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第十六章

※ この話に様々な性的志向を否定する意図はございません。

また後々そういったものをほのめかす描写が登場する可能性も大いにあります。しかしそれはあくまで物語上の演出のため、フィクションとしてご理解ください。


誤字確認はしましたが、それでも漏れはたくさんあると思います。ご指摘の程よろしくお願いします。

また、制作の都合上、タテ書きで作った文をそのまま貼り付けてあるので、改行等不自然なところがあるかもしれません。

「―――――……しちろくしじゅうに、しちしち……しじゅうく! しちはごじゅうろく、しちくろくじゅうさん!」

「うん! おっけー!」

 小学二年生の秋、算数の時間が勝負の時間になった。

 それまでも算数は嫌いじゃなかったけれど、突如現れた「かけ算」という新しい計算を覚えるのにみんな必死だった。それはもちろんボクも同じで、先生の前で何も見ずに言えたらもらえる「宝石シール」を貼ってもらうために必死で頑張ってた。

「はい! あおいくん」

「やったー!」

 先生に渡したボクの「かけ算暗記シート」という厚紙の「七の段」に一枚、知らない青色の宝石のシールが貼られた。キラキラと光ってる宝石のイラストの下に「ラピスラズリ」と書かれていた。

 どうやらこのちょっと暗い青色の宝石はラピスラズリというらしい。今まで集めた六枚、「トパーズ」「サファイヤ」「オパール」「エメラルド」「ルビー」「アメジスト」のどれとも違う、どんどんボクの紙がきれいな宝石で埋まっていくのがたまらなくうれしかった。

 次は「八の段」だ。また覚えなおしは辛いけど、このシールのためなら頑張れそうだった。

 それに、ボクよりも先に八の段をクリアしてシールをもらってる子はもう数人いた。なんか学校が終わった後も塾ってところで勉強してるって言っていたし、そんなのズルじゃんと思う自分もいた。

 でも帰ったらお母さんがいないうちにDSでカービィやっておかないと、お母さん帰ってきたらなかなかさせてくれないし、それに宿題も終わらさなきゃいけないし、すごく忙しい。八の段の練習する時間あるかな……? なんて思っていると、チャイムが鳴って今日の授業が全部終わった。

 どうやら5年生と6年生はまだ六限目があるらしくて、この曜日はいつもより同じ時間に帰る人が少なかった。ボクは人の少ない通学路を急いで走って帰った。家まで必死に走れば十分で着く。すごく息が上がるけど、カービィの方が大事だ。最近覚えた言葉で言うと、背に腹は代えられない。

「はぁ、はぁ……あれ?」

 ランドセルの肩紐を持って、息を切らしながら家の前まで行くと、家の前にお母さんの車が停まっていた。ボクはランドセルに紐でつけられていつもは小さいポケットに入れてある家の鍵を鍵穴にさしたが、ガチャリとは言わなかった。鍵が開いていた。

「あおいおかえり」

「た、ただいま」

 玄関の扉を開けると、お母さんがいた。

「今日はお休みだったの」

「そうだったんだ」

 いつも朝はお父さん、ボク、お母さんの順で家を出るからお母さんが今日お休みだったことなんて知らなかった。ほんとはこんなこと思っちゃダメかもしれないけれど、ちょっとだけがっかりしてしまった。

「あれ? 走って帰ってきたの?」

「えっ? あー、う、うん……」

「何かあるの?」

「え、えっと……」

 DSでカービィしようとしてましたなんて言ったらお母さん嫌な顔するかな? もしかしたらDS取り上げられちゃうかも……

「く、九九! 次は八の段だから!」

 はじめてボクはしっかりと意志を持って自分のためにお母さんに嘘を吐いた。

 今までお父さんと協力してお母さんにサプライズをするときくらいしか嘘なんてつかなかったのに、今ボク、自分のためだけにお母さんに嘘ついちゃった。

 胸の中がすごいモヤっとした。

「そう! じゃあ七の段は言えたのね!」

「う、うん! 今日言えたよ」

「すごいじゃない! 一番難しいでしょ? 七の段って」

「は、八の段も同じくらい難しいよ」

「ははっ、たしかに鬼門だね。さ、手洗ってうがいしなさい」

「うん……」

 ボクがついた嘘は家に急いで帰ってきたのは九九の練習するからじゃなくて、DSでカービィをするためだということ。それにお母さんは気付いていないのか、七の段を言えたことをすごく喜んでくれた。それがより一層、胸のモヤモヤを強くした。ボクは今悪いことした。保育園の時に先生に怒られたことはあるけれど、その時はお母さんからも叱られた。それもそれで嫌だったけれど、ボクが悪いことをしたのに、お母さんがそれに気づかないで笑ってくれたはもっともっと嫌だった。

