第十四章
※ この話に様々な性的志向を否定する意図はございません。
また後々そういったものをほのめかす描写が登場する可能性も大いにあります。しかしそれはあくまで物語上の演出のため、フィクションとしてご理解ください。
誤字確認はしましたが、それでも漏れはたくさんあると思います。ご指摘の程よろしくお願いします。
また、制作の都合上、タテ書きで作った文をそのまま貼り付けてあるので、改行等不自然なところがあるかもしれません。
「……お母さん、どうしてここに?」
あおいの背後の扉の奥に立っていた女性はあおいのお母さんらしい。たしかに言われれば目許とかは似ているかもしれない。あおいは服の下の身体の造りこそ男性だが、それでもかわいい女の子として見えてしまうのは凛とした綺麗なお母さんに似たからかもしれない。
しかし、そんなお母さんにあおいはどこか怯えたように声を返していたし、あおいのお母さんはあおいをただ見下ろすだけで何も言い返さない。
すると、電車が発車する旨のアナウンスが駅内に響いた。あおいはもう降りたいだろうに、怯えるようにお母さんを見上げてそこから動く様子が見られない。
「……どいてよ」
「いや」
母親が子供に向かって言うとは思えないほど冷たい声で短く言うと、あおいの肩を掴み、軽く押して自分も電車に乗り込んできた。
「っ……!」
あおいのお母さんが電車に乗り込んだタイミングで電車の扉が閉まり、電車がガタンと揺れた。
目の前で何が起こっているのか分からなかった。本人が言うのだから、あの人はあおいの母親で間違いないのだろうが、その母親が冷たい目であおいのことを見下ろしてあおいはそれに怯えている。
あおいから家族の話を聞いたことはなかった。だけどその理由が今少しだけ分かったかもしれない。
強い視線であおいを見下ろしている母親と、その視線に怯えるようなあおいとを戸惑いながら交互に見ていると、あおいのお母さんと目が合った。
ほんの一瞬。他人に向ける視線だけでも今ものすごく不機嫌で、刺激してはならないという事だけは分かって、俺は金縛りにあったように身体を固め、逃げるように視線をそらしてしまった。
「すみません」
すると、先ほどと同じ声色で、だけどさっきの「いや」とは違うどこかやわらかく温かい声音が聞こえた。案の定、あおいのお母さんが俺に向かって話しかけて来ていた。
「はい……」
笑顔で優しく声を掛けられているはずなのに、俺の声はかすかに震えていた。
「不躾に申し訳ないんですけど、もしかして緒方陽彩さんですか?」
「っ……」
あおいのお母さんはニコニコした表情で俺の名を呼んだ。ただ名前を呼ばれただけ、むしろ十代のガキにも丁寧に対応してもらっているはずなのにそれが余計に怖かった。
「あ、申し訳ありません。私、水瀬美里と申します。いつも〝息子〟がお世話になってます」
「はっ?」
本人からしたら先に自分が名乗らなければいけないとか、それくらいの感覚だったんだろうけど、一言聞き捨てならない単語が聞こえた。
「息子」。
今、このあおいの母親、美里さんは自分の子供、つまりあおいのことを何のためらいも躊躇もなく「息子」とハッキリ口にした。はっきりとあおいのことを男性だという人に初めて会ったものだから、何が起こっているのか理解できなかったが、目の前にいるのは俺なんかよりもよっぽどあおいのことを知っている大人だということを思いだして、動揺は一体置いておいて頭を切り替える。
「すみません、失礼なことを言って。はい、俺が緒方陽彩です」
「そうですか! かねてからお名前を窺っておりました。いつも息子がお世話になっております」
「いえ……」
俺のたった一言だけの失礼な言葉なんて気にも留めない様子で、美里さんはニコニコと愛想笑いを浮かべた。
「お隣よろしいですか?」
「え? あ、はい」
何か俺に話でもあるのだろうか? かねてから俺のことを知っている、あおいのことを息子と呼ぶ実の母親が俺の隣に座ろうとして何もないとは考えられない。
「あおいも、ほら」
「…………」
美里さんは俺とは反対側の席を二度叩き、あおいにそこに座らそうとする。あおいは渋々といった様子で美里さんの隣に腰掛けた。
「お母さん、なんでここにいるの?」
一度息を吸ってから、あおいは美里さんに話しかけた。
