02 バルゴア領での思い出
バルゴア領を懐かしく思ったせいか私は、生まれ育った王都を出てバルゴア領に向かったときのことを思い出していた。
とても遠かったけど、リオ様や優しい人たちに囲まれての旅だったから、つらいと感じたことは一度もなかった。
頭をよぎるのは、美しい景色に見惚れ、生まれて初めて経験することに感動したことばかり。
そんな夢のような日々は、バルゴア領についてからも続いた。
リオ様のご両親であるバルゴア辺境伯と辺境伯夫人、そして、リオ様の妹シンシア様は、私をとても温かく迎え入れてくれた。
特に辺境伯は「すぐにでも結婚式を挙げよう!」と張り切っていた。
その理由が「準備に時間をかけて、その間にセレナ嬢の気が変わったら大変だ!」だったので、リオ様が「どうして、セレナが俺を嫌になること前提なんだ?」と複雑な表情をしていたことを思い出す。
大慌てで準備を進めている間に、タイセンの王太子からリオ様宛に結婚式の招待状が届いた。式は三ヶ月後とのこと。
リオ様と相談した結果、自分たちの結婚式の準備はひとまず置いておいて、タイセンに出発するまでの間、のんびり過ごし体調を整えようということになった。
ちなみに、タイセンの王都はバルゴア領側にあるため、三日もあれば着くらしい。
もしかすると、また長旅になるのかも? と覚悟していた私は、それを聞いてホッと胸を撫で下ろした。
のんびりと過ごすバルゴア領での生活は心地好く、驚きと笑いが絶えなかった。
ピクニックでは、リオ様の護衛騎士のエディ様と、私の護衛騎士を目指しているコニーがなぜか言い争いになり川に落とし合ってずぶ濡れになるし、牧場に行くと私の専属メイドになってくれたアレッタが巧みに馬を操って周囲を驚かせた。
「すごいわ! アレッタ」
私が拍手すると、アレッタは「故郷ではよく乗っていたので……」と恥ずかしそうにしている。
それを見たコニーが「アレッタ! あたしに馬の乗り方、教えて‼」とお願いしていた。バルゴア領でコニーが正式に騎士になるには、馬にも乗れないといけないらしい。
「は、はい! コニー先輩‼」
それからは、二人で乗馬の練習をしている姿をたびたび見かけるようになった。
邪魔をしないようにと思い、声はかけなかったけど、夢に向かって一生懸命頑張っているコニーの姿は輝いていた。
私も少しでも早くバルゴア領に慣れようと、辺境伯夫人の教えを請おうとした。でも、夫人は「急がなくていいのよ。頑張りすぎると体を壊してしまうわ。あなたたちの結婚式が終わってから、ゆっくり始めましょうね」と微笑む。
その温かい笑みが亡き母と重なり、私の胸は熱くなった。
そんなバルゴア領での暮らしの中、不思議とリオ様の妹シンシア様には、ほとんど会うことがなかった。リオ様は「シンシアは、出不精だからなぁ」と笑っていたけど、シンシア様はとても大切にされている深窓のご令嬢なのね、と私は理解した。
嫌われているわけではなさそうなので、思い切ってシンシア様をお茶に誘ったら、恥ずかしそうに俯きながら「はい」と言ってくれた。
そのお茶会には、リオ様も来てくれたので、三人でのんびりとお茶とお菓子を楽しんだのはいい思い出だ。
お茶会の最中、ふと気がつくとシンシア様が、お茶を淹れる私を見ていた。
リオ様と同じ紫色の瞳が、キラキラと輝いている。
お茶が入ったカップをシンシア様の前に置くと、「セレナお姉様が、淹れてくださったお茶……」と言う呟きが聞こえてきた。
「シンシア様のお口に合えばいいのですが」
「合います! 絶対にこのお茶は、私の好みです!」
「そうだ! セレナが淹れてくれたお茶なんて、美味しいに決まっている‼」
二人ともまだ飲んでいないのに、興奮ぎみにそんなことを言ってくれる。
逞しいリオ様と可憐なシンシア様。外見は少しも似ていないのに、その表情はそっくりだった。
そんな二人がとても可愛らしくて、私はお茶会の間中、ずっとニコニコしていたのよね。
「セレナ」
リオ様の声で、私は我に返った。楽しいバルゴア領での思い出に浸り、無意識に口元が緩んでしまっている。
でも、今は隣国での夜会中。他人に陥れられないように気を張り詰めていないといけないのに。
「ボーッとしてしまい、すみません」
私が謝ると、リオ様は不安そうな顔をした。
