第十三章
※ この話に様々な性的志向を否定する意図はございません。
また後々そういったものをほのめかす描写が登場する可能性も大いにあります。しかしそれはあくまで物語上の演出のため、フィクションとしてご理解ください。
誤字確認はしましたが、それでも漏れはたくさんあると思います。ご指摘の程よろしくお願いします。
また、制作の都合上、タテ書きで作った文をそのまま貼り付けてあるので、改行等不自然なところがあるかもしれません。
翌日。俺はいつもより一本早い電車に乗って、学校の最寄り駅にやってきた。夏休みのほぼ毎日電車に乗り続けて、そろそろいい加減車窓から見える景色に辟易して、車内広告に嫌気がさしてきている自分がいた。
改札を抜け、切符売り場の前にある待合室を見ると、お目当ての人物が少し背を丸めながらスマホに目を落としているのが見えた。
ガラガラと少し重い引き戸を開けると、その人物もこちらを見据えた。
「おはよう」
「……はよ」
俺は気力のない返事をしてから、長峰さんの隣に腰かけた。
「あおいちゃんの話聞いたでしょ?」
「うん」
「今日まで頑張ったよね」
「うん」
「あ、でもそれは緒方くんの方が分かってるか」
「……うん」
「…………」
我ながら愛想のない返事だと分かってはいたが、どうしてもそんな言葉しか口から出てこなかった。長峰さんよりも俺は長くあおいの隣で一緒に練習を見てきたけれど、俺が成したことは結局ほとんどなかった。ほとんど長峰さんが来てからの成果だ。「電車に乗った後に何かをする、褒美のような楽しみを作る」なんて簡単なことさえ俺は思いつかず、ただ闇雲にあおいを疲弊させるだけだった。
そんな練習も今日で最後らしく、こんな沈んだ気持ちで最後を迎えるなんて思ってもみなかった。
「ねぇ、なんでそんなに機嫌悪いの?」
「ん?」
もしそう思ったとしてもそれを直球ストレートで聞いてくるとは思わなかった。
「なんかあった?」
「……いや別に」
少し心配するような表情で俺のことを見ているし、これが彼女の素なのだろう。まさか自分も半分加担しているとは思わないだろう。
「何? 私にあおいちゃんとられて嫉妬してんの?」
「っっ!?」
それまで自分が思っていたことをなぞるような言葉が長峰さんの声で聞こえてきた。オブラートに包むこともなく直球すぎる長峰さんの言葉に恐れに近い感情を抱きながら見ると、彼女も「え?」みたいなぽかんとした顔をしてこちらを見ている。え? はこっちの台詞なんだが?
「え? ほんとに……」
「っ…………ちが」
「えぇぇぇ!? ほんとにそんなこと考えてたの!?」
「ち、ちがうってッ!」
俺以上に動揺している長峰さんがそこにいた。俺も図星ですよと言わんばかりに間を開けてしまったのがダメだった。スパッと答えていればまた何か違っていたかもしれない。いや、違わないか。そう勘付かれている時点でこちらがボロを出さなくても長峰さんなら気付きそうだ。
「うわっ、なんかごめんね。知られたくなかったよね?」
「ああぁ、謝られるのが一番きついからやめてくれ。あとそのうわってのも。マジで効く」
俺は右手で顔を覆いながら左手で彼女のことを指さす。
いや、ほんと恥ずかしすぎる。あまり褒められた感情じゃないのは分かってたし、ほんのさっきまで長峰さんは分かってないだろうなと高を括って、どこか鼻で笑っていたところがあったが文字通りその出鼻をくじかれてしまった。心のどこかで、「あ、これ黒歴史になって時々うなされるやつだ」と根拠のない確信を得た。
「いや、そのほんとにごめんね」
「だから謝るな……」
幸い小さな待合室で俺と長峰さん以外誰もいないからこのお互い距離間を分かりかねているむず痒い空気が充満していた。ほんとどうすればいいんだこの空気。
それにしたってこんなにあっさりバレるか? 女の子に対して少し浮ついた感情を抱いているのが知られるのってほんとにしんどい。しかも今回は突然言い当てられてしまったから、こちらの覚悟も何もなかった。むしろ向こうが負い目を感じるという最悪のタイプだ。
