第一章
※ この話に様々な性的志向を否定する意図はございません。
本作にある性描写はあくまで物語上の演出のため、フィクションとしてご理解ください。
誤字確認はしましたが、それでも漏れはたくさんあると思います。ご指摘の程よろしくお願いします。
また、制作の都合上、タテ書きで作った文をそのまま貼り付けてあるので、改行等不自然なところがあるかもしれません。
第一章
高校の三年間はあっという間に過ぎ去っていく。
人生でも三年間しかない青い春、せっかくなら煌びやかで、大人になって思い返したらその甘酸っぱさに思わず顔をにやけさせてしまうような三年間がいいよな。なんて入学式前までは思っていたけれど、いわゆる「高校デビュー」とかいうやつは事前にしっかり準備してきた奴にだけできる起死回生の一手みたいなもので、さして何もしてこなかった俺のような奴が一朝一夕でできるものでもない。
「まずは室長を決めたいんだけど……誰かやってもいいよって人はいる?」
たとえばこういうとき、スッと手を上げられるような自信と、根拠根拠を得るよか。
「はいっ!」
新しく担任になった先生のどこか遠慮がちな声にはっきりと返事をしたやつがいた。
たしか名前は、えと……「長峰 明日見」だっけか?
彼女に集まる視線にまぎれて俺も彼女に視線を送る。少し遊ばせたロングヘアは、時代錯誤な昔ながらのセーラー服を全く古臭く見せずに、カジュアルにまとめ上げている。また横から見える童顔から、パッと見の印象は幼気に感じるが、ハキハキと通る声に伸びた背筋、さらに室長なんて面倒な役職を買って出る主体性、それらが織りなしてしっかりした人だという印象に様変わりした。
ワッと教室内で拍手が沸き、みな彼女のことを室長として歓迎していた。
「それじゃあ、長峰さん。これから一年室長としてよろしくね」
「はい! よろしくお願いします!」
彼女とは違う中学なので、彼女が昔からああだったのかは分からないけれど、もし違うのだとしたら、彼女のような人にこそ、高校デビューという言葉はふさわしいだろう。
なんて、無いものねだりで他人に関心しながら、このままでは特に目立った出来事もなかった中学生の頃と同じ学生生活を送ることになるというい焦燥感と、相反するう安心感をを抱いていた、俺「緒方 陽彩」は下唇をすこし伸ばしながら賞賛も込めて長峰さんにみんなと同じように拍手を送る。
ここ「峯ヶ丘高校」に入学して三日。俺達一年生はまだ本格的な授業を行わず、今日も今日とてLHRをしていた。ただ、それも今やっている各委員会決めをしてしまえば一段落する。
さすがに三日目となれば、徐々に学校の空気感にも慣れてきて、みんな緊張がほどけてきてどこか堅苦しさはなくなってきていた。
「じゃあ、室長が決まったら次は他の委員会を決めます。長峰さん、早速だけど進行お願いしてもいい?」
「えっ⁉ 私がですか⁉」
「うん。やる気あるように見えるし、どうだろう?」
なんとも惨い提案だ。
「う、うーん…………分かりました。せっかくなんで、頑張ってみます」
悩んだ素振りこそ見せたけれど、なんと承諾してしまった。あっぱれだ。
長峰さんは席を立って教壇へ向かう。まだ顔を合わせて三日しか経っていないクラスメイトの前に立って、彼女は何を思うのだろう? 俺達クラスメイトの顔を一通り見まわして、彼女は高らかに口を開く。
「この度、1年1組室長をすることになりました! 長峰明日見です! よろしくお願いします!」
元気な挨拶と共に頭を下げる彼女に、またクラス中でワッと拍手が沸く。みんな歓迎ムードだ。
「じゃあ、他の委員会のメンバーを決めて行こうと思います!」
長峰さんはそこまで言うとシンと黙り込んで、クラス全体が長峰さんのことを神妙な顔で見つめる。
「えっと、先生。この学校ってあとどんな委員会があるんですか?」
長峰さんのその質問に教室全体が笑いに包まれる。
みんなこの学校に入学してまだ三日、どんな委員会に何人必要なのか、誰も知らない。それは今さっき室長になった長峰さんも同じだ。
先生は「そうだったそうだった」と笑いながら、自身のプリントを長峰さんに手渡す。長峰さんが時より先生に質問を返しながら話を進めると、長峰さんは「では気を取り直して」と前置き、LHRを再開した。
すぐに決まった副室長と長峰さんは、二人協力してこの学校にある委員会とその人数を黒板に書きあげた。そこに各々名前を書いていく方式になった。
