんなこと言って緒方くんは納得してくれるのか? 何か確信に迫ることを知っているような勢いだ。多分納得してくれないだろう。

 だったらもう、こんなどうでもいい嘘はつかないにこしたことはないだろう。

「……ううん。違うよ。ちょっと待っててね」

 ボクは昇降口から校門の方ではなく、駐輪場の方へ向かい、自分が今朝のってきたママチャリの鍵をあけ、手で押して昇降口まで戻ってきた。

「あの日から、ボクは毎朝これで来てる」

「なんで?」

 緒方くんはボクの自転車を見つめると、その視線を上げて神妙な面持ちでそう聞いてきた。

「その、電車がね。怖いの……トラウマっていうの? 駅へ向かうと足がすくんで改札もくぐれないの」

 改めて自分で口にすると、まるで駅へ向かう時のトラウマが蘇ってくるように足元から背中にかけて悪寒がはしった。ビクンと身体を震わせたのを緒方くんは見逃さなかったのか、一歩のけぞったボクに手を差し伸べた。

「あっ……ごめん」

 差し伸べた手を仕舞いながら、緒方くんは申し訳なさそうに謝った。

「水瀬さんの家の最寄り駅って、あの日降りた駅よりもっと遠いよね?」

 その通り。ボクは頷き駅名を告げると緒方くんは学校までの距離を試算して眉間に皺を寄せる。

「10㎞じゃ効かないだろ」

「うん。そうだね。一時間くらい?」

「そのママチャリでか?」

「うん……」

 ボクが乗ってる自転車は中学生の頃に家から近い公立の学校へ通うために買ってもらった良くも悪くも普通の自転車だ。クロスやロードのような長距離使うことを想定していない、だけどゆっくり走る分には頑丈などこにでもあるママチャリ。平日毎日往復20㎞も走るような想定がされている自転車ではまずない。

「そう、か……うん、そうなっても仕方ない出来事だったもんな」

 ボクが言葉を口にすればするほど、どんどん緒方くんの顔は曇っていく。「仕方ない」と彼は言ったが、当事者の一人である彼がそういうと彼なりにあの出来事を思っているんだなとひしひしと感じる。彼だって怖い思いをしてボクを助けてくれたんだ。当然思う所はあるだろう。

「緒方くんは気に入らないかもしれないけど、やっぱりごめんなさい。緒方くんにも怖い思いをさせたことに変わりはないから」

「それは……」

 緒方くんはやっぱり反論しようとしていた。だけど、彼の中でもまだ色々と整理がついていないのか無理して言葉を飲み込んだような感じがした。

「……分かった。電車に乗れないのなら、それしかないよな……でも、女の子一人で毎日ってのは心配だしな……」

「っ……!」

 ボクは思わず緒方くんの方を見つめた。

彼は今、そうほとんど無意識にすんなりと「女の子」と言ったように見えた。

 たったそれだけ、だけどそれがボクにどれだけ響いたか、彼には分かるまい。全く意に介さず、表情を変えていないのが良い証拠だ。

 初めてだった。誰かにそんな風に自然な流れで何の勘繰りもなく「女の子」と言ってもらえるのが。しかも相手は、ボクの身体の性別を知っている人だ。気を遣ってくれている感じはしない。本当に純粋に口をついて出た言葉だったのだろう。それが本当に、今までのボクを肯定してもらえたようで、たまらなくうれしかった。

「……ん? 水瀬さん?」

 緒方くんがボクのことを呼んでいる。パチンと二人で目が合った。

 やばい、視界が若干霞んでる。目の奥がかゆくて仕方ない。乱雑にかいたらファンデ―ションがとれてしまうから慎重に、だけど振り払うように力をこめて目を拭う。すると今度は鼻の奥に鼻水が溜まる。恥ずかしいけれど、ズズっと鼻をすする。

 あれ、だめだ止まらない。今ここで泣いてしまったら緒方くんは心配するかもしれない。

 もう彼には心配をかけたくないのに。

「え、水瀬さん、大丈夫?」

「うん……大丈夫だから、大丈夫、だから」

 こういう時なんて言えばいいのか、悩むまでもない。ボクは少し涙を拭ってから、改めて緒方くんの方を真っ直ぐ見つめた。


「ありがとう――――ボクを、ボクでいさせてくれて」


 ボクに足りていなかったのは彼への感謝だ。一度助けてもらっただけでなく、今もこうしてボクのことを女の子として接してくれている。たいていみんなボクのことを知ると距離の詰め方が分からないと距離を空けてくることが多い。それは仕方ないことだし、今更悲しくも思わないが、彼はそうではなかった。計算なのか、たまたまなのか、彼は絶妙に良い距離感を保ってくれていた。

 もちろんうれしい。けれど、それ以上に心の奥の方がたまらなく温かくなった。

「え? 俺何かしたか?」

 緒方くんは困惑した顔でボクの方を見ていた。

 もし贅沢を言ってもいいのなら、緒方くんの胸も今のボクみたいに温かくなってくれていたらいいな、なんて思ったりした。



「じゃあ、そろそろ帰ろうか」

 結構長話をしてしまった。空気も変に暑くなってきたしさっさと帰ろう。ボクが家に着くのは一時間後だし、それを鑑みてもそろそろ学校を出ておきたい。

「あ、ちょっと待って」

 すると緒方くんはポケットからスマホを取り出し、LINEを開いた状態でこちらに向けてきた。

「連絡先、交換しよう」

「え?」

「今日まで何事もなかったんだろうけど、これから一時間一人で自転車漕いで帰らすのはちょっと心配。だから、もし何かあったら連絡して」

「……多分、ボクの方が早く家つくかもだけど……」

「そ、それならそれでいいんだよ。むしろそれに越したことはない」

 いつもより少しだけ早口でまくしたてた緒方くんの様子は、どこか余裕がなくて彼なりに勇気をだしたことなんだろうなと端から見ても分かった。

 なんだかそれが面白くてボクは少し笑ってしまった。

「いいよ。LINE、交換しようか」

 そういうと緒方くんの顔がパッと明るくなった。

 ボクからすれば断る理由もないし、全く問題ない。

 ボクもスマホをポケットから出して緒方くんのスマホに映し出されている二次元コードを読み取り、LINEの友だち欄に「緒方 陽彩」の文字が追加されたのを確認した。おそらく今、緒方くんのスマホには「あおい」の文字が追加されているはずだ。

 ただ連絡先を交換しただけ。それだけなのに、新しい学校が始まって二カ月間全く変化しなかったLINEの友だち欄に人が増えてやっと普通の新入生らしくなってきたなと今さらながら心が躍った。

