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謝罪と冤罪  作者: せいじ
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3  足利事件

 足利事件については、えん罪が明らかになってからワイドショーなどでよく報道されたので知っている方が多いと思いますが、簡単に説明します。


 足利事件は、1990年5月に栃木県足利市で発生した殺人事件です。


 被害者は当時4歳の女児であり、しかも当時、この付近では連続して幼女誘拐殺人事件が発生していました。


 世間を震撼させた事件になります。


 その時に犯人として検挙されたのが、菅家利和氏になります。


 菅家氏は当時幼稚園のバスの運転手をしていましたが、1991年頃に勤務先に刑事の聞き込みがあり、それが原因で解雇されてしまいました。


 逮捕される迄は、菅家氏は無職でした。


 そして1991年12月に、警察は足利市内に住む菅家氏を、猥褻目的誘拐と殺人の容疑で逮捕しました。

 逮捕の決め手は、被害者の下着に付着していた体液のDNA型と菅家氏のDNA型が一致したことになります。


 菅家氏は当初は事件の関与を否認していましたが、警察や検察の厳しい追及に屈し、ついに犯行を認めました。


 特にこの時に採用されたプロファイリングやDNA型鑑定が決め手になり、菅家氏の犯行は確実とされました。


 しかし、菅家氏は裁判では否認に転じましたが信用されず、そして無期懲役刑が確定し、実に17年間も服役しました。


 裁判で犯行を否認したことで、情状酌量の余地が無かったと判断された可能性があります。


 無期懲役刑における、平均仮出所はだいたい30年以上の服役期間を経過してからになり、一見すると早い仮出所になります。


 それは菅家氏が模範囚だからではなく、彼が無実だと証明されたからです。


 実はDNA鑑定が、再鑑定で覆されたのです。


 足利事件発生時のDNA鑑定は、精度としてはあまりにも低く、せいぜい参考にすべき程度の証拠能力に過ぎませんでした。


 しかし、他の証拠が貧弱な上に弁護側の証人もいたので、”科学”の力をもって犯罪の立証を試みたのが、今回の事件や裁判でした。


 DNA鑑定を捜査に組み込もうとする、そんな時期だからでした。


 菅家氏は刑務所に収監されてましたが、度々再審を請求し、ついに2009年5月に再審請求が通り、DNAが再鑑定されました。


 すると、弁護側鑑定人はもちろん、検察側鑑定人すらもDNAは一致せずとの結論を出しましたが、検察は諦めきれませんでした。


 高等検察はさらに、捜査中に誤って捜査員などの汗などが付着した可能性を考え、当時の捜査関係者との比較も行いましたが、いずれも不一致となり、試料が正しく犯人のものであることも明らかとなりました。


 これは真犯人を特定するための有力な証拠ともなりますが、この時点で菅家氏の逮捕から実に17年以上が経過しており、事件は既に時効が成立していて、真犯人を逮捕や起訴ができる機会は法的に失われました。


 当時事件の指揮を執った元刑事部長である森下昭雄氏が、「まだ(菅家の)無罪が確定したわけでは無く、自供も得ているし、(菅家が)犯人だと信じている。」と報道陣に語ったところ、クレームが殺到したそうです。


 しかも、菅家氏が犯人ではないという証言が事件発生時に出ており、しかも栃木県警は目撃証言に基づいて捜査もしていました。


 しかし、その事件発生時における目撃証言に基づく捜査も唐突に打ち切りとなり、怪しい独身男性を犯人として決め打ちしました。


 犯人かもしれない前科者から割り出した者を重要参考人すらも、これによって被疑者になることはありませんでした。


 笑えないのが菅家氏の身柄を拘束している最中にも、同様の幼女誘拐殺人事件が発生していたことにあります。


 警察が間違いを冒し、しかもその間違いを正しいと認識した結果、少なくとも数人の犠牲者が出たことになります。


 警察が正しく操作していれば、これらの犠牲は無かったかもしれません。


 だからこそ、警察は非を認めず、菅家が犯人に違いないと頑なになったのです。


 菅家氏などの無関係の人をを犯人と決めつける感覚を、心理学では確証バイアスと言います。


 そしてそれが間違いとなっても、一切非を認めずに自分たちの正しさを信じる感覚を、認知的不協和とも言います。


 人は間違えるので、すべて警察が悪いとは言えません。


 何故なら、そういった間違いを無くす為にあるのが、科学による捜査だからです。 


 ただ、その精度を無視したら、それはもはや科学ではなく、信仰になります。


 その科学でもって真犯人とし、最新の科学でもって犯人ではないと分かったのだから、それに従えばいい。


 でも、それが出来ない。


 何故なら、間違いを認めたら謝罪をしないといけないからです。


 人は信仰が絡むと、それは正義の問題になり、間違いはありえなくなるからです。


 間違いは悪だからです。


 しかもそれは一刑事部長の問題ではなく、全捜査員や引いては警察全体の信用に関わるからです。


 だから、間違いを認める事なんて論外なんです。


 恐らくですが、森下元刑事部長は、まだ菅家氏が犯人であると思い込んでいるはずです。


 そんなはずはないと思われますが、実は日本人特有の文化や慣習とかが絡み、一度こうだと決めつけると、もうそこから外れることが一切出来ません。


 信仰の怖さは、ここにあります。


 郵便不正事件も同じでしょう。


 俺がこいつを犯人と決めたんだ、だから証拠なんて要らない、無ければねつ造すればいい。


 だって、俺たちが正義だから。


 その正義の味方が、こいつが犯人だって言っているんだから。


 推定無罪も罪刑法定主義も、なんのそのです。


 我れこそが、法なりと。


 

 犯人が真犯人である必要は、どこにも無いんですから。


 

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