みんな一斉に席を立ったので、俺も席から立って黒板の前まで来てみたはいいものの、イマイチどれも魅かれなかった。ならせめて、この後じゃんけんで争うのも面倒だし、人気のない委員会をと思い、チョークを手に取る。まだ一人も名前が書かれていない委員会が一つだけあった。「図書委員」だ。
図書委員は、毎週一回から二回、放課後に仕事をしないといけない可能性があるからと、部活への影響を考えてあまり人気がなかった。
別に俺は部活に入る予定はなかったし、仕事内容自体は簡単そうだったので手にしたチョークをトンと黒板に押し当てる。
――――トン
すると、同じく黒板にチョークを押し当てる音がもう一つ聞こえた。
ほとんど同時に黒板に押し当てたチョークの音に、思わずその方を見ると俺の真横にいた女子が俺と同じところに名前を書こうとしていた。
「…………」
俺より頭一つ分小さい彼女も、不思議に思ったのか俺の方を見上げていた。
肩口まで伸びた後髪と、目許までかぶさった前髪。その隙間から見せるシンと澄んだ目が俺のことを捉える。
「あ、えっと……」
女の子たちはあらかた何人かのグループになって仲のいい人同士で同じ委員会に入ったりしているけれど、彼女はそうじゃないらしい。しかしそれを口にするのはあまりに無神経なように思えて口ごもる。
くっそ、こうなるくらいなら何も言うんじゃなかった。
「…………」
なんて後悔しながら、次の台詞を考えていると、彼女は何も言わずさっさと黒板に苗字を書いて踵を返してしまった。
なんか薄情だなと思いながら、他に入るあてのある委員会もなく俺も彼女が書いた「水瀬」という苗字の隣に自身の苗字、「緒方」と書き連ねた。チョークを戻して、手に付いた粉を払った。
〇 〇 〇
五月中頃。学ランを羽織るのも暑くなってきた今日この頃。俺は学ランを手にして、カッターシャツだけで図書館へ向かった。
毎週月曜日の放課後。それが俺と水瀬さんの図書委員としての仕事の日だった。
案の定、放課後は部活に所属している人たちが敬遠していたので、必然的に部活に所属していない人たちで放課後を賄うことになり、その中で俺達は月曜日の担当になった。
さっそく部活の練習着に着替えた人たちとすれ違いながら、とぼとぼと弱い足取りで図書館へ向かう。
少し重たいガラスの扉を開くと、カランカランとベルが鳴り、ふわっと紙の匂いが鼻につく。古書ばかりが並んでいる堅苦しい図書館じゃなくて、小説や漫画も取り揃えている図書館なのに、どうしても少し埃っぽいというか、古紙っぽい独特の匂いが充満していて、それが妙に落ち着く。
思わずため息を吐きたくなるその匂いを感じながら、俺はカウンターへ向かう。
そこにはもうすでに、水瀬さんがちょこんと小さくなって座っていた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
俺たちの挨拶はいつもこれだった。今日まで何度か一緒に仕事をしてきたが、毎度この挨拶だけは妙にしっくりきて俺の方からつい口にしてしまうんだ。
最初はせっかく一緒に仕事するんだし、少しは話せるようになろうかとも思ったが、それもまだ難航していた。というのも、本来図書館と言うのは口を開くところではないのだし、委員としてカウンターに座っている手前、ルールは順守しないといけない。だから、お互い無理して話すこともないのだ。
「ボク、本出してくる」
「あ、うんお願い」
水瀬さんの一人称は「ボク」だった。女の子からあまり聞かない一人称に少し驚いたが、もう慣れた。
そんな水瀬さんは今日一日で返却された本が積まれたカートを押して書架の方へ行ってしまった。
基本二人体制の図書委員の仕事は、返却された本を書架に戻す品出しの作業と、カウンターで貸出や返却する人が来たらその人の対応をするカウンター業務に分かれる。つまり、二人一緒に何か作業するということはほとんどないのだ。するとしても、品出しを全て終えた後、暇を持て余してカウンターで大人しく座るくらいだ。
毎週図書館に必ず来て、返却期限を絶対に間違えないという理由で先週借りた小説も、そろそろ終わりが見えてきた。毎日繁盛している訳でもないしがない図書館で、カウンターで一人文庫本を読む。まぁ、それも放課後の過ごし方としては悪くはない。
しばらく文字を追っていると、水瀬さんが戻ってきた。
カートを押すカラカラという車輪の音だけがなり、それ以外は驚くほど静かな所作で水瀬は俺の隣の椅子に腰かけて、自分の鞄から一冊の単行本を取り出した。
「…………」
「…………」