「高校入ってはじめて連絡先交換した。うれしい」

 ただ純粋に、そう思ってしまった感情を口にすると、その感情に声音が引っ張られるように「ふふっ」と声色も踊っていた。

「まじか……って言いたいところだけど、まぁ水瀬さんなら仕方ないよな。避けてたんだろ、みんなのこと」

「うん。中学の頃のボクを知っている人も他クラスにはいるし、それに、何よりボクのことなんてしっかり向き合って話せば簡単に分かるんだよ。だから、不必要に関りをもって、自分の身体の性別のことを勘繰られたくなかったからね」

 ボクのことなんて、ちゃんと向きあえば分かってしまうんだ。

 声をどうにかするのも限度はあるし、不自然に体育は毎回休むし、トイレには一度も行かないし、身体の成長はゆっくり小さいとは言えしっかり男の子っぽくなってるし。端から見るだけなら、遠目で見ると金箔かメッキ塗装か判断が付きにくいように、セーラー服に身を包んだボクの身体の性別のことを勘繰るのは難しい。だけど、しっかりと向き合えば分かってしまうから、誰とも親しくなるつもりはなかった。天涯孤独も覚悟していた。

 だけど人間とは他人と関りあって生きる生き物だ。一人でいるのにも、個人差はあれど限界はある。その本能に近い部分が今はじめて刺激された。

「……まぁ、水瀬さんなりに悩んだ結果なんだろうし、無責任なことは言えないから否定はしないけどさ……あんまり無理するなよ? 俺が相手でよかったらいつでもするからさ」

「うん……ありがとう。また頼っちゃうかも」

「まかせろ」

「…………」

「…………」

 なんて慣れない会話をしたかと思えば二人して顔を赤らめてお互いに視線をそらしながら、地面に向けた。

「あ、緒方くんそろそろ電車やばいんじゃない?」

「ほんとだ! ごめん、先帰る」

 自分は自転車通学になって電車の時間に縛られなくなってあまり考えてなかったけれど、彼はまだ電車で来ていて時間に縛られている。

「ほんと、無理するなよ!」

 去り際、念を押すように緒方くんはそう言い残して校門を飛び出し駅まで走っていった。

 何の挨拶もできずに、見送る彼の背中を見ながら、ボクは自転車のハンドルに力を込めた。まだまだ心はポカポカしていた。こんな状態であの家に帰りたくないなと思うけれど、ここから一時間ほとんど虚無に自転車を漕いでいるとさすがに凪いでくるかと思い、一思いにサドルに腰掛けて、ボクはボクの帰路を辿った。

 ほらやっぱり、月曜日はいつもよりちょっとだけいいことがある。


 〇 〇 〇


 その週の日曜日。ボク、水瀬あおいは明日発表されて本格的なテスト期間が始まる前の最後の贅沢としてとある場所へ行くことにした。

 チノパンに、生地が薄めの軽い長袖パーカーに、日焼け防止も兼ねたキャスケットをかぶりラフな格好で外へ出た。中学生の頃よりもお世話になり、ほとんど人馬一体ならぬ人車一体となっている自転車に、「ちょっとだけ頑張ってね」と休日出勤をお願いし、サドルに跨る。毎朝10㎞も漕いでいるからか、2㎞弱漕いだだけではなんとも感じなくなっていた。

 そんな自分の不本意な成長に驚きつつ、ボクは駐輪場に自転車を停め、しっかり鍵をかけて、エアコンの効いた店内へ向かう。

 着いた先はとある大きなショッピングモールだ。日曜日で人もたくさんいたけれど、イヤホンをしてそそくさと目的地である映画館へ向かった。

 まだいわゆる夏休み映画には早くて、家族向けの作品も終わってすぐな上映内容が濃いこの時期、さすがに日曜日とはいえ映画館を使う人は少なく、ボクは後ろに誰も並んでいないことを確認してからチケットの発券機の前で腕を組んだ。

 座席を決めかねていた。

 後ろの方が大画面で全体を見れるが、後ろの方はぽつぽつと座席は空いてはいるものの、どの席を選んでも左右にすでに他の人がいた。映画がはじまりさえすれば気にはならないのだが、やっぱり左右に人がいるのは極力避けたい。

 そうなると、若干前の方にはなってしまうが左右に人がいない座席を選ぶことになる。幸い、三週間ほど前に上映が始まった映画ということもあって、小さいスクリーンだったし、おそらく激しいバトルシーンがある映画でもない。前の方で大人しく見るのも悪くないかもしれない。

 普段あまり取らない席だったけれど、今日はそういうことでいつもよりも前目の席をとることにした。

 チケットを財布にしまい、そのままの流れで飲み物を買う列に並ぶ。すぐに順番が回ってきて店員さんが注文を尋ねてきた。

「アイスティーのSを一つお願いします」

「320円になります」

 小銭で丁度320円があったのでそれを自動の精算機に入れ、レシートとアイスティーを受け取った。

 ストローを刺し、入り口の上にある案内板を見上げながらちょっとずつアイスティーを吸い上げて開場するのを待っていたその時――――誰かがボクの肩をつついた。

「水瀬さん」

「っ⁉」

 口にしていたアイスティーを落としそうになる勢いで振り返ると、そこには長峰さんがいた。

 白いブラウスに黒いスカートと、どこか大学生のような大人びたコーデの、いつものセーラー服とはガラッと印象の違う長峰さんはコーディネートの印象とは裏腹に、どこか緊張とうれしさが混じったような少女みたいな顔をしていた。

「やっぱ水瀬さんだ! こんなところで珍しいね!」

「そ、そうですね」

 ニッコニコ笑顔な長峰さんとは対照的に、ボクは目をそらしながら一歩下がってしまった。

「水瀬さんはどの映画?」

「えっと、もうすぐ開場するあれですね」

 ボクは視界にはいったポスターを指さしながら長峰さんに伝えると、長峰さんはパッとうれしそうに眼を見開いた。

「え! 嘘、私もその映画見るんだ! 一緒だね!」

「え? そうなんですか?」

 それは少し意外だった。漫画原作の作品なだけあって、長峰さんがわざわざ映画館に足を運ぶほど好きだとは思わなかった。

 なんて話をしていると、館内に聞こえる開場を伝えるアナウンスが鳴った。

「うそ、もうこんな時間? ポップコーン買ってこなきゃ」

 長峰さんは肩にかけたサイフとスマホしか入らなさそうな小さなカバンからサイフを出しながらフードの列に行ってしまった。待つのも変だと思い、ボクはそそくさとチケットを取り出して一足早く入場特典をもらい、スクリーンに入った。

