7 クレーマーの目的
駅でたまに見かけるのが、駅員に食って掛かる人です。
中には暴力行為に及ぶ人も居ますが、一体なんでそうなるのか?
駅員にクレームをつける主な理由は、列車の遅延になります。
延々と文句を言い、駅員をひたすら罵倒する姿は、滑稽というか愚かさをこれでもかという位に我々に見せつけます。
以前ですが、列車が駅に車掌を置き去りにして出発するという珍事がありましたが、それもまた狂ったようにクレームをつけた乗客がいたからです。
列車が出発しようとしたら、ホームに居た子供たちが車掌に大変だ、大変だと何か異変を伝えてきました。
車掌は列車を降り、子供たちに事情を尋ねると、なんてことない友達が遅れるから出発を待って欲しいと、そんな感じでした。
当然、車掌は子供たちのそんなお願いを聞くはずもなく、さて列車に戻ろうとしたら出発してしまいました。
車掌は、出発の合図を出していなかったにも関わらずにです。
では、何が起きたのか?
実は先頭車両、つまり運転席の扉に向かって、ある乗客が激しい暴言のみならず、運転室の扉を殴る蹴ると恫喝したのです。
乗客に言わせると、遅れたらどうする気だと自身の正当性を訴えたそうですが、車両安全規則の観点から、これはまさに威力業務妨害行為となりました。
この手の人を馬鹿な奴だとするのは、本項の目的ではないので、このクレーマーは何を望んでいたのか、何でそんなに激昂したのか?
それについて説明すると、自分が損をしたと錯覚してしまったと言えます。
列車が定刻通りに出発しなければ、それによって到着時間が遅れ、損をしたことになるからです。
そしてそこに、損得勘定は吹っ飛びます。
どうしてかと言えば、乗客はお客であり、乗務員は自分に従うべき下僕と錯覚しているからです。
全能感を否定された、いわば子供の感覚であり、ただ思い取りにならないことに憤っているだけの認知機能が著しく低下した、ただの動物に成り果てたのです。
だって、そんなことをすれば場合によっては警察のご厄介になるだけではなく、それで事故でも起きたらどうするのか?
実際、福知山線脱線事故でも、似たような状態だったと考えます。
遅延した遅れを取り戻すべく運転士は、列車を規定速度をオーバーしてカーブに突っ込み、脱線して死傷者多数を出しました。
よく考えれば分かりますが、事故が起きたら遅れるも何もありません。
しかし、人は時としてこの当たり前の安全確認することを忘れ、事故を防ぐ為の安全基準を無視するような行動を取ります。
先日起きた羽田空港における海保機とJAL機との事故も、似たような錯覚と思い込みが支配したことにより起きました。
海保機は管制官からの指示を自分に都合よく解釈し、しかし管制塔のメンバーもまた、海保機は規定通りに待機していると思い込み、このような事故が起きました。
休日で空港はごった返しており、管制官が確認作業を怠った可能性もありますが、いずれにせよキャパオーバーを精神論で乗り切ろうとするのは日本人のお家芸なんでしょう。
だって、事故が起きても管制塔の人員を増やすのではなく、管制官が各々気を付けるという、典型的な精神主義だからです。
つまり、全てがクレーマーであり、そのクレーマーに支配されている状態になります。
そこに理性や合理性は欠片も無く、ただただ全能欲求とか支配欲求を満たすべく、自身よりも弱い立場の人間に理不尽な行為を強要します。
それが大川原化工機冤罪事件のように、誰もがこれは事件ではないと思っていても、部下たちは存在しない証拠を求めて東奔西走するしかありません。
まさに、典型的なブラック企業体質でしょう。
ここまでくると、もう証拠をねつ造するしかなくなります。
だって、上司の期待に応えるのが良き組織人なら、その組織の外に居る存在なぞ、どうなろうが知った事ではないからです。
そう、厄介なのは彼らは無実の人ですら人権を制限出来る権力を持っていることであり、その権力に振り回されると、無実の人も犯罪者扱いされます。
自白し、罪を認める。
こうすれば改心したと認め、情状酌量の余地が発生します。
全能者に縋るのだから、多少は慈悲を与えないといけないからです。
だから、公判途中で無実を主張したり、えん罪を主張するのは神に対する冒涜行為になります。
そこまで思いあがっているからこそ、彼らは未だに冤罪被害者を犯罪者と見なしています。
つまり、実際の犯人と違うとか、えん罪とかはどうでもよく、自分が裁定した、自分が犯罪者と決めたのだから、それこそが真理であるんだと。
まさに子供の感覚ですが、人は権力を持つと幼児化すると言うので、案外そんな気分なのかもしれません。
そう考えると、えん罪とは子供に権力を与えたからこうなるという見本であり、そうならない為にも、大人に権力を委ねるべきでしょう。
問題はその境界であり、どう判断するかです。
全能者の裁定なんですから、誰も逆らえません。
番人を監視する仕組みこそが、求められています。
冤罪を無くすには、結局、人を信用してはいけないということです。
しかし、それが出来ないから、こうして冤罪がまた起きます。
それが、課題なんでしょう。