「なんでって、これからお酒を飲む用事があるだけよ」
「こんな真昼間から?」
「あんたは知らないだろうけど、社会人に夏休みはないし、仕事と会食が同じことだってあるのよ?」
「っ……」
じゃあタクシー使いなよ、なんて言っても険悪になっていくだけだと思ったのか、あおいはそこまで言って黙り込んだ。
「突然ごめんなさいね」
「いえ」
突然俺の方に白羽の矢が飛んできて焦ったが、それを表に出さないように努めて平静を装って返事をした。
「いつも息子がお世話になってます。ご迷惑などかけてなかったですか?」
「そんなこと全くないですよ。僕自身も楽しませてもらってます」
あくまで品行方正に、この人に正面だって敵意や悪意のようなものを向けてはダメだと確信し、相手の琴線に触れないように言葉を返す。
「……そうですか。何分変わった子ですから」
美里さんを挟んだ向かい側で座るあおいは肩身が狭そうに俯いている。
「それで……その、今あおいが電車に乗っているのは、緒方さんの手助けがあったからですか?」
「いえ、自分の力なんて微々たるものですよ。あおいさんが頑張ったからです」
これは嘘偽りない正真正銘の本心だ。俺は結局何もできていない。
「そう……」
美里さんは零すように言葉を吐くとあおいの方を見た。
「がんばったのね」
「うん」
端から見れば自分の子供を激励する親に見えるはずなのに、美里さんの「がんばったのね」という言葉には労いの意は全く感じ取れず、むしろ「余計なことしてたのね」という突き放すような言葉に聞こえた。
「たしかに、電車に乗れるようになったのはいいことだと思います。親の私からしても感謝してます」
俺の方を見ずに、美里さんはあおいの背中に手を回した。
「ッ⁉」
「よく頑張ったと思う。思うけど……」
あおいの背中を何度も上下にさするその仕草はこの前俺がやっていた仕草そのものだった。もちろん相手は母親だ。俺なんてまだ友達になってすぐにギリギリ他人でないだけの男で、そんなどこの馬の骨かもわからない俺が美里さんに勝るとは思っていない。思っていないが、背中をさすられて顔を真っ白にして、口許をガクガクと震わせているあおいをみてなんとも思わないほど鈍感でもない。
険しい顔をしているであろう俺の方を美里さんが振り返ると、そこには先ほどまで愛想笑いは消えていた。お互いの本性むき出しの表情に、これからが本番だと俺は人知れず理解した。
「緒方さんの気持ちは分かりません」
「俺の気持ちなんてどうでもいいでしょ?」
「いいえ。あなたは自分がしてる事の意味がまだ分かってない」
美里さんは俺に詰め寄る。それは俺が今まで体験したことのないほどの圧があった。これが敵意むき出しの大人からの本物の威圧感だと、十六年しか生きていない俺は気圧されつつあった。
「あなたは本当に、あおいが今の姿のままこれから生涯を全うできると本気で思っているの?」
「………………………」
美里さんからその質問を聞いた時、俺は何もできなかった。
言葉という鈍器で思いっきり頬を殴られたようだった。自分に足りていなかったものを言い当てられて、今まで考えもしなかった「これから」という高校生には想像することさえできない未来を急に見せられて、俺は自分の浅はかさを思い知らされた。
「今のあなたはそりゃ楽しいかもしれない。でも、こんなことこれから先もずっと続けていけると本気で思っているの? 今のあおいがしていることは彼の将来にも影響を及ぼすことなの」
美里さんの目から光が徐々に抜けていく。俺に詰め寄る勢いも次第に強くなってきた。
「今あなたが考えなしに肯定しているあおいのこれは、いずれあおいの将来を悪いものにさせることだってこと分かってます? あなたにその責任が取れるんですか?」
「いや、俺は……」
俺は今まで比較的真面目に生きてきた。だから大人に注意されることはあっても本気で怒られるようなことはほとんどなかった。だけど今、人生ではじめて見たことないほどの剣幕で大人に詰め寄られて、俺はどうしたらいいのか分からずたじろいでしまった。そんなつもりじゃなかったと口で言うのは簡単かもしれないが、そんな簡単なことさえ開かなくなった口ではハッキリと言い切ることはできなかった。