 いつもは座らない前の方の席に座り、まずボクが利用することがないであろう地域密着型の建築会社のCMを見ながら会うはずのなかった同級生との邂逅を思い出していた。

 長峰明日見さん。クラスの中心格で、室長も率先してやるような明るくて人当たりもよくて、男女分け隔てなく接して男女ともに人気のある人。それが校内での彼女の大まかな評価だけど、ボク個人としては少し苦手ではあった。他クラスとの交流もあるし、多分ボクの性別のことに気付いたのは早い方だったと思う。だからこそ、クラスの空気の源流に彼女らがいると思っていた。勝手に邪見にして、陰キャと陽キャの隔たりの向こうにいる人だと線を引いていた。

 だけど、今さっき、わざわざ彼女の方から声をかけてきた。

 みんな倦厭したがると思っていたから、そんな〝みんな〟の中心みたいな長峰さんが声をかけてくる理由が全くわからなかった。

 なんて考えていると、ポップコーンと飲み物をトレーに乗せた長峰さんが入ってきた。まだ完全に消灯しきってない館内を、長峰さんは何かを探すようにキョロキョロ視線を移していた。

すると案の定、ボクと目が合うと、彼女はうれしそうに小さく手を振った。

「っ…………」

 ボクは照れ隠しのようにペコリと会釈だけ返した。

 そして意外だったのが、彼女は一人で館内に入って来ていた。てっきり誰かと見に来ていて、ボクと出会った時に一人だっただけなのかと思っていたけれど違ったらしい。誰かといるのが好きな子だと勝手に思ってたから、こういう映画でも同じ好きな人見つけてくるものだと思ってた。

 ボクも、長峰さんのことを色々と勝手に決めつけていたんだろうな。

 そういう他人に色々勘繰られるのが嫌いなボクが、全く同じことをしていた。自分を守るように「こうなはずだ」と自分にとって都合のいいように勘繰ってた。

「…………」

 あぁ、最悪だ。ミイラ取りがミイラになるってこういうことなんだな、みっともなさすぎる。

 映画が始まる前にこんなぐちゃぐちゃな気分になるなんて初めてだ。全然作品を見るモードに入れていない。

 さらにそんなボクに追い打ちをかけるように遠く後ろの方からキャスケットで覆っている後頭部に向かって視線を感じる。あまり姿勢がよくないのは自覚しているけれど、少し腰を前にして後頭部を隠すように座りなおした。

 長峰さんだ。長峰さん、ボクよりも後ろの席に座ってたし、ちらちら見てきてるのを感じる。前の席になんてするんじゃなかった。もう予告編に突入しているのに全然気分が作れない。

 まぁ、これに関しては自業自得か。諦めて受け入れるしかない。

 映画館が真っ暗になり、暗い画面から映画がスタートした。


 映画が始まってすぐ、主人公に悪態をついた性悪な二人の登場人物が、主人公が手をかざすと主人公の能力でばたんと倒れた。それに主人公が跨り、二人のことをどこか楽しそうに〝読んだ〟。

 ここまでこのシリーズお決まりの流れで、性悪二人は別のキャラで毎回同じ人物が演技をしている。このシーンが来るたびに、今からはじまるのだと思い知らされる。

 と同時に、これはある意味ボクの勝手な想像と妄想なのだが、ボクがもしこんな風に誰か第三者に心や記憶を読まれてしまったら、誰かボクの現状について理解や納得をしてくれるのかと思う事がある。

 ただ、これはフィクションだ。

 実際は誰にも理解されないだろうし、納得されないだろう。

 むしろそうしてほしいとすら思わない。この映画のように、何か人間以外の力で確実に証明されるのならまだしも、他人の推測や憶測や同情がある状態で理解されたいとは思わない。

 多分それは、贅沢なんだ。

 贅沢だからボクはボクのことを理解されたいとは思わない。

 理解なんてしなくていい。ただ、放っておいてくれれば、それで……


 〇 〇 〇


 映画が終わった。

 原作の短編は読んだけれど、映画という二時間の尺に伸びてより細かく詳しく描写されるようになり、さらにはキャスト陣の迫真の演技もあってなかなか見ごたえもあって、内容は知っていたが面白かった。まぁ、好き嫌いは当然あるだろうが。

 映画が終わり、館内に薄く明かりが灯った瞬間が好きだった。

 二時間近く椅子に固定されて凝り固まった身体をほぐしながらそれまで頭の中のほぼすべてを占めていた物語を噛みしめるその瞬間がたまらなく気持ちよかった。小説家の中には読者の読了感を大事にする人がいるのもこれを感じているときはすごく分かる。

 さて、パンフレット買ってさっさと帰ろうかと思い、空になったアイスティーの容器を持ってスクリーンを出たところで、二時間ぶりに誰かに背後から肩をつつかれた。

「水瀬さん」

「……なに?」

 そこにいたのはやはり長峰さん。それは分かっていたので二時間前ほどの驚きはなかった。

 しかしまた声をかけてくる理由は分からなかった。

 それに、やっぱり今も彼女はどこか緊張した様子で声をかけていた。

 いくらボクとは言え、彼女がこんな人と話すのに緊張するタイプだとは思わなかったし、そこまで緊張してまでボクに声をかける意味も分からなかった。

「あの、よかったら一緒に……か、感想会しませんか⁉」

 長峰さんはそうボクに提案してきた。声を絞り出すように、嚙みながらする彼女からの提案にいつものボクならほとんどノータイムで断っていただろうけど、今もまるでクイズの解答を待ちわびているような面持ちでボクの返事を待っている長峰さんの提案を断るのは若干気が引けてしまった。

「まぁ、すこしだけなら」

 ボクがOKすると長峰さんははじけんばかりに嬉しそうに「ありがとう!」と言って笑った。


 〇 〇 〇


 二人でやってきたのはフードコートにあったミスタードーナツ。ボクはポンデリングとチョコファッションにコーヒーを付けた。ボクが先に会計を済ませて適当に席を選んだ。

 トレーを置いて腰掛けると思わず気の抜けたため息が漏れた。

 長峰さん、ひいては女の子と二人だけで歩いたことなんて初めてですごく緊張していた。男の子が女の子のとなりに立つのとはまたわけが違う。ボクは今ほとんど隠すような格好だけど、一応女の子だ。だから彼女のとなりを歩いても違和感がないくらいの〝女の子〟でいられているのか、不安でたまらなかった。