 気が付くと目に涙が浮かんでいた。今泣いちゃうのは変な話だし、この歳になって泣いてるなんて思われたくなかったから、手洗いうがいをした後に顔も洗った。これでバレないはずだ。

 ランドセルを自分の部屋に置いて仕方なく八の段の暗記シートを取り出した時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。

「あおい、入っていい?」

「なに?」

 ボクが返事すると、お母さんが入ってきた。

「今日ね、あおいに提案があるの」

「提案?」

「あおい、体育とか、身体動かすのは好き?」

「え? ……どうだろう」

 体育の時間って言っても、今やってるのは逆上がりだし、走り回るようなことはあまりしてない。むしろ、体育の時間はあまり好きじゃない。授業中はともかく、前後の着替えがすごく嫌だった。

 保育園の時は部屋がなかったから男の子も女の子も同じ部屋で着替えていたし、それを何も不思議だとは思わなかった。でも小学校に入ってからは更衣室っていうのが出来て、男の子は教室で、女の子は更衣室で着替えるようになった。女の子と男の子が分かれるようになって、もちろん男の子と一緒に教室で着替えるようになって、それがすごく恥ずかしく感じるようになった。だから体育の授業中は良いんだけど、着替えの時がすごく嫌だった。

 でも、そんなこと誰になんて説明すればいいのかずっと分からなくて、ずっと今日まで誰にも言わずに隠してきた。それを今この場で言うのは変だし、お母さんが聞いてきたのも「運動が好きかどうか」って話だ。今はしなくてもいい。

「うーん、普通かな」

「普通か」

 ボクの曖昧な返事に、お母さんも困惑したような声を返した。

「なにかあったの?」

「さっきも言ったけど、提案があるの」

「うん」

「あおい、サッカー初めてみない?」

「…………えっ?」

 お母さんの口から出た「サッカー」ってのは、相手のゴールにボールを蹴って入れるあのサッカーだ。クラスの男の子たちがやってるからさすがに分かる。

 しかしそんな今まで縁もゆかりもなかった競技をする機会が急に自分に降りかかってきた理由が分からなかった。

「え? なんで?」

「お母さんね、この前あおいの学校の人たちとお話したときに、あおいもあの学校のサッカークラブに入らないか? って勧められたの。お母さん、すごくいいことだと思うし、いい機会だと思うんだけど、どう?」

 学校のサッカークラブっていうと、あのクラスでよくはしゃいでる男の子たちがいるクラブだ。

「いや、ボクは……」

 断ろうかと思ったけれど、その言葉が咄嗟に出てこなかった。

 多分さっきカービィをしようとして走って帰ってきたのに、九九の練習をすると嘘をついてしまった時のモヤモヤのせいだ。お母さんの提案を断るのが、すごく悪いことのように思えてなかなか何も言えなかった。

「…………うん、や、やってみる」

 少し迷いながらそう言うと、お母さんは「そう! よかった!」とすごく喜んでくれた。

 その喜んでくれた顔で、ボクの胸の中にあったモヤモヤが少し無くなった気がして、ああこれでよかったんだってボクも少し安心した。


 〇 〇 〇


 そんなこんなで意図せずサッカーを始めることになって、気が付けば4年の月日が経っていた。

 入ってから知ったのだが、練習こそ少し厳しいがそこそこ実力のあるチームだった。ボクの先輩にも「ナショナルトレーニングセンター制度」、いわゆる「トレセン」に合格し、練習会に参加する人もいるほど地域では名の知れたそこそこ強いチームだった。そんなチームにそれまでサッカーに全く興味がなかったボクが一人参加してついて行けるわけもなく、万年二軍のベンチ温め係だった。

 でも正直、それが苦だと感じることはなかった。

「あおい、準備」

「はい」

 公式試合中、そうコーチに言われて、ボクはアップをするのではなくベンチの下に置いたままだった救急箱の準備をした。コーチはボクより年下の子に簡単な指導をして、ボールがタッチラインをわったタイミングで審判に選手交代の旨を伝えた。すぐにホイッスルがなって肩を担がれたてベンチに戻ってきた子と交代でボクより年下の子がコートに入った。