「分かってると思うが、これあおいには言わないで」
「言わないよ」
「……はぁぁ、なんか改めて長峰さんに言われると自分が如何にキツい感情抱いてたか分かるわ」
俺は背を丸めて、膝に肘をついて重く湿ったため息を吐き出した。
それで一緒にいてくれた異性が自分じゃなくて別の人に尻尾を振るようになったことに嫉妬だなんて、思い返すだけで恥ずかしい。
「はは、こんなの前にもあったね」
「前にも? ……あ、誕プレの時か」
あおいへの誕生日プレゼントを贈るという話をした時、長峰さんに意外そうな顔をされたが、あの時も俺があおいへの一方的な感情が出てしまっていた。今俺は黒歴史を絶賛生み出してしまったが、あの時だって苦汁を飲まされた。黒歴史とは言わなくとも、痛い目に遭ったのに、何も反省してないな俺。
「まぁ、だいたいみんなそうだよ」
「えぇ?」
俺は疑いをもった目で長峰さんを見ると、長峰さんは足を延ばしてふらふらと上下に少しだけ揺らしていた。
「みんな、本人には言えない感情をどこかで抱いているんだよ。仲が良ければ良いほどね。でも言うべきじゃない、わざわざ口にする必要はないから、って胸の内にしまい込んでる。さっきはたまたま外に出ちゃったけど、本人の耳にさえ届かなかったらなんでもいいんだよ」
長峰さんが口にしたあやすような優しい声に、それが彼女の本心だと強く感じた。
長峰さんは俺なんかより交友関係は多いし、先生たちからの評判も良い。多分色んな人と話してきたのだろう。その中で思う事はたくさんあっただろうし、そんな彼女だからこんな風に思うのだろう。
「本人には言えない感情か……」
確かめるように口の中で転がすと、俺は何か具体的にそう思うきっかけがあったわけでもないのにたしかにそうか、と腑に落ちた。
「そんな言わなくてもいいことをわざわざ口にするから、終業式前の教室みたいになるんだよ」
ふと、そう長峰さんは愚痴をこぼした。
表情は少しだけ険しくなり、両足も地面についていた。
「終業式前……あ、吉村か」
長峰さんは「そ」と短く言って、ベンチに座りなおした。
確かにあいつが教室であおいに悪態をつけたのには正直驚いた。あれからすぐに三者懇談で短縮授業だったり、夏休みも始まったすぐにクラスメイトと会わなくなったから目に見えてあれ以上発展はしなかったが、同時に衰退もしなかった。吉村みたいにあおいに反対派の人はたしかに浮き彫りになった。たった数日、ほんの数時間ではあったが、吉村が言った日から夏休みが始まるまでの間はたしかに居心地は悪かった。
「ああいうのが、ほんとに言っちゃだめな感情」
「……分かってる」
そんなこと言われなくてもわかっている。だけど、長峰さんは苦しそうに「うーん」と唸っていた。
「どうかした?」
「…………これ、あおいちゃんに絶対言わないでね」
「ん?」
「今から言う事、絶対にあおいちゃんに言わないで」
「え? う、うん」
念を押すような長峰さんからの忠告に、こちらも思わず姿勢を正してしまう。
「私もさっきの嫉妬云々のこと絶対言わないから、緒方くんも同じってことで」
「うん、わかったって」
俺のことは言わないから、私のことも言わないでくれと、そういうトレードなのだろう。
なんか、少しだけあおいに申し訳ない気持ちがあったが、長峰さん曰く多かれ少なかれみんなこういうやりとりがあるというし、長峰さんとの関係も今更反故にするのは気が引けた。それに、長峰さんもわざわざ念を押しながら言ってくるところを見ると、相当参っているのだろう。俺に吐き出せるなら、吐き出させればいい。
「星名もさ、友達だから色々話聞いたりするんだよ。あいつの気持ちも。あおいちゃんを見てるとイラついて腹立つとか、女舐めてるとか」
「そんなこと言うんだ」
俺は今まで以上に吉村のことが嫌いになりそうだった。吉村が腹立ってることは全部、あおいが頑張って得たものだ。それに腹を立てるのは逆恨み以外の何物でもない。