うっかり気を緩めれば泣き出してしまいそうだった。それだけはあまりにみっともなさすぎるので何とか必死に耐える。だけど生理現象のように薄く眼球に膜を張ってしまう。
「普通なら交友関係で責任なんて感じることは無いと思います。でも、あおいは……この子は違うんです。この子は普通じゃない、今のうちになんとかしないといけないんです」
「やめてお母さん」
徐々にヒステリックになっていく美里さんの言動は内容こそ決めつけばかりの横暴なことばかりだが、その奥にある美里さんの母として子供を思う気持ちみたいなものも、俺に必死に訴えかける言動から感じ取れた。
正直意外だった。悲壮感すら漂う美里さんの表情の正体は紛れもなくあおいの将来への心配と愛情だった。俺への高圧的な言動のせいで勝手にあおいのことを縛ろうとしていると勘違いしていた。今のあおいのことを否定したいというのは変わらないかもしれないが、その奥にあるのは自分の子供に他の人と同じように健全に生きてほしい、茨の道を進まないで生きてほしいという親なら至極当然の理由だった。逼迫した剣幕に隠れてはいるが、美里さんもれっきとしたあおいのことを思う人だった。
「だから、もうあおいのことは放っておいてください」
「もういい加減にして!」
美里さんが俺に向かって頭を下げようとした時、激昂した声が電車内に響いた。それまでも俺たちのことを妙なものを見る目で見てきた人たちはいたが、今回の突然の大声には皆一様に、叫んだあおいの方に目をやった。
「あ、あおい?」
「〝わたし〟この前言ったよね⁉ 周りの人たち巻き込まないでって! 無理やり陽彩くんの名前聞き出したり、懇談会で先生に詰め寄ったみたいに緒方くんに詰め寄ったり、なんでそんな周りの人たちのこと巻き込んでそんなことするの⁉ 人の迷惑になるってことがなんでまだわかんないの‼」
座席から立ち上がったあおいは、美里さんのことを見下ろすように怒号を飛ばした。相当気が動転しているのか、一人称がいつもの「ボク」から「わたし」になっている。たったそれだけの変化なのだけど、それは美里さんにとっては強烈だったのか、俺以上に目を見開いて瞳に浮いた薄い水面が揺れて、何も言わず固まってしまっていた。
しかし、そこは大人だ。その揺れた瞳に力を込めて眉間に皺を寄せながら対抗した。
「ッ、だから! なんでそれをあんたに言われなきゃいけないの! 一番人に迷惑かけてるのはあんたでしょ⁉」
「違う‼ わたしは誰にもわたしのことを認めろなんて言ってない! 何かを強要しようとしてるのはお母さんだけだよ‼」
「そんなの口だけでしょ! 変に気持ち悪い上目遣いなんか使って被害者ズラして、ワガママいうのも大概にしなさい!」
「ワガママだなんて片づけないで! お母さんには分からないよ、生まれ間違えたわたしの辛さなんて‼」
「ッ――――――⁉」
パチンッッ‼
俺がマズいと思った瞬間には美里さんはもう手を上げていて、刹那に俺が立ち上がった時には肌と肌が激しく触れ合う生々しく甲高い音が鳴った。聞いているだけでこっちも目を背けてしまいたいの音とほとんど同時に、体制を崩すあおいが見えた。
「あおい!」
俺はぐったりと足から崩れて倒れるあおいに駆け寄る。
「何よ、生まれ間違えたって! それが産んだ親に向かって言う事かッ‼」
「…………」
美里さんの激昂に、あおいはただただ俯いて何も言わない。
「こっちこそ、あんたをこんな面倒な子に産む気なんてさらさらなかった! 自分だけ被害者ズラするのも大概にして! あんたみたいな子の子守りする親の気持ちにもなって見ろ!」
あおいの肩を支えるように彼女に寄り添っている俺でさえ、その言葉を直に浴びて自分のことを言われているわけじゃないと分かっていたが、それでもズキズキと胸が痛んだ。
他人の俺ですらそうなのに、実際の母親にそう言われたあおいはどうなんだろうか、と思ったが、ただ目に影を落とすだけであおいは微動だにしなかった。
そんな俺たちの騒動をさすがにまずいと思ったか、奥の車両から車掌さんがこちらに向かってやってきた。
「……うるさい」
すると、車掌さんがこの車両に入ってきたのとほとんど同じタイミングで、あおいは小さくつぶやいた。
「うるさいうるさい! もう嫌だ! もう、わたしなんてっ…………!」