「大丈夫?」

「っ、いてぇ……」

 二人の選手に肩を担がれてベンチに戻ってきた同い年のキャプテンである「新垣 翔太」、通称「しょうちゃん」。しょうちゃんは太腿を抑えて苦悶の表情を見せた。

「足、延ばすね」

 多分、相手の選手とぶつかった直前まで全走力で走ってたから、衝撃で裏の腿をつったんだと思う。そうと分かればしょうちゃんを仰向けに寝かせ、足を持ちあげてつま先を押して、裏腿を伸ばすように力を込めた。小学六年生の弱い力じゃ多分効果は薄いから、もっと強く、強く押し込む。

「っ……おけ、あおい、ありがと」

「もう大丈夫?」

「あぁ」

「これ、アクエリ。あ、水の方がいい?」

「いやアクエリもらう。サンキュ」

 ギュッギュッと力を込めると、しょうちゃんはすぐに立ち上がってしまった。裏腿を気にする素振りは見せているが、ぐりぐり足を回していたし大丈夫そうだ。ボクから受け取ったアクエリのふたを開けて滝飲みで一口分飲み込んだ。

「コーチ、行けます」

「待て、今日はあいつをもう少し使う」

「でもっ…………はい、わかりました」

 そうコーチが言うと、少し不服そうにガッカリした様子でしょうちゃんはベンチに腰掛けた。力を抜くように勢いよく座ったものだから、ベンチがガシャンと少し音を立てた。ボクが座ってもこんな音ならないし、ほんとに彼は体躯がデカい。

「……あおい、座らないのか?」

「えっ、あ、ごめん」

 しょうちゃんが座ったところが今までボクの座っていたところだったから思わず固まってしまった。一人ユニフォームの上にビブスを着たボクが立ったままというのも変だし、ボクは今コートに入った後輩の座っていたところに腰掛けた。

「足、大丈夫?」

「ああ。随分よくなった」

「よかった」

「水もっと飲まなダメかな」

「そうだね。水飲まないと、足つるっていうしね」

「お腹ちゃぽちゃぽになるんだよな」

「それは飲みすぎ……」

 そう茶化すと、しょうちゃんはそれまでの試合を下ろされた時のガッカリした顔が嘘のようにニカッと笑った。もう夏も終わって、ハーフタイムのさらに半分の10分の時に行われる給水だけの時間も無くなったけれど、まだまだ日が照っているうちは暑い今日この頃、足がつるまで走って辛かったろうに彼は爽やかな笑顔をボクに向ける。こういう人が、ほんとはするスポーツなんだよな、と真逆の人間であるボクは一人思った。



 小学二年生で入ったサッカークラブ「みつばサッカースポーツクラブ」は、ほとんどボクと同じ小学校の生徒で構成されたチームだった。週に四回、学校が終わった放課後と土日のどちらかに練習があって、日によってはそのまま家に帰らず、その学校で練習を開始することもあった。

 そして今日も、あと一限授業を終えればその練習が始まる。

 たまたま今、窓際の席で外を見やれば五限で授業が終わる低学年の子達が高い声を発しながら叫んで帰る姿が見えた。

(……いいなぁ)

 頬杖を突きながら気だるげにそんなことを思っていた。

 四年も続けたサッカーだったけれど、正直あまり好きにはなれなかった。練習は厳しいし、根本的に運動は得意じゃない。よっぽど雑用をしている時のほうが有意義で楽しかった。

 学校の洗濯機の使い方を知っているのはボクとコーチだけだし、みんなの水筒とボールを見て誰のか一発で分かるのもボクだけだと思う。じゃあもうそっちだけでいいじゃないかと思う時もあるけれどそういう訳にもいかないんだよな。週四回もある練習が億劫で、その日はため息が止まらない。

 ふと、視界の端でクラスの女子が二人、手を繋いで教室を出て行ったのが見えた。

 教室でもずっと二人で一緒にいる仲のいい二人は、お互い一人だったら何も話さないのに二人でいる時だけはお互いにしか見せない笑顔を見せる。その笑顔を盗み見てしまった。すごく楽しそうで、幸せそうだった。

(いいなぁ……)