「おまたせ」

 するとすぐに長峰さんはフレンチクルーラーとカフェオレがのったトレーをもってやってきた。そういや長峰さんはポップコーンも食べてたはずだ。そりゃ一つで収めるよな。

 コーヒーを一口啜ると、さっそく長峰さんは買ったドーナツには目もくれず眼を輝かせて尋ねてきた。

「映画どうだった⁉」

 あらためてそう言われてボクは映画の印象に残ったシーンを思い返してみる。

「面白かったよ。ボクは結構好き」

「そっか! 私もよかったと思うよ。謎がきちんと綺麗に収まったっていうか、謎解きモノとしてすごく面白かった。あ、あと原作の漫画じゃ暗々裏彫り込まれなかったところもきちんと同じ役者さんで掘り下げてくれたのもうれしかったなぁ、あそこの演技も迫真で」

 ほんとうにおもしろかったのだろう。堰を切ったように長峰さんは感想を口にした。

「原作読んでるの?」

 一応漫画原作の映画化だから話の内容を知っている人も多いとは思っていたけど、少し意外だった。

「うん! 本当はお客さんのなんだけど、一応本編も全巻あるよ!」

 ぜ、全巻……言い方的に本編が全巻あるのだろうけれど、100巻以上続いている原作を全部持っていると思うとなかなか熱心なガチ勢しかいないだろう。

「私、今日の主人公が好きなの。だからずっと楽しみにしてたんだけど、なかなか時間作れなくてこんなギリギリ滑り込みになっちゃったんだ」

「ボクも今回の主人公は好き。能力もおしゃれだし」

「ね! 言いたくなるような名言も多いし!」

 なんて言って長峰さんはマグカップをソーサーに置いたかと思うと、瞼を少しだけ閉じ、睨みを利かせながら低い声を作ってシンプルな名言を口にした。

 それが思ったより似ていて思わず吹き出してしまいそうになった。

「め、めちゃくちゃ上手いじゃん……ははっ」

「何回も見直したシーンだしね」

 ケロッと、スイッチを切り替えるようにいつものかわいらしい長峰さんに戻った彼女とは違い、ボクは彼女のモノマネがツボにはまって少し引きつったように笑い続けた。

「ほんとに上手かった。もしかして同じところだったら別のキャラでもできたりする?」

「うーん、自信ないけどなぁ……」

「じゃあさ」

 ボクが身振り手振りを踏まえて長峰さんに伝えると、彼女はすぐに思いだしてまた完璧に演じて見せた。別のキャラだったのにほぼ完璧だった。

「ほんとにそっくりだよ!」

「そ、そうかなぁ」

「あんまり卑下するもんじゃあないぞ」

 少し癖のあるボクの口調にも彼女は反応を見せてクスクス笑った。それにつられるようにボクの口角も上がっていて、頬の筋肉が張っているのが分かる。

久しぶりに誰かとこんな風に笑ったかもしれない。同じ漫画趣味が功を奏してつい熱くなってしまった。

「今回の映画はさ、なんというかミステリーっぽかったよね。原作の漫画よりも謎めいたシーンを強調してる気がしたね。尺もあったから原作の謎を深掘りしてた」

「言っちゃえば不気味だった。まぁ、それがリアルっていうか、なるべくしてなってる感じはしたね。賛否ありそうだけど」

「もともと短編で完結してたからね。二時間の尺で深掘りしたら、「引き延ばした」「蛇足」って意見の人が出てもおかしくなさそう」

「少なくともボクは、そんな悲観しなくてもいい出来だったとは思うけど」

「だねー」

 そもそもボクらは原作が好きではあるので期待もしているが、スタート地点が他の人よりもいい方向に向いているのは否めない。でも、それを抜きにしても一つの二時間映画としてパッと見れて気持ちよく見れたと思う。

 なんて批評家でもない二人の素人の思ったままをぶつけ合う感想会は進んだ。

 お互い語ることは語りつくして、肴にしていたドーナツも食べ終え、ぬるくなった飲み物が少し残っているだけになった頃、長峰さんは「ねぇ」と切り出してきた。

「今日さ、まだ時間ある?」

「え? うん、一応」

「せっかくモールで会ったんだし、ちょっと買い物して帰らない?」

「か、買い物……?」

「うん。服とか、コスメとか。意見聞きたいんだよね、水瀬さんの」

「……え、えっと……」

 さすがに答えに窮してしまった。時間だけの話をすれば問題ない。むしろあの家に帰りたくないのだが、二人で買い物、か…………。

 長峰さんは一体どういうていで話を持ちかけてくれたんだろう。ボクのことを噂程度にしか知らないのならまだしも、彼女のことだから何か確証にせまることを知っていてもおかしくない。それを知った上で話をもちかけているのなら、ちょっと反応に困る。

 そうだ、長峰さんはボクのことを知っているかもしれないんだ。そんな人と今まで何も考えずに話が出来ていたことの方が不思議だったんだ。

「な、長峰さんに意見できるようなことなんて、なにも……」

 さっきまでの軽快な会話が嘘みたいに、言葉が喉で引っかかる。喉を通ってきた言葉もとても自信がまったくない、要領を得ない言葉だった。

「そんなことないよ! 水瀬さんの話も聞いてみたいと思ってたんだよね」

 長峰さんはそれまでと同じように、屈託のない笑顔で提案してくれている。

 やばい、それまでなんともなかったのに急に長峰さんとの話をするのが難しくなってきた。急に視界が狭くなって、気温だけ見ればもう夏なのに、四肢の末端が冷たくなってきた。

「あ、いや、えと……」

「あっ」

 言葉につまるボクを見て、長峰さんもつられるように言葉を詰まらせた。

「……ごめんなさい、無理言っちゃったみたいだね」

 ボクの不安や緊張が顔に出ていたのか、長峰さんは引いてしまった。いや、無理なんてことはない。むしろ謝るべきなのはボクだ。

「いや、こっちこそ、ごめんなさい。せっかく誘ってもらったのに」

 もうボクの話ぶりは三時間ほどまえの映画館で出会ったすぐの時に完全に逆戻りしていた。これまでの会話がなかったことになるな。それまでの長峰さんの印象で彼女との間に線を引いているような口調になっている。そんな失礼なことがあるか。