二人黙々と本を読み続け、カチカチという壁にかかった振り子時計の音だけがなる静謐な空間が出来上がった。日頃本なんて読まないから、こういう機会でもないとなかなか手が伸びない文庫本だけど、上手に乗れたらあとは文字が自然と続きへ誘ってくれる、この感覚は悪くない。ハマる人の気持ちが、少し分かった気がした。
それから一時間近くが経過した。もうとっくに上がっていい時間だったが、別段急いで家に帰る必要もなければ、本を読むのをやめる理由もなくて、結局100ページ以上残っていた文庫本を丸々読み終えてしまった。
パタンと本を閉じ、読んだ物語が頭のなかでふわふわとまるで雲のように漂う感覚が気持ちよくて「はぁ…」と小さくため息を吐いた。読み終えるといっきに肩や首の凝りが気になりだして、伸びをしたり、首を回してみると凝り固まった骨の感触が確かにあった。
すると、首を回したタイミングで水瀬さんが本ではなくこちらを向いているのが視界の端に見えた。
「あ、ごめん。邪魔だった?」
「いえ、読み終えたんだなって」
「まぁ……うん。面白かった」
「それは、よかったですね」
水瀬さんはそういうと、自身の単行本も閉じ鞄にしまおうとした。
「え、まだ読んでていいよ。俺次の本探したいし」
「いえ、緒方くんが読み終えたら終わろうと思ってたから」
「あ、そう?」
水瀬さんが自身の本を鞄にしまってしまい、立ち上がろうとするものだから、俺も鞄にしまい席を立つ。
「別に、緒方くんはまだ本探してても」
「いや、水瀬さんが帰るタイミングで俺も帰ろうと思ってたから」
「……そう」
なんて今決めたことだけど、彼女も同じようなことをしたんだから言い負かすだけの説得力はあった。
司書さんに挨拶だけして、二人して図書館を去る。
図書館から昇降口まで、少し外を歩かないといけない。その間、俺は水瀬さんの背中を追っていた。というより同じ昇降口へ向かうのだから必然的にそういう形になる。
今は絶賛部活の時間なので、運動部の人たちのけたたましい掛け声や、吹奏楽部のパート練習の音が聞こえてきて、「青春」の二文字が音と形を成して目の前にあるみたいだった。基本はみんな部活動をしているが、中には俺達みたいにただ学校で時間をつぶしているだけの人たちもいた。
「あっ……」
そんな人たちが、俺と水瀬さんのすれ違いざま、何か意味ありげに言葉を漏らしてこちらを振り返った。しかし、水瀬さんはそれを徹底的に無視して、向こうも向こうで興味が失せたようにどこかへ行ってしまった。
(まただ)
こんなことが彼女と歩いていると何度もあった。
誰かが水瀬さんのことを気にするように視線を送るも、誰も声を掛けずに距離をとって見ているだけ。そして、少し笑う。その光景はまるで水瀬さんが見世物にさらされているようだった。
しかし水瀬さんはそんな現状を徹底的に無視していた。
「私は気にしていませんよ」とばかりに徹底的にだんまりを決め込みながら、確実に何かがすり減っているように見える猫背を毎週のように見て来て何かあるのかもしれないと考えるようにはなったが、その内容は聞けずにいた。
そんなずけずけ踏み込んでいい関係にないことくらい、自覚している。
昇降口までやってきて、水瀬さんは少し大きめのローファーを履き、俺はスニーカーを履き、校門を出る。
するとその瞬間、水瀬さんはパッと踵を返し、俺と眼を合わせた。
「なんでついてくるんですか?」
その目には怒りと、いらだちが確かに含まれていて若干気圧されてしまった。
しかし考えてみればそれもそうか。わざわざ同じ時間に図書館を出て、目の届く範囲をずっといるのはストーカーの悪行となんら変わらない。
俺は罪悪感をちょっぴり抱きながら水瀬さんの後ろの方を指さした。
「駅。実は俺も同じなんだ」
俺も水瀬さんも電車通学だ。実際、俺もストーキングするつもりは毛頭なかったわけで、電車の時間も丁度よかったし、一人図書館に残されるのが寂しかっただけに過ぎない。
水瀬さんは俺が電車通学なのを知らなかったのか、若干の疑念を残しながら無理やり納得させたように「……そう」と短くつぶやくと振り返り、駅の方へ歩き出した。
やっぱり、機嫌悪いな。
今までも冷たいと感じることはあったけれど、その態度に攻撃的な意志は感じられなかった。だけど今の言葉には明らかに俺に対する敵意があった。まあ、これに関しては俺にも非があるから一概には言えないけど、いつもの水瀬さんなら絶対に俺のことも無視していたと思う。そんな余裕さえなかった理由を考えた時、やっぱり思いだされるのはあのすれ違った時の反応だ。
あの時からの丸まった背中と、弱った表情がまだ俺の中で印象的に残っているのだ。