 そんな二人を見てボクはそんなことを思ってしまった。

 な、なんか人のこと羨んでばかりだな、ボク。

 でも今のはさっきの五限で帰る低学年の子達に抱いたものとはちょっと違って、今からの練習を疎んで帰宅することを羨んでるんじゃないっていうのじゃしっくりこなかった。

「……ん?」

 自分が思い抱いた感情の正体が分からなかった。なんか気持ち悪い。

「あおい、練習行こうぜ」

 なんて考えていると、そんな思い悩んでいることなど毛ほども気に留めてない勢いでしょうちゃんがボクの視界全体を塞ぎながら声をかけてきた。

「しょうちゃん……うん。行こう」

 彼が来てからさっき悩んだ感情については一度持ち帰ることにした。すぐに切り替えるように、ボクも立ち上がった。

 しょうちゃんはボクと違ってサッカーを、このチームを楽しんでる。多分本気でサッカーが好きなんだと思う。この前もプロの試合を見に行ったと自慢してくれた。トレセンの試験を受けるほどサッカーに真剣で、それをコーチもきちんと汲み取って、実力に相当したキャプテンという地位を彼に与えている。

「あおいはさ、中学行ってもサッカーやるの?」

 廊下を歩いている間、ふとしょうちゃんがそんなことを訊いてきた。

「あー……いや、多分やらないと思う」

「なんで? なんか別のやりたいのあるん?」

「いや、特にないけど……別にもう十分やったかなって」

「ふーん……」

 しょうちゃんはどこか不貞腐れたように、少しだけ落胆したように頬を膨らませてポケットに手を突っ込んだ。彼には「サッカーを十分やった」という感覚は分からないだろう。

「まあ、あおいあんまりサッカー好きそうじゃなかったしな」

「ッ……気づいてたんだ」

 たしかに、サッカーへの関心とか興味に関しては他の子達よりも薄いかもしれない。でも、一応練習は真面目に取り組んでたつもりだったけど、しょうちゃんにならバレてても仕方ないなって思った。

「あおい、自分がサッカーしてる時の顔見たことあるか?」

「いや、無いけど」

 必死に走ってボールを追いかけているときに都合よく鏡があるわけでもなく、あったとしても集中して見れていないと思うし、見れるわけがない。

「なんつーか、運動の疲れとは違う、酷い顔してる」

「っ……」

 しょうちゃんは基本的にはチャランポランしているが、サッカーにだけは真剣で、みんなに指示を出したり意見交換をするくらいにはみんなのことに気を配っている。そんなしょうちゃんが言うんだし、ほんとに辛そうな顔をしているんだと思う。

「気づかなかった」

「コーチも、それに気づいてたから試合にお前をあんまり出さなかったんだと思う」

「それは違うよ。単純に技術の問題だよ」

 ボクがそう事実を口にすると、しょうちゃんは「そんなこというなよ」とでも言いたげな様子で、眉に皺を作り苦虫を噛んだような顔をした。その顔があまりにもブサイクでボクは思わずプッと笑ってしまった。

「なんて顔してるんだよ」

「いい顔だろ?」

「はいはい」

 しょうちゃんが調子に乗り始めたらこんな風に軽くあしらうのが鉄則だ。これは彼と同じクラスの人たちなら誰もが知っているしょうちゃんの対処方法。このままはやし立てようものならネチネチと付きまとってくる。最初こそ面白いがいつの間にか鬱陶しくなってくる。

「で、そんな好きでもないサッカーの練習に今からいくのか?」

「そりゃ」

 今までだってそうしてきたわけだし、と言う言葉が思い浮かんだがさすがに口に出すのはやめた。あまりにも無神経が過ぎる。だけど実際、誰かに改めて言われるとなんだか自分がこのまま練習に向かうのも変だなとも思った。いつの間にか当たり前になっていたが、なんで今日までやりたくもないスポーツを怒られながら続けてきたんだろう? 今更こんな中途半端な時にやめようとも思わないけれど、あと少しで終わるのだしきちんと落とし前のようなものはつけないといけないかもしれない。

