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謝罪と冤罪  作者: せいじ
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1  はじめに

 日本では何か問題が発生すると、当事者に対してはよく、謝罪はしないのか、謝れ、詫びろと言われますが、では何故、詫びなければならないのか、実はまともに説明出来る者はいません。


 なにがしかの損害が発生したのなら、まあ謝罪を求めるのもいいでしょうが。

 しかし、その求め方に問題があったり、あるいは具体的に何が問題なのかを問うても、例えば返事が遅いとか、先方が怒っているから謝れとか、何が問題なのかよく分かりません。


 例えば、不祥事が発生した企業のトップの記者会見で、経営者たちが横並びで謝罪するのをよく見かけますが、しかし彼らは一体なにに対して謝罪しているのか解りません。


 再発防止に努めますとか、役員報酬を返納しますとか、そもそも問題をどう認識し、どうすべきだったのかの説明があまりありません。


 中には、私どもは知りませんでしたとか、こんなことになっていたことに驚きを禁じ得ませんとか、こうなるとガバナンス云々以前の問題でしょう。


 それで謝罪されても、どういうことですかとなります。


 つまり、謝罪に意味は無いんです。


 それでもあえて謝罪するのは、何か理由があるはずです。


 その理由は、世間を騒がせたことに対しての謝罪のようですが、中には被害者が謝罪している場面も見受けられます。


 謝罪と言えば、だいぶ前に起きた事例ですが、高崎山動物園の赤ちゃん猿の名前を巡っての騒動がありました。


 英国王室の赤ちゃんの名前を、市民が記念にと赤ちゃん猿の名前に応募したらしく、それが当選して赤ちゃん猿に名付けられました。


 だが、ここで騒ぎがおきました。


 猿に人間の赤ちゃんの、しかも英国王室の赤ちゃんの名前を付けるなんて、英国王室に申し訳ないと思わないのか!とか、英国王室に失礼ではないのか!!とか、英国王室に謝罪しろ!!!とかがありました。


 クレームに屈した動物園側は命名を撤回し、世間を騒がせたことを謝罪しましたが、今度はそれはおかしいとの苦情が殺到しました。


 赤ちゃん猿の名前は、市民からの公募で付ける決まりなのに、それをクレームが来たから撤回するなんて、おかしいじゃないかと。


 結局、新聞社がわざわざ英国王室に問い合わせをした結果、日本の動物園が赤ちゃん猿にどのような名前を付けようが、英国王室は一切関知しないとの言質を貰いました。


 英国王室も、困ったことでしょう。


 どう反応すればいいのか、首を傾げたことに違いありません。


 だが、日本人にとって謝罪を求めること自体に意味があるので、英国王室なんて本当のところどうでもいいはずです。


 だって、英国王室からクレームが来た訳もなく、どこかの権威ある団体から文句が来た訳でもないのですから。


 つまり、英国王室云々は口実に過ぎません。


 当時はコンビニ土下座店長問題もありましたが、その土下座している画像をわざわざインターネットにアップするなど、常軌を逸しているとしか思えません。


 私が土下座を強要した犯人ですと、声高に宣言しているようなモノだからです。


 それともネットにアップしたら、イイネが沢山付くと思ったのだろうか?


 川崎ではある不良グループが少年に対して謝罪を求め、その謝罪が納得出来ない、態度が悪いとして見せしめにその少年を裸にして川で泳がせ、最後は切り刻むようにして殺害されました。


 この少年が殺された理由は、謝罪の仕方が悪かったからであり、懲罰として切り刻むように殺されれました。


 そんなことは、果たしてありなのだろうか?


 謝罪しないから殺すって、どうかしているとしか思えません。


 しかし、これが日本人の文化であり、慣習なのだからエスカレートする人が現れても、不思議ではないでしょう。


 よく日本人はとりあえず謝る癖がありますが、これはいわば宗教的儀礼による挨拶のようなもので、欧米の握手と本質は同じでしょう。


 何かあると、ちょっとすみませんとか、ごめん下さいとかも、よく考えたら変ですし。


 でも、宗教的儀礼だとしたら、変でもそれが礼儀となります。


 しない方が、おかしいからです。


 しかし、そこにあるべき宗教の姿が消えれば、残るモノは一体なんなのだろうか?


 宗教には守るべき教義があり、その教義に基づき人々は行動します。


 例えば無宗教だとしても、それでも人々は宗教的であり、そこに教会がなくても自然と規範意識や礼儀が身に付きます。


 周りがそれをやっていたり、その所作がキレイだと、自然と真似をするモノだからです。


 日本人キリスト教徒でも、お寺や神社に参拝すれば手を合わせるものですし、生活自体にもなんらかの宗教的な慣習が染み渡っています。


 何故かと言えば、その宗教的な慣習が人々の関係の橋渡しを行い、かつ潤滑油になっているからです。


 同じ感覚、同じ行動は人々に安心感を与えます。


 行動とか考えが、容易に予測できるからです。


 それは予測が可能の範囲内であるべきであり、しかしそれとまったく違う人がいれば、すぐに不協和音が起こります。


 それが外国人なら問題はありませんが、日本人が特に排他的と言うわけではありませんが、余所者に対しては驚くほど冷たく出来ます。


 ある地域で起きました。


 都会からの地方移住者を募集し、若い人に来てもらい限界集落から脱却しようとしたら、今度はそのせっかく来てくれた若者を排除にかかりました。


 これに驚いた役所やボランティアが、なんとか住民同士の橋渡しをして、今に至っているそうです。


 これは地方移住の成功例と言われる、海士町で起きた事例です。


 町の神事や行事ですらままならない、人が居なくて追い詰められているはずの限界集落ですらそれですから、他は推して知るべしでしょう。


 ほんの些細なトラブルですら、それが国を越えての大騒ぎになり、やがて世界に恥をさらしました。


 それが、赤ちゃん猿に英国王室の赤ちゃんの名前を付けるなんて、ケシカラン!謝れ!になります。


 動物園側が初動できちんと謝らなかったから、ああいった大騒動になりました。


 では、その高崎山動物園は、どう謝れば良かったのか?


 誰に謝るべきだったのか?


 何が正解だったのだろうか?



 日本における謝罪の在り方から、日本人の信仰観や文化を読み解いていきたいと思います。



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