いつもの声とは違う、喉をひっかくようなガラガラの低い声では浮いて聞こえる「わたし」の一人称が霞むくらいの悲痛な叫びは俺の耳に強く残った。
そして丁度、見計らったように電車が駅に到着する。
濁流のように流れた涙をぬぐいもせず、しゃがみ込んだまま美里さんのことを睨み上げる。
「……もう、勝手になさい」
「ッ……⁉」
美里さんは親指で簡単に涙を払うと、腕を組んであおいと目も合わせず容赦なく言い放った。
実の母からの拒絶を一身に受け、あおいは地面を蹴ると這うように開いた電車の扉から一人逃げ出してしまった。
「あおいっ! 待って!」
俺はそれに置いて行かれまいと同じように彼女の後を追おうとした。
しかし電車を抜け出す瞬間、まるで慣性の法則が消えたようにピタリと足が止まり、俺は背後に目をやった。
俺の背後では、美里さんが変わらず少し目許に涙を浮かべながらも不貞腐れた顔で立ち尽くしていた。そんな自分に向けられる俺からの視線に気づいたか、俺の方を見て震えたため息を漏らした。
「追いなさいよ」
「言われなくても追いますよ」
「…………っ」
少し黙ると美里さんはすぐに涙を拭った。
この人はあおいのことを否定して、やっていることは吉村と変わらない。あおいのことだから俺達とは違い、両親には自分のことを話しているはずだ。キチンと話したうえでここまで分かり合えなければ、こうなるしかないのかもしれないが、にしたってあまりに報われなさすぎる。それに美里さんからはたしかにあおいのことを思う気持ちも垣間見えている。ならなおさら辛いだろう。だったら……
「とりあえず、今晩あおいは俺の家で預かります」
「ッ!」
俺の提案に美里さんはハッと驚いた顔でこちらを見る。
「今日はもう家には帰れないだろうし……一度二人とも頭を冷やして時期が来たらまた話し合ってください」
美里さんは何かいいたいことがありそうな顔でこちらを睨み、口は何か言いたげにビクビク震えているがその口から言葉が紡がれることはなかった。ただ俺のことを睨む目が徐々に柔らかくなるだけだった。
「それじゃあ、失礼します」
俺はそれだけ言い残して頭を下げた。一瞬だとしても子供を預かるのだし、礼儀として頭を下げてから電車を抜け出した。
「…………っ、あおいをお願い」
扉が閉まる音と、発車のアナウンスが同時に鳴ったその瞬間、かすかではあるが美里さんがあおいのことを俺に歎願する声が聞こえた。俺が驚いて振り向いた時にはもう扉はほとんど閉まっていて美里さんの表情を読み取ることはできなかったが、おそらくすごく哀しそうな顔をしているんだと漠然と思った。
正直、俺にはどっちが正しいのか美里さんを見ていて分からなくなってしまった。今のあおいが辛い想いをするのは絶対に嫌だが、もしそうすることで未来のあおいが生きにくくなることも嫌だ。美里さんは後者をとったのだろう。親としてそれは正しい選択だと思う。子供の未来を案じるのは、どこの親も同じ事だ。
じゃあ、俺は? 俺はいつのあおいを支持すればいい?
美里さんの言う事は分かる。だけどそれじゃ納得できない自分がたしかにいた。これまで俺があおいにしてきた事に全部自信が持てなくなってきてしまい、悶々とした気持ちが胸の中でくすぶっていた。
その燻る気持ちを糧にして、俺は階段を二段飛ばしで上り、改札内であおいの姿を探すが、改札の内側では彼女の姿を見つけることはできなかった。
「くそ」
焦りと苛立ちから舌打ちを漏らしながら、改札を抜けはじめて降りた知らない駅を見渡す。
すると改札内から死角になっているところに、うつむきながらしゃがみ込むあおいの姿が見えた。彼女の周りを通る人たちは彼女のことを奇異な目で見ているが、声をかけるものは誰もいなかった。
「あおい」
俺は平静を装いながら彼女に駆け寄り、刺激しないように起伏のない声で彼女の名を呼んだ。
「……来ないで」
あおいからの返事は、少し低い声だった。
「今顔見られたくない」
「なんで?」
「ぐちゃぐちゃだから……」
涙でメイクが取れてしまったのを気にしているのか、あおいは両手で顔を覆い、地面に尻をついて体育座りの状態で膝に顔を埋めていた。
「そんなの気にしない」
「ボクが気にする」
そうかもしれないけれど、俺は今のあおいを見ておかないと、今の彼女から目をそらすことは許されない気がして、彼女と同じ目線の高さまでしゃがんだ。