「……うん。いくよ」

「よかった」

 そう、しょうちゃんは無垢に笑って見せた。

 ボクなんていてもいなくても変わらないようなチームメイトがたった一度、練習に行くというだけで彼は嬉しそうに笑ってくれるんだ。

 少なくとも今日はこの笑顔に免じて一日頑張ってもいいかと思った。


 〇 〇 〇


 練習が終わった。二時間ほどある練習時間のうち、最後の三十分程はゲーム形式の練習を、チームを半々に割って行う。オレンジビブスとミドリビブスチームに分かれて、一軍二軍関係なくコーチが振り分ける。みんなまだ小学生でコーチが教えてくれる論理的な技術面の話がピンと来ているのはほんの一握りしかいないけど、この試合形式の練習はもれなくみんな楽しんでる節がある。そりゃ、サッカーが好きな人たちなんだから試合形式の練習が好きなのは当たり前なんだけど、そうじゃない人からしたらただただ技術的な違いの現実を突きつけられる酷な練習でもあった。

「はぁ、はぁ……」

 膝に手を付いて息を整える。

 最近寒くなって来て七時前まで走ってると身体は温かいし汗ばむのに外は寒くてすごく変な気分になる。あー、早く帰ってお風呂入りたい。

「あおい、これ頼む」

 すると、ボクと違ってピンピンしてるしょうちゃんが自分の来ていたオレンジのビブスをボクに渡してきた。

「あ、うん」

「俺のも」

「たのむ」

「ああ、ちょっと」

 しょうちゃんがボクに渡したのを見て、他のみんなも続々とボクの手元にビブスを置いていく。なんなら年下の子だって一番年上のボクにビブスを投げてきた。別に良いけど、それ中学になったら怒られるからな? と思いながらも渋々受け取った。両手いっぱいに汗でぐっしょり濡れたビブスをかかえ、「洗濯前」と書かれた箱に入れて、学校指定の洗濯機のもとへもっていく。

 用具室の隣にある小さな洗濯機しかない小部屋。古い洗濯機が一台と洗剤があるだけで他は何もない。まずは元栓の蛇口を開けて、洗濯機にビブスを乱雑に投げ入れる。全て入れ終えてから洗剤を既定の量、きっちりと測って入れる。この前しょうちゃんにこの仕事を任せると、洗剤の量はでたらめだったし、水道の元栓を開けずに回したものだから、生暖かいだけの臭いビブスができた時はほんとにコーチとボクの二人でめちゃくちゃ怒った。

 それからというものこの洗濯の作業はボクがほとんどするようになった。そっちの方が楽だし万全だと思う。グォングォンと大きな音を立てながら今にも壊れそうなほど揺れている。あとはコーチが学校との事務作業をし終えたタイミングでコーチが回収して干してくれる。ボクの仕事はこれで終わりだ。

「あ、あおい。それ畳んどいてくれ」

 と思っていたのだが、みんなのもとに戻るとコーチからゴミ袋くらい大きなナイロン袋を渡された。その中身は先日洗ったビブスたちだった。こんなの自分で畳んで持って来いよと思ったが、もうグラウンドをならすレーキはみんなが使ってるし、手持無沙汰だったから了承した。

 だけどコーチ、ボクにそれだけ任せて自分は学校の先生たちとタバコ吸いに行くのはどうかと思いますよ? はい。

 ナイロン袋から同じ色のビブスを取ることを意識して、一枚一枚取り出して畳んでいく。

 ゆっくりゆっくり、端と端を丁寧に合わせながらきちんとカゴに全部収まるように畳んでいく。多分今日の練習が始まる直前に乾燥機にかけて同じナイロン袋に詰め込んだんだろう、少しだけ柔軟剤の匂いがする。でもこれもカゴに詰めて用具室に戻せばすぐに泥臭い臭いに変わってしまう。今グラウンドでレーキをかけているみんなは、毎日つけているビブスがほんとはこんないい匂いがするということを知らない。ボクだけが知っている特権だ。

 ボクはグランドから少し離れたところから、ビブスを畳みながらグラウンドのみんなの様子を見ていた。

 まだ入ったばかりの二年生の子が重たそうにレーキを引いている姿も、四年生たちがあまり余る体力の赴くままにレーキを持って走り回る姿も、ボクの同級生たちがそれらを注意する姿も、ここなら全部見える。

 全部見たうえで、今日の練習の前にしょうちゃんに、ここのキャプテンに言われたことを思いだす。


『なんつーか、運動の疲れとは違う、酷い顔してる』


 ボクはこの子達の中にいる時、そんな酷い顔をしているらしい。

 けれど今ここで見る限り、みんな疲れこそあるけれど酷い顔をしている子は一人もいない。ボクだけが一人浮いてたんだろうな。

 そんな事実をもうじき卒業だという時に知らされて、一人輪の中に入らず雑用をしているのは少しだけさみしい気持ちもあった。適材適所と言えば聞こえはいいが、ボクはこっちだなと改めて思った。あの輪の中に、真に溶け込めることは無いと思う。