一度怒られた手前、これ以上刺激することなんてできないし、適度に距離を空けて、でも電車には遅れないように規則的に歩いた。
若干駆け足で駅の改札を抜け、ホームに降りると電車の到着を知らせるアナウンスが鳴った。一度大きく息を吸い、ハンカチで汗を拭った。別にギリギリの時間に学校をでたつもりはなかったがなぜかこうもギリギリになってしまった。
口許を抑えながら、ちらりと隣に視線をやると俺と同じように息を切らしている水瀬さんが肩で息をしていた。
「……はぁ」
水瀬さんの小さなため息。それをかき消すように到着した電車の扉が俺達を誘うように開く。
「じゃあ、また来週」
「え……うん。じゃあ、また」
去り際、水瀬さんの方から声を掛けられた。少なくとも、こんなことほとんど初めてで俺は思わず面喰ってしまった。
また来週って、小さいころ見てたニチアサでしか聞いたことないような台詞にしばらくしてからじわじわ胸の中が温かくなった。わざわざ向こうから挨拶して来てくれた手前、また近くに行ってしまうのは気が引けて、水瀬さんが入った扉から一つとなりの扉から電車に乗り込んだ。
しかしまぁ、同じ電車の同じ列車に乗り込んだ手前、視界には入る。
七人掛けの座席分離れたドアの手前に水瀬さんが佇んでいた。
毎週、図書委員という大義名分がなければわざわざ言葉も交わさない俺たちが次回の委員会を約束するような言葉を口にしたのはこの時が初めてだった。
「ッ……///」
その日はやけに人の入りが多かった。駅に停まるたびに何人も人が乗車してきて、乗り込んだ時からつり革につかまっていた俺がどんどん車内の中央の方に押し込まれていた。いつもはこんなことないので妙だと思ったが、よくよく考えれば俺は今いつもの帰宅時間よりも一時間以上遅い電車、つまり帰宅ラッシュ真っただ中の電車に乗り込んでいるんだ。
俺の家の最寄り駅まで十駅近く、時間にしてもまだまだかかる。
「うぅ……」
それを思うと蒸れた学ランの気持ち悪さもあってすごく憂鬱だった。
学ランの第一ボタンを外して、天井広告を見上げる。今更ポケットにあるイヤホンを取り出す気にもなれず、一向に減る気配のない人混みに流されていた。
もういっそこの電車から降りてしまおうかと、現実味のない考えが脳裏にちらつく。電車の中央の方に押し込まれた今、人をかき分けてドアの方へ向かう事の方が億劫だ。
まだか、まだかと、自分が降りる駅を望みながらドアに視線をやる。
そこには今日何度も見た小さく丸まった背中が見えた。
(水瀬さん…………ん?)
その丸まった背中はまるで何かから守るようにまた一回り小さくなっていた。
「……はっ、はっ……」
学校で見た時とはまた違う、それ以上に苦しそうに見えた。
人の間を縫うようにして文字通り垣間見た水瀬さんの表情は、到底人のするものとは思えないほど蒼白で、瞳孔は一点に定まらず、縋るように手すりを掴む手は震えていた。
あきらかに異常だ。何か変なことが起こってる。
そう思うと咄嗟につり革から手を離し、人の間をかき分けながら水瀬さんの方へ向かっていた。
手すりを掴んでいる水瀬さんの手を掴み、声を掛ける。
「ハッ――――⁉」
「やぁ、さっきぶり」
「お、緒方くん……?」
水瀬さんは血の気の通ってない真っ青な表情で俺のことを見上げた。
両目からあふれんばかりの涙を流して、縋るように俺の手をに握り返してきた。
俺は水瀬さんのことを少し引き寄せ、車内を見渡す。
まだなぜ彼女がこんな泣きそうな悲痛な顔をしているのかは分からない。
だけど考えたくもない可能性はどんどん湧いてくる。
何人かが俺達のことを不思議そうな、どこか邪険にするような目で見てきたけれどそんなのは全て無視して怪しい人物を探す。
するとすぐに見つかった。額に脂汗をかいた中年サラリーマンが俺と目が合った瞬間目をそらした。そして、その男の手は丁度水瀬さんの尻の部分に添えられていた。すぐにひっこめていたけれど手遅れだ。もう全部分かった――――痴漢だ。
理解した瞬間、今まで駆られたことのないほどの怒りの衝動に駆られた。
「ッッ―――――――― ‼‼」
それまで心にくべられた心地の良い温かさが、森羅万象を焼き尽くす業火に様変わりし、俺の身体を奮い立たせる。
声にならない怒りを抱き、はちきれんばかりの怒りは爪が食い込むまでの握り拳に変わり、今にも殴りかかろうと躍起になっていた俺に、水瀬さんが縋るように抱き着いてきた。
苦しそうな嗚咽を漏らす水瀬さんの声と、彼女の震える華奢な身体を一身に受け止めた。
俺は空いた左手を彼女の背中に回して抱き寄せる。
(えっ……?)