 そう勝手に線を引いた自分がほんとに嫌で鬱陶しくて、映画が始まる前の気持ちに逆戻りだ。

 また鬱々とした気持ちがウジのように身体の内から湧いてくる。

「じゃあ! LINEだけ交換しよう」

「え」

 自分への嫌悪感でいっぱいになっていたボクに、長峰さんは何事もなかったかのようにそう持ちかけてくれた。

 ボクがスマホを取り出す間もなく、長峰さんはLINEのQRコードを画面に表示させていた。

「実はね、こんなにあの作品で誰かと話したの初めてなんだ。とくに漫画については」

 LINE交換の最中、長峰さんはこぼすようにそう呟いた。たしかに妙に熱がこもっていた話し方も、はじめてこうして話したと思うと合点がいく。

 原作漫画の読者の男女比はそんなに差はないだろうけど、たしかに女の子同士で話をしているのは見たことがない。どっちかというと好んで口にするのは男性読者の方が多いイメージだ。

「それに女の子のファンだなんて会ったの初めて! ほんとに楽しかった」

「っ……‼」

 長峰さんの笑顔で言ったその言葉に、長峰さんのLINE が追加されたスマホを落としてしまいそうになった。

 心臓がキュッと締め付けられて、それまで感じたことないほどの罪悪感が粘性をまとって心の形を模るようにへばりついてきた。

 てっきり長峰さんはもうボクのことなんて知っていると思ってた。

いや、違う。分かっているはずだ。だってこの一瞬だけでも、彼女はボクと〝しっかり向き合って話している〟んだから。

 緒方くんの時とはまた違う罪悪感がどんどん湧いてくる。

 セーラー服を着て学校に登校する前は、そこまですれば罪悪感なんてなく、この男物のスラックスを履くだけで足元から湧いてくる拒否感や拒絶反応に比べれば微々たるもので、身も心もスッキリするものだとばかり思っていた。でもそれは全然現実のことが見えてない戯言にすぎなくて、一人で全部完結するとおごっているただの独りよがりでしかなかった。

 人に嘘をつきながら、自分のエゴを貫けるほど、ボクは器用じゃなかった。


「ごめん、なさい……っ」


 そう呟いたボクの声が彼女に届いているのかは分からなかったけれど、すくなくともそんな言葉を口にした時点でボクの敗北だ。自分が自分でいることを否定してしまったようなものだ。

 LINEの交換を終えると、長峰さんは一人でもう少し買い物をするそうでボクだけ帰宅することになり、フードコートで解散になった。

「じゃあ、また今度」

「……うん」

 解散の間際、ボクはちゃんと今日彼女に出会えたうれしさを表情で表現できていただろうか? 

 まだまだ空は明るいが、もうすっかり気分は落ち込んでしまった。

 自転車に跨った時、ポケットにいれていたスマホがブブッと振動した。確認してみると長峰さんからのLINEだった。

『さっきは無理言ってごめんね! また明日学校で!』

 長峰さんのLINEを「既読」がついてしまわないように通知欄でだけ確認した。いまはどうも返事をする気にはなれなくて「既読」をつけたくなかった。読んでおいて返事をしないのは不誠実だと分かっていながら、どうしても返事を考えることができなかった。

 スマホをポケットにしまい、逃げるようにモールを後にした。

 覚悟なんて、とうにできていると思っていた。

 あの日、家族にカミングアウトしてお母さんに殴られた日にもう覚悟なんて決めていたつもりだったけど、それは自分のなかで完結することに対してだけで、他人がボクと関わることで発生する自分へのダメージなんて考えてもなかった。

 ちょっと考えれば思いつくことで、一人で大丈夫なんて思いあがって、他人は他人、自分は自分なんてできもしない割り切りをできていると勘違いしていた自分がいたことが恥ずかしくて仕方ない。

 ボクは一人で生きていけるほど強くなれなかった。


 〇 〇 〇


 水瀬さんに送ったLINEに既読はつかなかった。もしかしたら家が近くて、自転車とかで来ているのかもしれない。私にはどうしようもない。そもそもこのLINE自体、私の身勝手極まりない自己満足のLINEだし、既読されなくてむしろ当然とまで思う。

 水瀬さんが帰った後、一人フードコートに戻って後悔を噛みしめるように突っ伏した。

 私、嘘をついちゃった。

 本当は別のクラスの子に水瀬さんの中学の頃の写真を見せてもらって、男の子だって知ってたのにもかかわらず、わざと「女の子」なんて言っちゃった。それが、私の「嘘」。

 水瀬さんはそう接する私を見てひどく辛そうな顔をした。

 さらには聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの声量で「ごめんなさい」と謝ったように聞こえた。


映画館のロビーでその背中を見つけた時、話しかけようとする自分と、他の誰に話しかけるよりも強い緊張に駆られて去ろうとする自分がいた。

 それは今水瀬さんを取り巻く空気の中にあまりに長い間いすぎたからだと終わった今なら分かるけれど、あんなに人と話すのに緊張したのは入学したての頃みたいだった。

 映画中も、視界の端に見える水瀬さんのキャスケットが時より目についてしまっていた。

 終わった後、また声をかけるか迷い、はじめと同じ緊張にかられたけれど、なんとか声をかけて正解だったと思う。まさか原作からのファンだったなんて、何気に同級生だと初めてだった。

 話は楽しかった。まだまだ隠し事はあるだろうけど、それもいつか本人の口から聞きたいし、教えてほしい。ならもっと頑張らないと。

 でも実際に、何をどうすればいいんだろう? 学校じゃまだちょっと話してくれるか分からないし、漫画趣味を膨らませようにも、お店にある漫画しか私は知らないし…………やっぱり友達を作る、友達になるって難しいな。


 〇 〇 〇


 期末テストが終わった。最後の科目が終了し、弛緩した教室の空気が心地よかった。この瞬間だけは日頃話したことない人たちともこの脱力感とか達成感を共有しているような気分になる。

 テストも無事終わり、これから夏休みまではほとんど消化試合になる。それだけで肩の荷が全部降りたようでものすごく気が楽になった。

 さて、今日のテストは午前中ですべて終わり、今から昼食も挟まずHRをして帰宅となる。担任の教師が戻って来てみんなそそくさと自席に戻った。

「はーい、テストお疲れ様でした。うまくいった人も、ダメだった人も、再来週の三者懇談楽しみにしててくださいね」

 今ここでニコニコしてるやつは多分大丈夫だった奴で、一瞬表情が強張った奴がダメだった奴らなんだろうなと、俺はニコニコしながら他人事のように思った。ヘヘッチラッと端の席、水瀬さんが座っている席を見やると、彼女は別にニコニコするわけでも、表情をこわばらせることもせずただ黙々と先生の話に耳を傾けていた。安い自尊心と嗜虐心を育んでいたのは俺だけでした。ごめんなさい。