「実はね? 私も、それちょっとだけ分かっちゃうんだ」
「えっ?」
長峰さんが何を言っているのか分からなくて、俺は咄嗟に長峰さんの方を見てしまう。すると、彼女も俺の方を見ていてバチンと目が合った。
「緒方くん、今星名に腹立ってでしょ?」
「え……まぁ、そりゃ」
たしかに腹は立ったが、それを長峰さんに言い当てられるとは思ってなかった。それが何を意味しているのかも、俺には分からなかった。
「星名の気持ちも同じようなものだと思う」
長峰さんは小さく息を吐いて続けた。
「あおいちゃんは努力の人だよ。多分そうとう頑張って今のあの格好をしているんだと思う。もともと女の子顔だったのもあるだろうけど、男の子の身体であそこまでいくのは私たちから見てもすごいと思う。だからこそ羨ましいと思うし……だからこそ、面倒なこと全部取っ払って好きな部分だけ、「女」をやってるのはズルいって思うんだろうね」
「そ、そんなの言いがかりじゃん」
「言いがかりだよ? でも、腹立つものは腹立つんだよ。それに理屈とか正しさとか関係ない。もっといったら、生理的な話でもあるだろうし」
「……」
「あおいちゃんの意思が尊重されるのは当然として、それは星名の意思が尊重されない理由にはならないと、思っちゃうんだよね」
「それは……どうだろう」
人の数だけ正義があるってのはある意味正しいのかもしれないが、都合のいい言葉だなと思う。
今みたいなときに白黒つけないための言い訳に聞こえてしまうから。
「もちろん、だからって何を言ってもいいてわけじゃない。でも、私も、その気持ちは分かっちゃうんだ」
それは俺には分からない、同じ女の子だからこそ分かる気持ちなのかもしれない。長峰さんは少し哀しそうな顔をして、お腹の当りに手を置いた。
「もちろんあおいちゃんのことは大好きだし、そこに嘘はないけれど……それだけじゃないよ…………ま、色々あるんだよ。人間だから」
「……わかったから、もういい」
今はもう何も聴きたくなかった。長峰さんにも、吉村にも、あおいにも三者三様の思う所があるのは分かっていたつもりだが、それを面と向かって伝えられるとどうも胃もたれしてならない。
だけどある意味ではそれは俺も同じで、俺も人のことは言えない。
「ふふっ、私でよかったね」
「何が?」
「緒方くんの恥ずかしい話聞いちゃったのが」
「……そう思わせてくれよ?」
これで二人ともお互いにあおいには言えない、ちょっと黒い秘密を知った。これでウィンウィンになってお互いに他言しない状況が成立した。片方が一方的に知ってたら、いつか口を滑らせてしまうかもしれない。だけど、こうしてお互いに監視するように保管していれば、よほどのことがない限り大丈夫だろう。だが、念のため釘を刺したつもりだったのだが、長峰さんは得意げに「ふふん、まかせて」と胸を張るだけだった。
〇 〇 〇
それからは二人とも今までの話をあえてしないようにして、なんの変哲もない他愛ない話をした。俺も知られてしまったことで逆に少し心が軽くなって、いつも通り長峰さんと話すことができた。
「そろそろだね」
長峰さんが手首に巻いた小さな腕時計を確認すると、俺たちはそれまで二人しかいなかった小さな待合室から出て、改札をくぐらずに待った。ほんとはエアコンの効いた待合室で待っていてもよかったのだが、それはそれですごく緊張してしまって、勢いで待合室から外へ出てしまった。
「あー、なんか私が緊張してきた」
「大丈夫だ。俺もだ」
足を少しジタバタさせる長峰さんの隣に立って、俺も腕を組んでつま先を地面にグリグリ押し込む。
「二人してバカだね」
「バカでいいよ」
なんて話していると、踏切が降りてカンカンと警告音が聞こえてきた。
「あー、ダメだ私見ない」
「好きにしろ……」
両手で目を覆う長峰さんを払いながら、俺も内心そわそわした気持ちを隠すことで必死だった。
そして、どんどんと電車の走行音が近くなってきて視界の端でいつも乗っている馴染みの電車を捉えた。