「あおい」

 ふと、後ろから声を掛けられて、振り返るとしょうちゃんがボクのことを見降ろしていた。

「しょうちゃん」

「何やってんの?」

「何って……雑用?」

「相変わらず性の出ることで」

 なんて笑っている言う。いつもなら受け流すのだが、少しボクも思う所があった。

「しょうちゃんもさっき加担したじゃん」

 何やらしょうちゃんはボクのことを可哀そうなものを見るような憐みを込めた眼で見てきたけれど、そもそも初めにボクにビブスを押し付けてきたのはしょうちゃんだし、この人がボクに何か言う権利は一切ないのだが、一体何様なのだろう……

「そりゃ、お前が欲しそうな顔してたからな」

「はっ? んなわけないじゃん」

 しょうちゃんが何言っているのか意味が分かんなくて、思わず眉間に皺を寄せて聞き返してしまった。

 しかししょうちゃんはこっちを何やら自信のある顔で見返してきた。

「お前、今自分がビブス畳んでる時の顔見たことあるか?」

 なんかデジャブを感じながらその質問にボクは怪訝な顔で返す。

「いや、見れないし」

「じゃあ、教えてやる――――――」

 しょうちゃんはボクの隣で膝を曲げて、しゃがみ込んでボクと同じ目の高さで口を開いた。


「すごく、楽しそうな顔してる」


「……………………。」

 そう、しょうちゃんは屈託のない笑顔でそう言った。

 彼が何を言っているのか分からなかった。確かに、ボクは試合に出て活躍できるような人間じゃないから、こうしてみんながしなくてもいいような雑用ばかり進んでやってきたつもりだったけれど、楽しんでたかって言われると、イマイチピンとこない。

「適材適所ってやっぱり俺あると思うんだよ」

 しょうちゃんは続けた。

「あおい、みんなのこと通観してる時、すごくうれしそうな顔してる」

「……どういう意味だよ」

「知らん! それは自分で考え」

「っ……」

 なんて無責任なと、ボクが思うのは今の彼の言葉のせいで自分の中で何かがグラッと大きく揺れたからだ。でもそれが何かは今のボクには分からなかった。だから教えてほしいと、彼に尋ねようとした。だけど彼は教えてくれないし、自分で考えろと一蹴した。

 彼が言う適材適所、ボクの適材適所がもしもここなんだとしたら、ボクは一体何なんだ?

 一つ、思い当たる感情があった。だけど、考えたくなかった。

「あ、ちなみあおいって自分がみんなになんて言われてるのか知ってる?」

「え、知らんけど……『あおい』じゃないの?」

「はははっ、そりゃそうだけどさ……ここだけの話やで?」

 しょうちゃんは周りを気にする素振りを見せると、ボクに顔を近づけて耳打ちした。


「あおい、みんなに『お母さん』って言われてるよ」


「ッッ――――――⁉」

 しょうちゃんはしょうもない嘘はつかない。全員じゃないだろうけど、ほんとに影でボクのことをそう言っている人たちがいるんだろう。憤りは感じない、哀しみも感じない。そんな感情にソースを割くこともできないほどの動悸にかられていた。今日までいつの間にか忘れていた大事な想いを思い出さされたような気がして、すごく懐かしくもあった。

 ただ漠然と想っていた気持ち。いつの間にか忘れて考えもしなくなったバカみたいな願い。

「ははっ、なんだよそれ。ボクは男だよ?」

 だけど今は、その感情がすごく虚しく想えてならなかった。

 いつ初めて抱いたかもわからないその願いを、無理だとこの歳になったらさすがに分かるから。いつの間にか忘れてしまったのは、どうしようもなく実現不可能で、考えるだけバカみたいな空想でしかなかったから。空想でしかないことに気付いたから。

「まぁ、ただのあだ名だから気にすんな」

 しょうちゃんはそう笑って立ち上がる。するとグラウンドの方から彼の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。彼はグラウンドの方を向いて「今行く!」と大きな声で返事した。