「じゃあ勉強はいったん休憩だけど、逆にそれ以外はたて続けにあるから一個ずつ終わらせてくね」

 そう言って先生はプリントを配りながらそのプリントについての説明をし出した。その中で最後、みんなの気を一番引いたイベントのことがあった。

「――――じゃあ、最後に、体育祭の話だね」

 それまではどこか事務的に話が続いていたのに、突然そんな楽しそうなイベントの話が舞い込んできて教室の空気がどこか華やかになった。

「これが今年の体育祭の企画書だから、とりあえず目を通して」

 先生が体育祭の概要や大まかな時間割が書かれたプリントを配りだした。

「まず、今年の体育祭は夏休みが明けてすぐ、九月の上旬にあります」

 夏休みが八月の下旬、毎年恒例のチャリティー番組が放送される前日の金曜日に始業式で夏休みが終わるので、実際の練習期間はほんとに一週間ほどしかない。だから毎年練習場所と時間の取り合いで、本気のクラスは昼休みも削ってやるだとか、そんな話を聞かされた。

 うちのクラスはどうだろう? 室長である長峰さんが主導なら本気出しそうだけど、長峰さん、意外と自分の意思を貫き通すの苦手だから、みんながやりたくないといったらあっさり引くような気もする。

「まず決めなきゃいけないことが三つあって、控えも含めた誰が何の競技に出るかの選手届、体育祭で使う学級旗。特に学級旗に関しては来週から制作がはじまるのでメンバーを募りたいんですけど…………ここからは長峰さんに任せようかな」

「えっ、私ですか?」

 急に白羽の矢が立った長峰さんだが、これまでも学生主体の行事に関しての進行は室長である長峰さんに投げやりな節があったので、驚きこそしていたがすんなり受け入れてもう慣れたって感じだった。

 呼ばれた長峰さんは副室長を呼んで、二人と先生の三人で少し話合っていた。その時見せた長峰さんの真剣な顔は、いつもの明るい顔とは違いとても凛としていてかっこよかった。しかもそれは、いつぞや長峰さんが見せた長峰さんが水瀬さんの話をするときによく見せる表情とよく似ていた。

「じゃあ、ここからは私が仕切らせてもらいますね」

 長峰さんが言うとクラスが湧いた。もう彼女はとっくにクラスの人気者だ。

 まずは全競技の説明から始めた。副室長と協力して黒板に協議を列挙した。

「まずは選手登録からいきますか……企画書にある通り、私たち一年生が参加する競技は「大縄跳び」「綱引き」「台風の目」「障害物リレー」の全部で四つです。その内、「大繩跳び」と「綱引き」、学年競技で一年生しか参加しない「台風の目」は全員参加ですが、「障害物リレー」だけはクラスから男女八人を選出します。まずはその「障害物リレー」に出たい人を募集します」

 副室長が説明中に黒板に「障害物リレー」の文字を書きしるし、男女四人ずつ、計八人を募ることになった。高校生になって初めての体育祭でどんなものか分かりきってはいないのだが、積極的に体育祭を楽しもうとする陽キャたち数人が手を挙げた。男女四人ずつ、計八人は案外すぐに集まった。

「ありがとう。うん、なんか想像通りのメンバーだね」

 長峰さんはそのメンバーを見て満足そうに微笑むとそれはクラス全体に伝播した。彼女もどちらかというとそっち側のグループに所属する人なので多少彼らのことをイジっても大丈夫なんだろう。

「じゃあ細かな申請はこれを纏めて私たちでやるとして……学級旗とクラTだね……どうしよう、できればそういうデザインできる人にやってもらいたいんだけど」

 難題はここからだ競技に出るのは正直誰でもいいけれど、学級旗とクラTはそういう訳にはいかない。なんというか、生半可なものじゃ後々クラスみんなが後悔しそうな気がする。だからちゃんとできる人にまかせたいという気持ちが長峰さんにはあるのだろう。

「誰か、やってもいいよ! って人いますか?」

 長峰さんも手を挙げて、クラス全体から募るけれど、誰も手を挙げない。

「うーん……まぁそうだよねぇ…………」

 長峰さんは腕を組んで悩んでるような素振りを取った。確かに、ここで誰からの立候補もないというのはちょっとマズそうだ。クラTはまだデザインを考えて業者に発注するだけだが、学級旗は自分たちで筆を握って書かなきゃいけない。

 先生曰く、学級旗は夏休みにも学校に来て書くクラスもあるほど、大変な作業になることもあるという。ただでさえ参加しようとする人が少ないのに、これ以上厳しいものとなると本格的に詰みそうな気がしたけれど、だからといってここで出しゃばるのは違う気がして逃げるように長峰さんと視線を合わせず黒板の文字に視線をやった。

「…………まあ、誰もいないなら仕方ない。時間はまだあるし、今ここで言いにくいって人もいるかもしれないからね。またやってもいいかなって、思った人は私か副室長に直接声かけるでも、LINEでもいいからまた連絡してね」

 たしかに、今できることはこれくらいか。

「じゃあ先生、今日はこのまま解散でいいですよね?」

 と、長峰さんは突然先生に問いかける。するとまるで時間を調整して見計らっていたようにチャイムが鳴った。先生も「もう話すことはないし、いいよ」とどこか呆れるようにつぶやいた。

「よーし、みんなテストお疲れ! 起立!」

 号令と挨拶はこれまでも室長である長峰さんの仕事だったけれど、いつもの自席でする号令ではなく、激励も込めた教壇からする号令にみんな特別感を抱いてどこか浮ついていた。

「礼!」

 テストが終わった達成感みたいなものが全員の中に戻ってきて、教室内の温度が少し上がったように感じた。

 久しぶりの部活に駆けて向かう人や、そそくさと帰宅する人で教室がにぎわっていた。俺もせっかく早く授業が終わったのでさっさと帰ろうとカバンを背負い教室を出ようとした時、難しい顔で体育祭のプリントを凝視している水瀬さんが見えた。

「どうかした?」

 極力小さな声で、そう口から衝いて出てしまった。

 喧騒の中、突然教室で話しかけられて水瀬さんは驚いた顔で俺のことを見上げた。

「な、なんでもないよ」

 水瀬さんも小さな声でそう答えると、そそくさとプリントを乱雑にカバンに詰め込み、席を立つと教室から逃げるように出て行ってしまった。

「あ、ちょっと」

 声を掛けようにも先に一人教室を出て行ってしまった。

「なんかある人の反応じゃん……」

 教室に残されて愚痴をこぼすようにつぶやいてしまった。

 いい加減俺も帰ろうかと思い、イヤホンをポケットから取り出した時、背後から「あの」という声が聞こえて振り返ると、そこには長峰さんと四人の女子たちが話をしていた。一瞬自分にかと思ったのは恥ずかしいので内緒だ。