刹那に覚えた違和感は、一瞬ではあるが俺の怒りを鎮めるほどのものだった。
咄嗟に俺に抱き着く水瀬さんに視線を落とすも、水瀬さんは泣きながら俺の胸に顔を埋めるだけで、何も答えてくれそうな状況じゃなかった。
一抹の疑念と、身を焼かんとするほどの怒りが混在し、眩暈すらしてきた最中、車内に次の駅に着く旨のアナウンスが流れた。それで俺は我に返り、開くドアにもたれかかった。電車の速度はみるみるうちに落ちていき、背後にあるドアが開くと同時に、俺は水瀬さんを抱えたまま、ホームに降りた。
「水瀬さん! 大丈夫⁉」
水瀬さんをホームにしゃがませて声を掛ける。しかし水瀬さんからの反応はなく、掴んだ軽い華奢な肩はまるでそっくりそのまま中身を抜いた剥製に触れているようだった。
電車からホームへ降りる人、ホームから電車に乗り込む人たちが俺達に心配するような視線を向ける。しかしそれだけで誰も手は差し伸べない。みんな仕事帰りで疲れているのか、それとも他人のことなんてどうでもいいのか、何事もなく人を吸い込むだけ吸い込んだ電車は動き出した。
夜の静謐な涼しさだけがそこに残った。
俺たちが降りた駅は線路が二本、路線が一本しか通っていない小さな駅で、太陽が出ているときは暑かったのに、今は学ランを着ていても芯からひんやりと冷える。
「……緒方……くん?」
「あぁ、俺だ」
水瀬さんが俺の名を朧げな声で呼ぶ。とても貧弱な、ぎりぎり俺の名を呼んでると分かる程度の小さな声。俺が返事をすると、水瀬さんは手を這わせて俺の手に触れた。俺のその手を上から覆うように握り返すと、水瀬さんは「うぷっ」と頬を膨らませ、咳き込み始めた。
「ガハッ、ヒアァ、ハァァ……」
今まで呼吸を忘れていたように、一気に空気を吸い込んで肺が一杯になれば今度は一気に吐き出す、また足りなくなった空気を吸う、その繰り返し、苦しそうに胸を抑え込んで何度もせき込んでいる。過呼吸だ。
「水瀬さん落ち着いて。もう電車は行った。今ここにいるのは俺と水瀬さんだけだ」
明らかに彼女の意思に反した身体異常、見ているだけでも辛かったけれど、せめて俺だけでも見ていないといけない気がした。
次第に俺の手を掴む彼女の力が強くなる。それはもう、華奢な少女から繰り出される力ではなかった。俺も必死に抑えていないと姿勢を崩してしまいそうだった。
「う、うぷっ、ガハッ、ガハッ!」
何度も苦しそうにえづく彼女を見ているのはただただ辛かった。自分にできることは無いか、駅員を呼ぶにしても彼女は俺の手を離してくれそうにない。妙案が浮かんでこない俺には、不器用で応用が利かない俺には、彼女の背をさする事しか思いつかなかった。
苦しそうにうずくまる水瀬さんに俺は膝を地面につけながら一歩すり寄り、彼女が縋る左手はそのまま、右手を彼女の背中に回す。その右手で、彼女を刺激しないようにやさしく、ただただ、水瀬さんが落ち着くまで背中をさすった。
「大丈夫。もう、誰もいないから」
誰だろうと、過呼吸で口から唾液を垂らし、うずくまりながら他人に縋る姿なんて見られたくないだろう。幸い、時間はたっぷりあって空気も澄んでいる。時間をかけて落ち着けばいい。
俺はそれを促すように、優しく背中をさすった。彼女が苦しむ毒素を吐き出せるようにと。
すると、突然彼女は俺の右手から手を離し、両手で口元覆った。
「ぶごっ‼」
「⁉」
しかし間に合わなかったのか、水瀬さんは両手の隙間から漏れ出すほどの吐しゃ物を吐きだした。
ベチャベチャと地面に垂れる吐しゃ物が俺のスラックスを汚す。ついさっきまで人体の中にあった生暖かい液状のものが布越しにでも身体に触れて嫌悪感と不快感が濡れたところから脳まで登ってくる。
「ッッ!」
だけど、俺は必死に堪えて彼女から離れなかった。
彼女の頭を捉えて俺の胸に押し当てた。
「……ご、めん……ごめんな、さい……」
涙ながらに小さな声が、水瀬さんの口から出ているはずなのにまるで他人のもののように声質が違う声が、水瀬さんの気持ちを代弁しているようだった。
「もういい……もういいから。大丈夫だよ」
俺の言葉に水瀬さんが泣いているのが分かった。ほんとは大泣きしたいのだろうが、声が出ないんだろう。声といえないような、喉を通って出てくるだけの空気が震えている。
水瀬さんの髪の匂いが鼻に届いた。女物のシャンプーの匂いだ。