「もしかして、体調が悪いのか?」
「いいえ。そうではなく、リオ様の側にいると安心してしまって、つい気が緩んでしまうんです。しっかりしないと……」
こんなこと、リオ様に出会うまで、絶対にあり得ないことだった。
リオ様を見ると、繋いでいないほうの手で口元を押さえ小刻みに震えている。
「リオ様?」
不思議に思って尋ねると「俺の婚約者が可愛すぎる‼」と独り言のような声が聞こえてきた。
リオ様って、いつも私に甘すぎるのよね……。このまま頼りきっていたら、ひとりでは何もできないダメ人間になってしまうわ。
私は改めて気を引き締めた。
「リオ様。ディーク殿下の婚約者様にもご挨拶したいのですが、問題ありませんか?」
「もちろんだ」
他国のいざこざには関わらないほうがいいという人もいるかもしれない。でも、リオ様ならそう言ってくれると分かっていた。
壁際で俯いているディーク殿下の婚約者に、また数人の令嬢たちが近づこうとしている。
ニヤニヤと笑っているので、親しい仲ではなさそう。
そう判断した私は、令嬢たちを押しのけて、婚約者に近づいた。
押しのけられてムッとした令嬢たちは、背が高く逞しいリオ様を見て驚いたのか何も言わずに後退る。
そんな彼女たちを無視して、私は壁際の女性に挨拶した。
「ディーク殿下の婚約者様とお聞きしました。エルティダ国から来たセレナ=ターチェと申します」
ゆっくりと顔を上げた女性の瞳は、エメラルドのように綺麗な緑色だった。
「……アイリーン=タゼアと申します」
声に力はないけど、知的な話し方だった。この女性は決してディーク殿下が言っていたような女性ではない。
私はわざと周囲に聞こえるように、隣にいるリオ様を紹介した。
「こちらは私の婚約者、リオ=バルゴアです。アイリーン様、ぜひ私たちと仲良くしてくださいね」
そのとたんに、周囲にいた令嬢たちの顔色が変わる。何かをひそひそと言い合ったあと、私たちから離れていった。
これで、この夜会の間くらいは、アイリーン様は心穏やかに過ごせるかもしれない。こんなことはただの自己満足だけど、見て見ぬ振りをしたくはなかった。
しばらくアイリーン様と他愛もない会話をしたあと、私はリオ様と共に夜会会場をあとにした。
さすがに、今日タイセンに到着したばかりなので、あまり無理はできない。
王宮内にある来客用の部屋に戻ると、騎士服に身を包んだエディ様とコニーが出迎えてくれた。部屋の中ではアレッタが「お疲れ様です」と微笑んでいる。
部屋の中に入ったとき、ようやくリオ様が私の手を放してくれた。当たり前のことなのに、少しだけ残念に思ってしまう私がいる。
「セレナお嬢様、すぐに入浴されますか?」
私のアクセサリーを、アレッタが手際よく外していく。
「そうね……。少し待ってくれる?」
私の横では、エディ様がリオ様に報告をしていた。
「リオの指示通り、王宮内の騎士に挨拶を兼ねて差し入れをしておいた。王宮メイドのほうにはコニーとアレッタが行った」
リオ様が言うには、敵地でもそうでなくても、情報集めは戦において最優先事項らしい。
それを聞いたときは、タイセンと戦争でもするのかしら? と思ってしまったけど、私を危険な目に遭わせないために必要なのだと熱く語っていた。
上着を脱いだリオ様は「どうだった?」と真剣な表情でエディ様に尋ねている。
「それが、今の王族はだいぶややこしいことになっているんだと。なんでも、第一王子の婚約者である聖女ライラに、第二王子が横恋慕していたらしい」
「カルロスの婚約者を、ディークが口説いていた、ということか?」
「まぁ、そうだな。いよいよ二人の結婚が決まり、第二王子に聖女を諦めさせるために、無理やり婚約者を宛がわれたそうだ」
「それがアイリーン嬢ということか?」
「そうそう」
報告を聞きながら私は、ディーク殿下がアイリーン様にひどいことを言っていた理由はこういう背景があったからなのね、と理解した。
たしかに、この情報を知っているのと、知らないのでは立ち回り方が大きく変わってくる。
でも、聖女ライラ様を愛していたはずのディーク殿下は、リオ様に私を『紹介して』と頼んでいた。
ライラ様への想いは、もう捨てたのかしら?
エディ様の報告が終わったようなので、私はアレッタが準備してくれていた浴室に向かった。