「待って」

 彼がグラウンドの方へ行こうとしたのを見た、ボクは彼を止めてしまった。

「ん?」

「しょ、しょうちゃんはどう思ってるの?」

「おれ?」

「しょうちゃんも、ボ、ボクのことそう、思ってるの?」

「そうって……あー、あだ名のことか。だからあんまり気にすんなって」

「いいから!」

 ボクの声が少し震えてしまっているのに気づいたか、しょうちゃんはボクのことをジッと見下ろした。彼の目に、ボクボクはどんなふうに写っているのだろう。今日二度も言い当ててくれた彼がどう思うのか、ボクは知りたかった。

「……まぁ、あながち的外れだとは思わん」

「っ……」

「今もほれ、なんで律儀に正座しながら洗濯物畳んでんだ?」

「これはッ……」

 言われるまで気付かなかった。なんとなく今までも誰かにいわれたからとかじゃなく、自然にビブスを畳むときは正座をするようになっていた。

 でも、所詮はそれだけだ。誰だってあるような小さな癖。

 だけどそれだけでボクの心は異常なまでにかき乱されていた。

「それに、たまにこいつかわいいなって思う事はあったぞ」

 少し照れながら笑うしょうちゃんの言葉に、ボクは何も言えなかった。

 自分の中にしまっていた、思い出しちゃダメな感情を思い出してしまった。

 ダメだ、これはダメだ。今そそられている心は鎮めなきゃダメだ。絶対にこれから苦労することになる。自分が自分じゃなくなるような、はたまた本当の自分を見つけてしまったような、気分だった。ただ、この胸の疼きだけは、よくないものだということだけは分かる。

「……? ハハッ! お前何顔真っ赤にしてんだよ」

「ッ……う、うるさいなぁ!」

 正座のままの膝の上に強く握った拳を当てて、しょうちゃんの顔も見ずに叫ぶ。

「………………だいじょうぶか?」

 すると、しょうちゃんは本気でボクのことを心配するようにボクの正面を向いてしゃがみ込んだ。少し伸びた前髪を少し触れて、ボクの顔を確認するように手をかけてきた。

「ッッッッ⁉⁉」

 あれ? ボク今なにした? しょうちゃんの手を振り払って、のけぞったのか?

 まだ動悸がすごい。この真っ赤な顔を見られたくないというのもあるが、それだけじゃない。今ボク、しょうちゃんに触られたくないって思った?

「……あおい?」

「ご、ごめんなさい! ボク、……ちょっとトイレ行ってくる!」

 そう言い残して、ボクは弾かれるように校舎の方へ走って逃げた。背後から聞こえた「お、おう」という曖昧な返事がまだ耳に残ってる。

 さっきまで必死にボールに向かって走っていてとうに息は上がっていたが、身体は不思議なほど走れた。何度も息を切らしては、不味い粘り気のあるツバを飲み込んでカツカツとスパイクでコンクリートを捉える音を鳴らしながら、必死に逃げるように足を動かしていると、スパイクのとげが、側溝の金網に引っかかって足を取られてしまった。

「ッ! イッ……」

 受け身も取れず、コンクリの上でザザザと勢いよく転んでしまった。

 身体を打ち付けた衝撃は徐々に収まったが、膝のあたりの染みるような痛さはなかなか消えてくれなくて、なんとか身体を起こしてズボンをまくると膝が大きく擦りむけていた。こけた時にすったらしい。ただ擦りむいただけなのにものすごく痛かった。痛くて、痛くて、どうにかなってしまいそうだった。

 今にも泣いてしまいそうなほど痛みを必死に堪えていると、次第にその痛みがただの擦りむけた痛みではないことに気が付いた。痛いのは心だ。新しく買った靴が、実際履いて過ごすとものすごく靴擦れしてしまった時のように、今まで心の奥底で隠れていた感情が浮き彫りになったようで、自分の身体のあり方に失望していた。

 ああ、やっぱりダメだな……ボクはやっぱり……

 ほとんど確信に近い感情を抱きながらトボトボとトイレまで歩いてきた。校舎の裏にある外用のトイレ。まだしょうちゃんたちに会いたくなくて、だけど嘘が下手なボクはとにかく言い分けに使ったトイレへあてもなく向かうしかなかった。

「……あ、えっと……」

 まさか自分がこんなことを思うなんて思いもしなかった。

 どっちに入ればいいのか、分からなかった。


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