「なあ、あおい。俺はさお前のことをまだ何も知らない。お母さんとの関係があんなにヒリついていたなんて初めて知った」
「……うん」
「これがこの前図書館ではぐらかしてた『言えないこと』なの?」
「…………そうだよ」
図書館であおいはまだ言えないことがあるという旨の言葉を残していた。それが気になってはいたが、家族関係のこととはあおいが今日まで言わなかったのも納得だ。
美里さんの様子を見てなくなった自分の自信と、うしろめたさに一度蓋をした。これは俺の問題で、俺一人で解決すべき問題だ。今考えることじゃない。今は、とりあえずあおいの安全確保。それだけに集中する。
「ごめんなさい。ボク、また陽彩くんにも隠し事してた」
「いいよそんなこと。それを言ったら、俺だって……」
俺は長峰さんに言い当てられた嫉妬の気持ちを思いだした。
あおいと長峰さんが一緒にいたら、俺といる時よりも楽しそうにしていると、それを見てどうしても思う所が出てしまう。そんな浮ついた到底褒められない気持ちを抱いてしまっていることを俺はまだあおいに隠している。
「隠し事はみんなあるんだよ」
「……陽彩くんも?」
「俺は……まぁ、人並みに」
そして長峰さんからみんなそうだということを教えてもらって、ズルい返事をしてしまった。
あおいからそう言及されるとやっぱり気まずいが、俺は未だ俺に顔を見せてくれないあおいの背中をさすり続けた。
「だけど、俺はもう気にしてない」
「…………」
「だからあおい。もう一度だけ顔を見せてくれないか?」
あおいのことを刺激しないように努めて声を絞り出した。
「……嫌だ」
「どうして?」
「…………陽彩くんにまで嫌われたら、ボク……もうダメだ……」
「嫌うものか」
即答した。たとえ俺がこれから彼女と共にしてどんな考えになろうとも、不謹慎と分かっていながらも、彼女と二人きりになれていることにほんの少し高揚している気持ちは変わらないのだから。
「ちゃんと、目を見て話そう?」
「…………引かない?」
「引くものか」
「失望しない?」
「しないよ」
「怖がらない」
「怖くなんてない」
「嫌いにならない?」
「絶対にならない」
「…………ははっ」
俺は彼女の質問にすべて即答した。するとあおいは何かが吹っ切れたように短く小さな声を震わせて笑ったように見えた。
「あのね、陽彩くん」
「なに?」
「ボクの身体は……男なんだ」
「っ……うん」
「だからね、ほんとは顔つきも体つきも男のもので……き、気持ち悪い顔が浮かび上がると思う…………それでも、いいの?」
「そうだね…………正直、びっくりするかもしれない。でも、大丈夫。ちゃんと向き合って受け止めるから」
あおいからのこの質問だけは即答せずに一度考えた方がいいと思い、正直に答えた。
でも、あおいの元が酷かろうとそうでなかろうと、俺には知ったことじゃない。あおいはあおいだ。関係ない。
「……じゃあ、えっと……うん」
あおいは両手を顔から離して、恐る恐るこちらを振り向いた。
彼女の言うように、濁流のように流れてしまった涙にそってメイクが崩れてしまっていた。そしてそれを無造作に拭ってしまったからか、本人が言うようにグチャグチャになってしまっていた。
他人からしたら「見るも無残な」と言われてしまいそうな顔なのだろうが、俺はそうは思わなかった。どれだけメイクで覆い隠そうと、それがはだけてしまったとしてもそこにいるのは俺の知っている水瀬あおいなんだから、俺が引いたり、失望したり、嫌ったりするいわれはない。ただ、俺はあおいから目をそらさない事だけを心掛けた。
「う……え、えっと……」
すると、あおいは気まずそうに顔を少しそらしながら瞳孔を泳がせた。
「……ごめんなさい、こんなボクで」
すると突然、うつむきながらあおいはそんなことを言い出した。
「き、気持ち悪いですよね! いやぁ、なんで自分でもこんなことになってるのか分からなくて、あははっ……ほんとバカみたいですよね、ごめんなさい、こんなボクで……」
「何言ってんだお前」
突然あおいは聞き取れないような早口でごめんなさいとまくし立てた。その言葉の意味が点で分からなくて、俺は思わず低い声で糾弾するように言ってしまった。