水瀬さんの背中の感覚が手に伝わってくる。ゴツゴツとした、でも痩せている身体だ。
水瀬さんの姿が目に付く。少し丈の長いスカートを履いて、胸には水色のリボンが見える。
水瀬さんの声が鼓膜を震わす。少しガサついた中性的な泣き声。
俺は〝水瀬さん〟のことをさすりながら考えていた。水瀬さんは俺が思っている以上に何か大事なものを抱え込んでいる。すべてさらけ出せとは言わないが、もしよかったら少しくらいさらけ出してくれたらうれしいなと、別れの挨拶をしたときに感じた心のぬくもりを惜しみながら、ひたすら水瀬さんに寄り添った。
〇 〇 〇
噂。その人のいないところで話題にしてあれこれ話すこと。
なんとなくネガティブな印象のあるこの言葉の意味を真に理解したのは、水瀬さんが俺のスラックスを汚した二日後だった。
あの後、駅員さんが俺たちのことに気付いてくれて、ホームの清掃をしてくれた。
あんなことがあって水瀬さんを次の電車に乗って帰らせるわけにもいかず、夜風を浴びて落ち着いた水瀬さんは家族に連絡を取り、俺は学校が行っていた内科検診で持ってきていた学校のジャージに着替えて後発の電車に乗り込んだ。
俺が電車に乗り込むその時まで、水瀬さんは一言も発しなかった。
そんな出来事があって、翌日水瀬さんは学校に来なかった。水瀬さんが来なかったことで、水瀬さんが先日遭った被害が徐々にクラスを中心に広がりだした。しかしその隣にいた俺についての話が少したりとも耳に入ってこないあたり、本当に当人がいないところでしか話さないんだなと、しみじみ呆れた。
そしてさらに翌日。水瀬さんはまた学校に来なかった。二日も影が見えなくなったことでそれまでみんな知らず知らずのうちにためていた水瀬さんに関するフラストレーションのようなものを爆発させていた。
その結果、ある噂が流れだした。
『水瀬あおいは、どうやら男らしい』
本来であれば根も葉もない、荒唐無稽な噂にすぎないのだが、こと水瀬あおいに関してはそう一概にも言えない。徐々に暑くなっていた今日この頃でも絶対にタイツは脱ごうとはせず、体育も必ず見学している。また、合服の上からでも見える骨格の厚みや、ペンを持つ指先の厚み、そういう小さなほころびも一か月同じ教室で過ごしていればどんどん折り重なって、それはみんなの疑念になる。
さらに言えば、水瀬さんと同じ中学出身の奴らが「前までは普通に学ランを着ていた」と言ったらしい。具体的に誰が言ったかまでを知っている人は少ないらしいが「誰かがそう口にした」という事実だけが独り歩きして、噂に説得力と現実味を与えてしまった。
そんな噂に真っ向から戦うことなどせず、俺は教室ではイヤホンをして一人考える。
先日水瀬さんと触れ合って所々に覚えた違和感。その回答としてこれ以上ない事実を目の当たりにして、俺はどう思えばいいのか、少し戸惑った。
驚けばいいのか、ガッカリすればいいのか、肯定すればいいのか、否定すればいいのか、賞賛すればいいのか、軽蔑すればいいのか、今自分が何を抱き、どの考えが正解なのか点で分からなかった。
「ねぇ、明日見ちゃん、水瀬さんの噂聞いた?」
「え? うん。聞いたよ」
ふと、クラス内の女子グループの会話がイヤホンを貫通して耳に入ってきた。
「最初は驚いたけど、でも色々納得しちゃったね。あの子、人と話そうとしないし、体育は絶対休むし、そんな理由だったんやね」
「あんまりみんなに知られたくなかったんじゃないかな。だから関わらないようにしてたし、体育もやめてたんじゃない?」
「えー、でもそれってズルくない?」
室長の長峰明日見の周りには、二人の女子が集まり、三人で目下水瀬さんの話をしていた。
長峰さんが水瀬さんを慮るような言葉を吐いた直後、その傍らが否定的な言葉を口にしたのが意外で、意識だけそちらに向けてしまう。
「どんな理由だったとしてもさ、隠して毎日授業サボるのはズルでしょ」
「あ、それ私も思った。なんか羨ましいよね」
「ええ? そうかな? のっぴきらない理由があるのかもよ」
長峰さんは咄嗟に水瀬さんをかばうような言葉を口にするも、他二人はまだ続く。
「なんか都合がよすぎるって言うか、実際ちょっと怖いよね?」
「うん。実際どっちつかずっていうか、何がしたいのか分からないっていうか、すごく不気味で、なんか気持ち悪い」
「ちょっと、そんなこと言っちゃだめだよ」