 長峰さんに話しかけていたのは、いつものグループの女子らではなく、どちらかというと大人しいグループの人たちでその中には男子も一人混じっていた。みんな積極的に長峰さんと話すような人たちじゃない。

「えっと、さっきのクラTと学級旗の話……」

「わ、わたしたちにさせてくれない?」

 なんとクラTと学級旗制作の立候補だった。

「僕ら美術部の部員で、誰も立候補しないなら、やろうかなって……」

 男の子曰くそこにいる四人はみんな美術部のメンバーらしい。

 その願ってもない申し出に長峰さんはパッっと顔を明るくした。

「うん! ぜひお願いしたい! ほんとにありがとう……えっと、石動くんに、宇崎さん、織岡さん、杉本さん。よろしくね」

 長峰さんは全員の苗字を覚えていた。え、すご。それには美術部のメンバーも驚いたのか、お互いに顔を見合わせてから「はい!」と威勢よく返事をした。

「もし色塗りとか人でが欲しくなったら私に言ってね。出れない日もあるかもだけど、極力協力はするし、もっと欲しかったら他の人たちにも声かけるし」

 なんとも頼もしい長峰さんの申し出だけど、「他の人たち」のところで背後で盗み聞きしていた俺の方に目を向けるのはさすがに怖すぎだ。

「あ、ありがとう。その時は、また僕らから連絡する」

 石動といった男子はどこかホッとしたように首肯した。

「やっぱあの場じゃ言い出しにくかったよね。みんな美術部員でソワソワしてたの見えたから、終わった後声かけてくれたらうれしいなって思ってたんだけど」

「え? わかってたの?」

「うん。だってみんな美術部員で席も近いでしょ? なんかソワソワしてるな、とは思ってた。だからHRも切り上げて、徐々にみんないなくなるの待ってたけど、正解だったね」

 なんと長峰さんは教壇に立っているときからこの四人が興味ありげにしているのに気づいていたらしい。それで直接声をかけてくるのを待っていたと、長峰さんはそういうのだ。

「…………」

 それはもう驚きというか、感服や引く感覚に近い。彼女が中学時代はそうじゃなかったと聞いて、色々頑張ったんだなとは思っていたが、ここまで視野を広くできるのはもう彼女の特技というか長所として元からあったのだろう。

「あ、みんなLINE聞いていい? 先生から多分私に連絡きて、みんなに伝えることなると思うから」

「うん。わかった」

「ついでにLINEグループも作っちゃおうか? そっちのほうが楽かも」

 長峰さんはそういってテキパキとスマホを操作する。美術部のみんなも長峰さんの手際の良さに驚き感心している。

「あ、でも一応また今度の会議でみんなにクラTと学級旗を頼むことは今度の会議でみんなに伝えるね」

「うん。それは大丈夫」

「じゃあ、また連絡するね。今日はお疲れ様。また来週ね」

「う、うん。それじゃあ」

 長峰さんが席を立ち、教室を出ようとしたとき、ふと俺と目が合った。

 お互い何かをいうわけでも、長峰さんが立ち止まるわけでもなかったけれど、一瞬あった目からはどこか自慢げな、誇らしげな自信が垣間見えた。彼女なりに自分の成長みたいなものを感じているのかもしれない。


○ ○ ○


 数日後、クラスTシャツの原案ができた。

「えぇぇ! かわいい!!」

 教壇に立って、石動くんから預かったルーズリーフを見てひとり感動していた。

 クラスのみんなが一体どんなものなのか気になっているのを見て、長峰さんは我に返ったようにそのルーズリーフを黒板に張った。

「みんなも見に来て」

 長峰さんがいうとクラスメイト全員が立ち上がり、黒板に集まって石動くんが書いた原案を見やる。

 表側には「ガオーッ‼」って声が聞こえてきそうな、二頭身くらいの小さなライオンが頑張って叫んでいる様子が書かれており、背側にはその小さいライオンが腰を下ろし、息を抜いて休んでいた。

 なぜ二頭身のかわいいライオンなのか? 

 なぜ「ガオーッ‼」とかわいらしく叫んでいるのか?

 なぜ背面では「ふーっ」と息を抜いて休んでいるのか?

 色々謎なところはあるけれど、それもこれもパッと見で誰もが思う、「かわいい」の一言で全部どうでもよくなる。それほど、かわいかった。愛らしいの方が正しいかも。

「石動くん、こういう絵描くんだ! なんかすごく意外! かわいい!」

「え、あ、いやぁ……あ、ありがとう」

 石動は丸眼鏡の奥で少し笑っていた。やっぱり、自分で書いたものをこういう風に賞賛、肯定されるとすごくうれしいんだろう。それも、普段話さない長峰さんのような陽キャよりの子に心から褒められてるのだ、嬉しくないわけがない。

「でも、なんでライオン?」

 長峰さんは黒板の前でみんなが気になっていたことを尋ねた。

「あ、えっと、それは」

 石動は他の三人の美術部員の方を見ると、彼女らは用意していたルーズリーフをもう一枚黒板に貼りだした。

 それは学級旗のデザインの草案だった。石動の書いたかわいいライオンとは違い、こっちはより本物に近い、リアリティのあるライオンが大声で叫んでいた。ルーズリーフ全体にシャーペンで書いた下書きとは言え、めちゃくちゃかっこよかった。

「クラスTシャツと学級旗でテーマみたいなの決めて統一しようって話になったんです。それで」

「かっこよくて、強い動物にしようって決めて、それで、ライオンに……」

「ど、どうですか?」

 石動に続いて美術部員に三人が恐る恐る黒板前に集まるみんなに対して意見を募った。

「いいと思う!」

 みんなが仲間内で意見を固めている最中、長峰さんは全員の総意とばかりに大きな声で肯定した。それに続くようにみんな口々に「かっこいいじゃん」「これ書くの大変だろうけど、頑張って!」「なんかこういいのができると体育祭楽しみになってくるね」と好感的な意見を口にした。

 実際、積極的に関わるつもりのなかった俺でさえ、こうして目に見える形で進捗があるとこういう行事は楽しみに思えてきた。

 ふと、視線を横にやると人だかりから一歩離れた位置で、黒板に張り出されたルーズリーフを見ている水瀬さんの姿が見えた。俺はなんとなく足音を立てずに彼女の隣に立った。

「どう?」

 俺は彼女の方を見ずに、そう尋ねた。

「……かわいい」

「うん」

「クラスTシャツはほんとにかわいいし、学級旗はかっこいい。あれが大きな旗になったら、さらにかっこいいと思う」

 水瀬さんはみんなにあまり聞こえないような小さな声音でそう感想を口にした。彼女には声変りがなかったのか、彼女の声音はどこか中性じみていた。だけど教室じゃあまり話そうとしないし、今だって俺にしか聞こえないような声音だった。でも、そんな声音でも、今の彼女が学級旗とクラTの草案に感動しているのは分かった。