まるで自分を守るための盾を作るように言葉の壁を作り、そこに引き籠っているようだった。ヤドカリのように牙城を築き、自分の膝を引き寄せて引き籠り始めてしまった。
今になって自信を無くしてしまったのだろうか? そりゃ、メイクが崩れた顔を見られたのは初めてなんだろうけれど、今更そんな風に拒絶されるとこっちも嫌気がさしてしまう。
「あおい。俺が今更男のお前を見て態度を変えるとでも思ったのか? そんなこと、絶対にしない」
「……でも」
「いいか? お前が俺のことを見てくれないと、俺もお前のことを見れない」
「…………」
そう言うと、あおいは渋々と言った雰囲気で膝から顔を上げて俺のことを揺れる瞳孔で見つめた。その瞳に、俺も強い視線で返す。
「これは俺からの要望なんだけどさ……あんまり、自分を卑下しないでほしい」
「卑下って、そんなつもりは」
「お前は自分が思ってるよりもすごいことを今までやってたんだぞ? 無理に自信を持てとは言えないが、あんまり自分を否定しないでくれ」
「……でも」
「でもなんだ? お前が何か言ったら、今までのお前が女の子として生きてきた事実が消えるのか?」
「…………」
そうだ。あおいが今どれだけ自分を卑下する言葉を紡ごうと、今日まで女の子として生きてきた事実が変わるわけじゃない。今自分を卑下して救われるのは今傷ついているあおいだけだ。今自虐してほんの少し楽になるだけ。それじゃダメなんだ。
「今だけは、今も未来も見なくていい。今はまず、できていた過去を見てもいいんだ。そしてこれ以上自分を傷付けないでくれ。長峰さんも言ってただろ? 今日はもうよろこんでいいんだ」
「………………でも、でも、でもっ……!」
あおいは目に浮かんだ涙を振り払うように顔を左右に振り、言葉を絞り出した。
「でも、これからどうしよう…………明日じゃなくても、今からボクはどうすればいいのか分からない……今のボクはもう、帰るところもなくなっちゃった」
ポロポロと涙をこぼしながら、その涙に呼応するように唾を含んだ言葉が漏れ出た。
まだ叩かれた頬が痛むのか、それとも傷をつけた母の気持ちを思い出すためか、美里さんにひっぱたかれてじんわりと赤くなった頬に触れながらうつむいた。
「もう、あの人のいる家に戻れない」
「…………戻らなくてもいい」
「えっ?」
「今日は俺の家に行こう。ここからちょっと電車に乗るけど、いけるか?」
俺は内心すごく緊張しながら彼女にそう提案した。友達を家に上げたことも数えられるほどしかないのに、あおいのことを数日間家に上げようとしている。到底家に帰れる状況じゃなくて、選択肢がないと分かっていても提案するのは勇気がいって、彼女の返事を聞く前に言葉を続けてしまった。
「数日なら俺の家でも大丈夫だと思う。明日明後日はバイトもないし……あ、別にバイトあっても半日しかないし、少し部屋で待ってもらえるなら全然」
「ま、待ってよ! え? どういうこと?」
しかし俺の言葉に割って入るようにあおいは困惑の滲んだ声を上げる。
「ボクが、今から陽彩くんの家に行くってこと?」
「うん。あおいがよかったらだけど」
「い……嫌ってわけじゃない! ……でも、いいの?」
一度改まって確認されてしまった手前、嫌だったのかと少し悲しいトーンで言ってしまったからかあおいは比較的強く否定してくれた。別に俺の家に上がることに抵抗があるわけではないらしい。安心した。
「もちろん。親に確認するのは今からだけど」
俺は立ちあがってスマホを取り出す。とはいってもうちの両親が拒否してくるとは到底思えない。いや、でもあおいのことを見たら驚きはするかもしれない。ちゃんと説明しないとだな。
「…………っ」
ふとまだしゃがみっぱなしのあおいのことを見下ろすと、もうとっくに涙も枯れてしまった目許が少しだけ柔らかくなったように思えた。ホッと安心したからか、どこかさっきまでと違い、ほんの少しだけでも心に余裕が生まれたであろうその表情が見れてこちらも安心した。
「ほんとに、ありがとう……」
「こちらこそ」
言ってから気づいたが、この返しは意味が分からないか? ま、いいや。
俺はまだ何も掛けていないスマホを一端ポケットにしまい、空いた右手をあおいに差し出す。
すると、あおいは少し戸惑いながら右手をズボンで軽く拭いてから俺の手を握り返してくれた。