「でも実際気持ち悪くない? 今まで女だと思ってた人が、男だったんだよ? 私聞いた時寒気したもん」
「それな! あんな恰好して、何考えたんだろうね」
「う、うーん……」
ヒートアップするほか二人を見ながら、長峰さんはどこか気まずそうに口を閉じた。それ以上言っても無駄だと、二対一の劣勢の状態で無理にはやし立てるのは意味がないと長峰さんは思ったのだろう。愛想笑いを浮かべる長峰さんがとても辛そうだった。
実際、声色を気にしてか水瀬さんはあまりクラスの人たちと話している様子は見たことがなかった。それが仇となって、冷たい奴、不愛想でつまらない奴と、みんなどこかで苦手意識を持っていたのだろう。実際、俺も初めはそう思った。それが今回の隠し事があると噂で露呈してしまい、みんなさらに悪印象を強めているんだ。
マズいなと一人窓の外を見つめる。
ただでさえ痴漢にあって傷ついているのに、あんな状態でこの教室に戻ってきたら、それこそさらに傷ついて嫌な思いをするだけな気がしてならなかった。
窓際の席で生暖かい風にカッターシャツを震わせ、外の薄気味悪いほどの快晴を見ていた。
〇 〇 〇
翌週の月曜日の放課後。俺はいつも通り図書館へ足を向けた。本当はそれまでに彼女に声を掛けようかと思っていたのだが、彼女はそそくさと逃げるように教室を出て行ってしまった。あんなことがあったわけだし、教室の空気は不快な噂のせいで濁っていた。その中心にいる彼女だから、逃げたいのも分かるし、図書委員なんかに律儀に顔を出すかは分からないけれど、俺と彼女を繋いでいた、図書委員と言う細い関係に頼るしかなかった。
重たいガラスの扉を開けると、カランカランとベルが鳴った。
すぐに視線をカウンターにやると、もうすでに定位置となった入口より奥側のカウンターに見覚えのある人がいた。
「こんにちは」
すぐさま俺はカウンターに座るその人にいつものように声を掛けた。
そこにいた水瀬あおいは、どこか泣きそうな表情をして俺の方を見上げた。
「っ……こんにちは」
水瀬さんの返事はどこか後ろめたいことを隠す子供のような、弱々しさがあった。俺がいつもの席に座る前に、逃げるように目をそらし、「本、出してくる」とだけ言い残して返却されていた本を書架に戻しに行ってしまった。
図書館のカウンターに座っていた水瀬さんを見た時、自然とうれしさと安心感が湧いた。
先週の約束、守ってくれたんだ。
「…………」
「…………」
品出しが終わって、水瀬さんが戻って来てからもしばらく俺たちの間に会話はなかった。というより、あんなことがあって一週間。今日まで二人の間に会話はなかった。
彼女が学校に戻ってきたのは痴漢に遭った日から三日後の木曜日だった。朝彼女が何事もなかったかのような顔でスカートを履いて学校へ来た時、教室は騒然とした――――ということはなく、気持ちを隠そうと彼女について全く触れなかった。まるでそこにいるのに、いないような、皆がどうしたらいいのか分からなくなって、不干渉に徹していた。
その空気が薄気味悪くてならなかったけれど、だからと言って俺も、彼女にかける言葉を持っていなかった。
教室の空気の流れに反発する勇気も、休み時間に教室から出た彼女を追う理由も、俺にはなかった。
そんなことばかりウジウジとしていると、こうして二人になれた唯一の時間さえも何もなく過ぎていき、全く内容の理解できなかった小説を眺めながら図書館の閉館時間を迎えた。
たった一週間前の夜が嘘のように今晩は蒸し暑くて、カッターシャツなのにあの日と同じように蒸れる。
「……ごめんね」
図書館から昇降口までは校舎を横断しなければならない。昇降口までの長くも短い、帰路の間で水瀬さんがまるで独り言のようにつぶやいた。
「迷惑、かけた」
俺たちの状況と、彼女の声音からこの前の痴漢に遭った日のことを謝っているのかはすぐに分かった。
「いいよそんなこと。謝罪はあの場でもらった」
違うだろ。かける言葉が違うだろ。
水瀬さんにかける言葉は色々考えてきたけれど、それはどれも俺から声を掛けてあくまで会話の主導権を俺が握っているときのものばかりだった。だからこうして向こうから声を掛けてくる場合は、全部アドリブだ。
「そうだね……ボクがしなくちゃいけないのは、説明か……」
