第8話 不吉な前兆
「もとよりそのつもりです。ここに持参した鉄砲は全てお譲りします」
信長はいとも簡単に承諾した。
「それと、鉄砲は扱いが難しゅうございます故、扱いに長けたものを幾人か遣わしましょう」
「ほう。それは有り難い」
利政もなんの疑いもなく感謝した。
(久助を送り込もう。あやつなら上手く美濃の情勢を事細かに伝えてくれるに違いない)
信長はそんな考えもあって、承諾したのだ。
余談ながら、この久助というのが後の光秀と並ぶ織田家の宿老・滝川一益である。
「では、今後もよしなにお頼み申します」
「うむ。婿殿も尾張一国を束ねるのは大変であろう。いつでも儂を頼るが良い」
会談は無事に終了した。信長は尾張へ帰り、利政も、兵を率いて攻め込まんと準備している高政に中止の命を出した。
鉄砲二百丁が斎藤家に譲渡された。なぜ二百丁になったかといえば、信長は駿河、遠江を治める今川家との合戦に勝たねばならず、利政が
「全てと申したのはただの冗談じゃ。そんなに要らぬわ」
と、笑い飛ばしたからである。
ともかく、この正徳寺の会見は何事もなく平和的に事を終えたのである。
「織田上総介は大した者だ。あれはこの先、きっと何かを成す」
光秀はその晩、利政に確信めいたことを伝えられた。
「十兵衛、そのときは……必ずお主が力になれ」
「はっ。しかし、その時は御屋形様が織田殿をお助けになるのでございましょう。私ごときが力になれるとは思いませぬ」
「ふっ。儂ももう長くはない。上総介が大きくなった時に生きておるかどうかはわからぬ」
利政は少し寂しいような目を虚空に向けた。
※ ※ ※
年が明けた正月――。
信長は苦境に立たされていた。
「報告します。重原城陥落! 山岡伝五郎様、討ち死にっ!」
那古野城の広間に重い沈黙が流れる。今川方の攻勢に耐え切れず、次々と味方が敗れていく。
それだけではない。
清洲城主である織田彦五郎信友が信長に敵対し、背後が脅かされているのだ。
「報告! 緒川城に今川勢が押し寄せているようです。緒川城の水野様より、後詰の嘆願が来ております」
(兵が足りぬ)
信長は焦る。
今、緒川城へ援軍に向かえば、この那古野ががら空きになってしまう。そんな好機を織田信友が見逃すはずがない。たちまち奪われてしまうだろう。
(如何するべきか)
「殿」
呼ばれた方に目を向けると、柴田勝家がこちらを見ている。
「殿、ここは斎藤殿に助けを乞うほかござりませぬ。今すぐ美濃へ使者を立てる必要があるかと」
「やはりそうか……」
苦々しい思いがあった。昨年、同盟を再確認したとはいえ、美濃に援軍を乞うというのはあまり気が進まないのだ。
しかし、今はそれより他に道はない。
「そうだな、舅殿に頼むとしよう」
「はっ。では某はすぐに美濃へ参りまする」
「うむ。頼んだぞ、権六」
「ははっ!」
※ ※ ※
「婿殿も大変なものじゃのう。無論、儂は協力する」
「忝なきお言葉、有り難うございまする」
「だが兵を集めねばならぬ。しばし、お待ちいただけるかな」
稲葉山城へ柴田勝家が現れた。だが、すぐに助けに行くという訳にもいかなかった。兵が集まらぬというのはただの口実であり、本当はもう少し深刻な状況にある。
「御屋形様!」
柴田勝家が退席した後、高政が声を上げて意見した。このところ、利政と高政は衝突することが増えてきていた。それは、利政のことを『父上』と呼ばないことからもうかがい知れる。
「信長もこれまでにございます。ならばわざわざ負け馬なんぞに乗らずとも――」
「黙れ! お主の意見など訊いておらぬわ」
「いえ、言わせていただきます。信長ではなく、清州の織田彦五郎殿に協力するべきです!」
高政は元来清洲との結びつきがあった。
「……黙れと申しておる。 口を挟むなぁ!」
しかし、あまりの剣幕に、高政も口を噤む。
「……御屋形様」
しばらく間を置いて、稲葉良通が言った。
「しかし、若君のお考えも一理ございます。もう一度――」
「これはもう儂が決めたことじゃ。皆、下がってよい。」
稲葉山城内に不協和音が生じ始めている。
「柴田殿、これから織田殿をお助けに参ろう」
「はっ、主に代わりまして御礼申し上げます」
「うむ、伊賀守」
名前を呼ばれ、安藤守就が頭を下げる。
「お主、一千の兵を連れて那古野へ向かえ」
「承知つかまつりました」
信長はこれにより今川方の村木砦に向け出撃、見事陥落させて勝利を飾ったのだった。
この勝利は信長率いる新生織田家の成長の序章とも言える。
一方で、美濃の斎藤利政はこれから滅びへと転げ落ちてゆく……。
「御屋形様がそのように?」
「はい、それはもう凄い剣幕にて、高政様も驚いておられるようでした」
「そうか」
明智城に戻った光秀は、まず一番に叔父の部屋へ入った。
今まで光秀を後見してきた叔父・光安も年を重ね、近頃は病がちになってこの城に籠もっている。
光秀は今日の出来事を光安に話した。
「御屋形様と若君については、前々からあまりそりが合わぬと思っておったが……。それほどまでに悪いとは……」
「はい。あんな様子では、我ら家臣も意見するのをためらってしまいます」
「そうであろうの。到底良いことではない。御屋形様も――ゴハッ」
「叔父上⁉」
「大事ない。……御屋形様もそのあたりのことがわからぬお方ではないはずなのだが」
美濃は斎藤利政が治めるようになって以来安定し、他国に比べると大きな戦もあまり起こっていない。民たちも美濃は暮らしやすいと思っている。
だが、その安全神話は突然、崩壊へと向かうことになる――。