 別に、俺が彼女の何を知っているとかはないけれど、なぜかこっちまでうれしくなった。

「そっか」


 〇 〇 〇


 学級旗とクラTについて、反対意見を出したり、難色を示したりする者は誰もいなかった。クラTの方はきちんとした用紙に清書して業者に送るだけ。学級旗も、みんな美術部員だから夏休みも部活があるらしく、その前後にちょっとずつ仕上げるとのこと。何もかもまかせっきりではあるが、あんな草案を見せられて、素人の自分らが関わる方が迷惑だと、もう彼女らにほとんど全てまかせることになってしまった。

「じゃあ、学級旗とクラTはこんな感じでOKだね。個別競技に出る人は前回決めてあるし……もう決めることはないかな」

 そう言って長峰さんが最後のHRを締めようとした時、教室の端から手を挙げる人がいた。

「明日見、ちょっといい?」

「ん? どうしたの星名」

 手を挙げたのは「吉村 星名」。長峰さんのグループの片翼だ。厚めの化粧に、ツヤがあってインナーカラーで染めている髪は逆にそこら辺のアニメよりも作り物じみていて、雑誌やスマホの画面の奥で見る人みたいだった。笑い声も大きいし、いつもクラス行事に関しては我関せず、長峰さんが首を突っ込むからついて行くといった感じの人で、正直少し苦手だった。そんな吉村さんが、気だるげに手を挙げていた。こんなの初めてだ。

「競技の「綱引き」なんだけどさ、男女差とか部活の差によってスタート位置違うんでしょ?」

「え? うん」

 体育祭の競技、「綱引き」はクラス全員が参加しなければいけない競技で、当然男女差は出てくるし、運動部に入っている人とそうでない人との差はどうしても出てくる。それは公平じゃない。誰を参加させることが戦略の一部である「障害物リレー」とは違って、極力差が生じないように配慮されている。

 具体的には女子や運動部の数に応じて、綱の真ん中の位置が十㎝単位で変動する。女子が多く、運動部が少ないクラスの方に少しだけスタート地点が寄る事で、少しのハンデになる。

 それはこの前の企画書にしっかりと記載されているからみんな知ってることだし、特になんとも思わなかった。

 ――――しかし、わざわざ吉村さんが手を挙げてそれを長峰さんに進言している現状に違和感を覚え、すぐに彼女の言いたいことが分かった。


「一人、曖昧なヤツがいるよね」


「あっ……」

 吉村さんの粘っこくも鋭利な言葉が、それまで沸いていた教室の温度を全て奪い去った。

 教室にいる誰もが口を閉ざし、自分の膝を見ている現状で吉村さんだけはただ一点、その人を睨みつけるように鋭い眼光を送っていた。

「誰も言わないなら言ってやろうか? ――――ねえ、水瀬さん」

「っ…………」

 吉村さんはついに水瀬さんのことを高圧的な語気で脅すように名指しで糾弾した。

 それに水瀬さんは肩こそ震わせていたけれど、沈黙に徹していた。

「ねえ水瀬さん、なんとか言ってくれないと」

「……ボ、ボクは」

「聞こえない」

「ッ‼」

 水瀬さんの声変りのない声音を震わせながら口にした言葉を、吉村さんは間髪入れず塞いだ。

「あ、ちょっと……」

 長峰さんが制止しようとするが、吉村さんは長峰さんのことなんて見てなくて、依然水瀬さんに冷たい視線を送っていた。早く答えろよと、迫るような冷たい視線だった。

「なぁ? みんなお前の答えを待ってるぞ? 自分で自分のことくらい説明したらどう?」

「……っ、ボ、ボクはっ……」

「だから聞こえないって!」

 今にも泣きそうな声でか細く言う水瀬さんに対して、吉村さんは覆いかぶせるような大きな声でまた水瀬さんの言葉を塞いだ。こいつ、水瀬さんに答えさせるつもりないな? このままずっと水瀬さんのことを見世物にするつもりだ。

「ハッキリさせてほしいんだよね」

 吉村さん……吉村はたて続けに水瀬さんに向かって苛立ちを隠さない素の言葉を浴びせる。その口調は水瀬さんのことを陥れることが目的で、わざと水瀬さんを困らすような言葉を選んでいるようにも見えた。その魂胆に腹が立ってきたその時――――

「はーいそこまで」

 ――――さきほどの吉村さんの声をしのぐ大きく凛と通る声と、手をパンパン叩く音が教壇の方から聞こえた。みんな反射的に顔を上げると教壇には室長の長峰さんと副室長ではなく、担任が立っていた。

「吉村、もうやめろ」

「……チッ」

 今舌打ち聞こえなかったか? 俺と吉村は教室の端と端のすごく遠い席にいるので俺で聞こえたということはそれだけ大きな舌打ちだったという事だ。不機嫌な様子を隠すつもりすらないって感じだ。

「水瀬さんも、今日はもう休め」

「…………」

 水瀬さんは何も言わず、視線を落としたままうなずいた。

 冷めきった教室の空気はもう先生でもどうしようもないほどになってしまっているので、先生はチャイムがなる前にみんなに解散を言い渡した。長峰さんが号令をして、一応の解散になった。

 もうテストも終わって、夏休みまで秒読みになって明日から三者懇談と短縮授業だけの一番浮つく空気なのに、誰も騒がずそそくさと去るものや友人同士で何やら話し込む奴らばっかりだった。

 そんな水瀬さんは逃げるように教室を抜け出してしまった。

 あのまま放っておけるわけもなく、俺もすぐに支度をして水瀬さんを追いかけた。

「待って水瀬さん」

 長い廊下の先で水瀬さんを捉えた。

「一応今日まで図書委員あるけど…………どうする?」

 今日は月曜日だ。明日から三日間短縮授業で午後から随時三者懇談を行い、三日後の木曜日に終業式を終えて、晴れて夏休みだ。

「……ごめん、今日は休む」

 分かってはいたが、やっぱり休むらしい。もちろん俺に止めることはできないし、「そっか」としか言えなかった。

「じゃあ、また今度」

 水瀬さんはそれだけ言い残すと、俺のことを振り払って昇降口までトボトボと弱い足取りで向かった。俺にそれを追いかけることはできなかった。


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