今日は、あおいが一人で電車に乗っている。そして、一人で学校の最寄りまで行くからと、俺達二人にその駅で先に待っていてくれと、彼女からそう言ってくれた。だから俺は一本早く電車に乗って学校の最寄りまで来たし、長峰さんもそれに合わせて来てくれた。
もしあの電車にあおいが乗っていなかったら、乗っていても満身創痍だったら、と色々な心配は尽きない。見たくない長峰さんの気持ちもすごく分かる。
だけど、俺は目を離しちゃいけない気がして、しっかりと改札の前を通過する電車を見送った。
「い、いた?」
「わからん」
一瞬だったのであおいが電車に乗っていたかは分からなかった。見えなかったけれど、たしかにそこにいると、あそこに乗っていたと根拠のない自信は確かにあった。
電車が完全に停まり、乗っていた人たちがピッピッと改札にICカードを通してこちらへやってくる。その人混みを二人して目を皿にして一人の女の子を探した。
「あ――――、緒方くん」
すると、隣にいた長峰さんが俺の袖を引っ張った。
袖を引っ張られ、そちらを見るとたしかにそこには見覚えのある人物がいた。
その人物はてくてくと一歩ずつこちらに向かってくる。改札のICカードリーダーにスマホをかざして、バタンと改札が開くと、改札を一歩ぬけて、正面にいた俺達の方を見上げた。
「こ、こんにちは……ふたりとも」
髪の毛は少し遊ばせ、その黒髪の奥に見える耳元にある蒼いイヤリングを携えた彼女は、額に汗を浮かばせながら不器用に口角を上げながら、だけど「無事だったよ」と言葉にせずとも分かるようなどこか安心したような表情で俺たちに笑って見せた。
思わず泣きそうになった。一月前まである事件をきっかけに電車に乗れなかった彼女が、今トラウマを克服して、電車に乗って俺達の前に姿を現したのだから。
「あおいちゃぁぁぁあん!」
隣にいた長峰さんは耐えきれんとばかりに彼女に泣きながら抱き着いた。
「がんばったね! ほんとに!」
「うん……ありがとう、明日見ちゃん」
二人して熱い抱擁を交わすのを目の当たりにして、俺は壁にもたれながらその姿を邪魔しまいと達観していた。もちろん今にも小躍りしたいほどにはうれしいのだが、もちろんそんなわけにはいかず、一人このうれしさと達成感にも似た気持ちを噛みしめていた。いくら咀嚼しても何やら二人で話をしている様子を見ていると、ふいにあおいと目があったかと思うと、彼女はやわらかい笑みを浮かべた。
「あ、陽彩くん」
「ッ!?」
今までとは違うごとかはつらつとした声での名前呼びに驚いて一瞬声が出なかったが、そう言えば誕生日にそんなことを言っていた気がする。
『この電車に無事に乗れたら、ボクも緒方くんのこと名前で呼びたい』
たしかにあおいは誕生日にそんなことを言っていた。あいにくその日は達成することは叶わなかったが、目標を達成した今、満を持して彼女は俺の名を口にしていた。その言葉が、今彼女がここにいる事実よりも、彼女がトラウマを克服した事実を強く俺に示してくれた。
「乗れたよ、陽彩くん」
「ああ、ほんとにすごい。あおい」
「えへへ、陽彩くんのおかげ」
「俺は何も……」
「違うでしょ!」
癖のように否定してしまうと、鼻声になってしまっている長峰さんの声に止められた。
「他に、言う事があるでしょ? 緒方くんの口からも言ってあげなさい」
「っ……そうだな」
長峰さんに背中を押され、いや、叩かれて俺はもう一度あおいと目を合わす。
「おめでとう。お疲れ様、あおい」
俺の労いの言葉に、一瞬目を丸くしたあおいは次第にその水晶のような瞳を潤ませ、その瞳孔を逃げるように俺から離すと「うん、うんっ」と涙ながらにコクコクうなずいた。
乱雑に手の甲で涙を拭ったかと思うと、鼻をズズッと鳴らして、それまでに泣き顔が嘘のように玉のようにわらった。
「うん! ありがとう!」
〇 〇 〇
人生で片道切符なことってたとえばどんなことがあるだろう?