どこか諦めたような寂しそうな声が耳に届いたと思うと、俺より少し前を歩いていた水瀬さんがクルッとターンするようにこちらを向いた。スカートが遠心力で少しだけ浮かび上がり、彼女の身体をなぞるように視線をやると、達観したようにも、虚勢を張っているように見える、寂しそうな顔と目が合った。
「あの日、緒方くんはボクの身体に触れたよね。と言うより、ボクが抱き着いてしまったんだけど」
「……それは、悪いと思ってる」
「なんで緒方くんが謝るのさ」
「…………」
「なんとなく、分かってるんだよね?」
「それはっ……」
「いいよ。クラスの雰囲気見てたら分かるから」
「っ……」
「でも、できればまだ誰にも言わないでもらえるとありがたい、かな」
「それは、もちろん」
「ありがと……えっとね」
水瀬さんは頬をかきながら、どこか逡巡するように、張り付けたような薄ら笑いを浮かべ、迷いを飲み込むように言葉を探しているようだった。
「ボク、水瀬あおいはこんな成りだけど、『男』なんだ…………ごめんね」
水瀬さんは粛々と事実を述べた。
水瀬さんの背後で沈まんとする西日が、水瀬さんの表情に影を作ってしまっているせいでよく見えないが、薄目で見る水瀬さんの表情は確かに「男」のそれだった。本人からそう言われてからそう見える錯覚の類だろうが、本人の言動と俺の目に映る情報が間違いないと言っている。
「……そっか」
驚くべき事実を目の当たりにして、俺がやっと口にできた言葉はそんな言葉だった。
もちろん驚いている自分もいるが、それよりも納得してしまった自分がいた。水瀬さんから感じていた違和感がこれであらかた説明がついてしまうのだから事実だと認めざるを得ない。
「今まで、騙しててごめんなさい」
「待て」
水瀬さんの謝罪が少し引っかかった。言葉の綾かもしれないけれど、水瀬さんの尊厳にかかわるかもしれないと思い、咄嗟に止めてしまった。
「待って、それは違うでしょ? 何も俺や他のクラスの奴らを騙すためだけにその格好をしているわけじゃないんだろ? 何かのっぴきらない理由があるんだろ? だったらいいじゃんか。自分の姿に、必要以上の責任を背負わなくていいんじゃないか?」
自分でも何を言っているのかよく分からなかった。
水瀬さんもポカンとしている。
「ごめん、余計なこと言った。忘れてくれ」
なんか水瀬さんの反応を見て自分が如何に見当違いなことを言ったのかを痛感してしまった。恥ずかしい。それだけ俺自身も自分じゃ気づかないくらい動揺しているのだろうか。
「……ふふっ」
しかし、水瀬さんはポカンと開いた口を閉じると、かわいらしく微笑んだ。
「言ってることはよく分からなかったけど、ボクのことを気遣ってくれたのは分かったよ」
「お、おう……そう言う事にしておいてくれ」
そんな風に受け取ってくれたのならそれでいい。俺の思いともそれほど相違はないし、そう言う事にしておいてもらおう。
噂のこともあって、ほとんど確信に近い疑念は持っていたけれど、やはり本人の口から改めて聞いてもその実態はよく分からない。俺が観測している限りではこの手の人は初めてだし、俺はそんなことを思ったこともないし、イマイチ要領はわからない。
さぞ今まで生きづらかっただろう。その生きづらさを胸に抱えながら、自分の力でここまで実際に行動に移したその決意と行動力には敬意すら抱く。でも、それで水瀬さんは満足なのだろうか? 今の教室の空気を肌で感じていると、他人からあんな風に陰口を言われるのが水瀬さんのしたかったこととは到底思えない。
たしかに水瀬さんは、自分を変える力は持っているのかもしれない。でもその力が自分より外、クラス全体にまで通用するかはまだわからない。
俺はそれが怖くてたまらない。いつかここまでできた水瀬さんが他人の感情一つで傷ついてしまうのではないか。なんなら俺はその片鱗を痴漢という最悪の形で一度見てしまっている。だから必要以上に心配に思うんだろうな。
俺の前を歩く水瀬さんを見ているとどうしてもそんな心配がわいてくる。だけどそれを口にするのは水瀬さんに踏み込みすぎているように思えて黙っておいた。
「じゃあ、また今度」
「あ、うん」
昇降口で下駄箱を前にして水瀬さんは短く言い残して颯爽と校舎の外へ消えていってしまった。電車の時間までもう少しあるし、同じ駅へこれから向かうのに、今そんな挨拶をしちゃうと駅で鉢合わせたとき気まずいんじゃないかと思ったが、その日、駅構内どこを見ても水瀬さんの姿はなかった。