行ってしまったのち、帰ってこれないってことだもんな。そんな行き当たりばったりなこと、少なくとも十代のうちにやるとは思えない。少なくとも俺はしない。現に今も、切符は買わないけれど定期を使って復路の電車に揺れていた。もちろんその隣には、あおいがちょこんと大人しく座っていた。
あおいが一人で学校の最寄り駅まで来れた後、ひとしきり話した後長峰さんは「家の手伝いがあるから」と言って喜びをかみしめながらも、別れを惜しむように帰ってしまった。
そうして俺とあおいの二人だけで電車に乗って復路であるあおいの家の方向へ向かって電車に揺られていた。往路と同じ線路を走っているはずなのに反転して進んでいる車窓から見える景色に違和感がすごい。本当に進む方向だけが反対で、まるで時間を逆行しているような気分だった。
隣の席を見ると、そこにはちょこんと小さく座ったあおいがいた。
初めて乗った時はダンゴムシが身を守るように背を丸めていたのに、今ではほとんど俺の目線と同じ高さに彼女の顔があった。
そんなあおいをまじまじと見ていたからか、彼女も何かに気付いたようにこちらを見つめ返してきた。驚いて咄嗟に視線を前に戻そうとする俺に、彼女は優しく微笑む。
「終わっちゃいますね」
終わったというのは、練習のことだろう。これまでほとんど毎日やってきたことだし、明日から切り取ったみたいに無くなってしまうのは確かに少し寂しいかもしれない。それを体現するように彼女の声音も少しだけさみしさを帯びていた。
「そうだね」
だが、これでいいんだと、目の前にいるあおいを見て思う。
電車に乗るという簡単なことすらままならなかったあおいが今は普通に一人で電車に乗って目的地まで来れて、そして今も何ら緊張する様子もなく雑談ができるまでになっている。これ以上求めるものなんて何もない。
「駅でも言ったけど、あらためてありがとね」
「いいや、俺は…………いや、素直に受け取っておく」
「うん。そうして」
また否定してしまいそうになったが、また長峰さんにやいやいや言われそうな気がしてグッとこらえて彼女からの感謝をしっかりと受け取った。
「ほんとは乗れるようになったら遊びに行きたいとか思ってたんだけど、明日見ちゃんも混ぜてだいたいやっちゃったね」
長峰さんがいると到着した先の駅で大体何かをして遊んだものだ。それが何日も続いたものだから、近隣で遊べる複合施設は大体網羅してしまった。
しかし俺は、彼女がもし電車に乗れたら俺と二人で遊びたいと思っていたことが何より意外で、そんなことを思ってくれていたことがこの上なくうれしかった。
「なんでさ! 行こうよ」
俺が少し強く言ってしまったからか、あおいは驚いた様子でこちらを振り向いた。
「せっかく電車に乗れるようになったんだし、もっと遠出……でっかいテーマパークとかいけるかも」
一気に飛躍してしまうが、ここから一時間程行ったところに日本でも有数のテーマパークがある。あおいも一度は行ったことあるだろうし、他ならぬ俺だって行ったことがあるほどの有名なテーマパークだ。丁度そんなものが電車に乗れば簡単に行けるところにあるのだし、せっかく電車に乗れるようになったのなら新ためて二人で行くのも悪くないと思う。というか俺が行きたい。
そのテーマパークの名前を口にすると、あおいはまた目を丸くして少し吟味するようにそのテーマパークの名前を小さく復唱して、ほんのりと笑った。
「いいかもですね」
「よし、決まりだ。といってももう十日で夏休み終わっちゃうし、いつか空いてる日あれば決めちゃいたいけど」
俺はそこまで言って、バイトを入れたから最近入れたスマホのカレンダーアプリを立ち上げた。少し前の俺ならこんなの入れるなんて思いもしなかっただろう。
「最近、短期バイト始めて、それと被ってない日ならいつでも」
「う、うん。えーっと」
あおいは髪をたくし上げて、俺のスマホに目を落とす。なんかとんとん拍子で決まってしまいそうだ。
二人で日程を打診し、本当に決定してしまう寸前までいった。
しかし、丁度計ったように電車があおいの最寄り駅に到着してしまいそうだった。
「あ、もう着いちゃう」
車内に響くアナウンスを聞いてあおいはそんなことを言う。
「じゃあ、細かい日付はまた今度……あ、いや、今日中にまた連絡する」
「うん。分かった」
若干強引にしすぎたかとも思ったが、善は急げと言うようにもう二人の熱が少しでも冷めてしまわぬように早いうちに決めてしまおうと必死だった。そんな俺とは裏腹に、あおいはこれまでの電車での様子が嘘みたいに爽やかな、憑き物が取れたような顔で頷いてくれた。
今この駅で降りるあおいとは違い、当たり前だが俺は座席に座ったままだった。
「じゃあ、また今度」
「うん。バイバイ」
今までにないほど心を躍らせながら彼女に手を振ると、彼女もこちらを向いて胸の前で小さく手を振り返してくれた。
たったそれだけなのに、それがすごく心が躍った。
そんな風に心を奪われていたから、彼女背後にある扉の向こう側のホームで待つ人の存在に気付かなかった。
「あおい」
たった一言だったのに、凛とした低い声が響いた。
俺が知っているその名前に耳を奪われている間、あおいはそれまでのやわらかい表情が嘘のように強張って、胸の前で上げた手も今では歪な形で固まってしまっていた。
俺がたった一言の名前の意味を理解する前に、あおいは背後を振り返った。
「……お母さん、どうしてここに?」